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「デスストランディング」考察その8:ヒト・クジラ戦争説#2

DS現象は人間を標的にしたものかもしれない。そしてその目的や背景もあくまで人間スケールの事象だろう。

そしてもしそれが事実だとすれば、作中の多くのことをまた別の観点から見直す必要がある。ビーチとは何なのか、またその向こうからやってくるBT(Beached Things)とは何なのか。

通常、多くの神話では死後の世界とは、また別の人間たちの世界である。死んだ人々の生活の場となるような、別の国や集落のような場所である。地獄、天国、ヴァルハラや黄泉の国。エジプト人たちは、死後の人々のために家畜や様々な聖獣たちも、ミイラに加工して墓に埋めた。

一方でビーチという概念は、非常に現代的な死の風景だろう。宗教性や民族性というものがなく、その先に何があるのかも描かれない。その不思議な場を通して超常的な厄災が訪れるというプロットは、S・キングの不条理な世界の一面を描くモダンホラーのような世界観である。

ゲーム序盤に見られる、サムのビーチあるいは彼の見た絶滅夢。
ビーチというのはこの世界の人間個人の死の風景だとされているが、それにしてはこの空間はあまりに非人間的である。自然の大きさ、地球の生命性やその死という部分は十全に描かれているが、その事によって重要な部分がぼかされている、という印象も受ける。

これは印象論だが、おそらくビーチというのは、人間の持つ死生観を反映した風景ではない。すくなくとも、人間だけが持つような人間原理的な空間ではないように思う。

しかしそこからくるBTは、明らかに人を意識した形をしている。成人した人間のものや、赤子の姿のもの。彼らゲイザーと呼ばれるタイプは、カイラル濃度の高い場所でボーっと幽霊のように人が来るのを待っている。

そして近くに人の存在を見つけると、手形のようなもので探し回りその位置を探る。その手形に触れてようやく位置を知られると、足元がタールに覆われてハンターというタイプに追われることになる。

これらBTが獲物を探す手段は、かなり人間という存在を意識したものだろう。あるいはそれを観測する側である僕たちが人間だから、そういう形に見えるのかもしれない。

心象的な存在だから、人の気配のように感じる。よりプライマルな存在確認の手段として、他者に触れるという行為を模している。あの手のひらの跡は、対象のコミュニケーションの形を利用した、彼らの側から人間を探るセンサーなのであろう。

しかしさらにその先、ハンターにつかまってへその緒のついたゲイザータイプのような存在に引きずられていくと、いよいよ一面のタールの海に覆われて化け物のような姿のキャッチャーと対峙することになる。そして彼らに食べられると、ボイド・アウトを起こしてしまう。

こうした事象を考えると、普段BTと呼ばれているゲイザーやハンターは、こちら側で人間をつかまえるための道具であろう。そしておそらくキャッチャータイプのBT、いわゆる大型BTも、彼らそのものの姿ではないように思う。

BTに引かれるサム。
少々何のシーンだか分かりづらいが、ハンターたちにつかまりゲイザータイプの臍帯によってキャッチャ―タイプのBT出現地点まで引かれていく場面。なぜBTとの遭遇は、このような手順を踏む必要があるのだろうか。

BTたちは特定のDOOMS能力があれば、ヒッグスのように操ることができるようだ。しかしヒッグスや彼に力を供与したアメリがDS現象を起こしていたとしたら、物語がおかしなことになってしまう。

もともとああしたBTたちがDOOMS能力によって作られており、それを彼らがさらに利用したということのほうが筋が通る。

彼らを構成する黒いタールのような物質を、死体から吸収してDOOMS能力を高めるために使用できた、というヒッグスのものと思われる手記は手掛かりになるはずだ。

そしてだとすれば、死という概念やビーチに関する能力によって、ああしたものが作れる存在がおり、それらが真のBTだと考える方が自然なはずだ。

黒いタール状の物質を操って、何者かが人間をターゲットとしてあのような現象を起こしている。そしてその存在こそ真にビーチド・シングと呼ぶべきものであり、このDS世界の重要な存在のはずだ。

ビーチの向こうに存在する、BTとそれに寄り添う何者かの写真。
ゲーム中の特定の座礁地帯では、死亡して結び目の空間におちると一瞬だけビーチに存在するBTの影と、”彼ら”の泳ぐ姿を目撃できる。彼らが何者なのか、なぜそこにいるのか。多くのことは不明。

さて一般にクジラ類のような水生哺乳類は、あまり目が発達していないことが多い。深い海では視野による状況把握は難しく、ハクジラ類などはエコーロケーションと呼ばれるソナーのような機能を使って海の中の景色を把握する。

またエコーロケーションはクジラ同士のコミュニケーションとしてもつかわれており、一説には母親のお腹の胎児でさえ、仲間の声を聴いて育つとされる。

しかしそうした音波による探査も実はいくつか弱点があって、例えば砂地のような地形には音が吸収されてしまう場合がある。

そうして砂浜に気づかないまま乗り上げてしまう現象こそ、ホエール・ストランディング(座礁鯨)と呼ばれる現象だ。座礁してしまった巨大なクジラ類は、多くのばあい肺が自重で締め付けられ、そのまま衰弱して命を落とす。

また死んでしまったクジラの死体は、死後腐敗によりガスが溜まって爆発してしまうことがある。強い生命力を持つクジラだが、それ故にその身体の壊死(ネクローシス)も、強いエネルギーを持つのだろう。

眼が悪いことやエコーロケーションの弊害は他にもあり、彼らは人の船のような大まかにでも自身と大きさや形の似た存在を、しばしば仲間と勘違いしてしまう場合があるともいわれ、船のエンジン音等を仲間の声と勘違いしてしまっているのではないか、という指摘もされている。

古今東西、そうしたクジラに船が接触してしまうという事故は多く、現代では船のスクリューがそうしたクジラたちに怪我を負わせてしまう場合も多いようだ。

また彼らがそうして近づいた船が捕鯨船である場合には、さらに事態は悪いともいえる。昔であればボートのような小舟から、現代では捕鯨船から直接銛を撃ちこまれ、縄によって引きまわされ人々に狩られてしまう。ある意味では銛は棒と縄を組み合わせた、非常に人間的な武器だろう。

彼らをやり過ごすには息をひそめ水底でじっとしているしかないが、肺呼吸である彼らは常に潜りつづけることは出来ず、いずれは彼らの待ち伏せを受けることとなる。

小舟によって彼らを視認し、呼吸のために浮き上がってきたところを、銛によって引き寄せる。
メルビルの小説「白鯨」のモビィ・ディックなら何度もその危機を抜けただろうが、他のクジラたちにとって、ビーチの向こうからくる存在は得体のしれない化け物のように思えただろう。

何故BTをエコーロケーション技術を応用した、BBのオドラデクで検出できるのか。それはおそらく、彼らが掌の接触によって我々を探すのと、同様の理屈だろう。

人間の赤ん坊は母親に抱かれて、初めての他者との接触をはたす。皮膚の接触こそが人間にとってもっともプライマルなコミュニケーションであり、時に精神的な存在とさえ、触れあったというような感覚を覚える。

そして”彼ら”にとっては、おそらくエコーロケーションこそが最もプライマルな他者とのコミュニケーションなのだろう。だからそれを応用したオドラデク・センサーによって、彼らの精神的な力、DOOMS能力を捉えることができるのではないだろうか。

つまりBTとは、大量絶滅期に瀕しDOOMS能力に目覚め、その能力で人間を襲い始めたクジラたちではないのだろうか。

掌の跡。
上に述べてきたように、人間の遭遇するBTの存在は、クジラから見た死や捕鯨の過程と対応している。彼らと我々の見ている現象の間には、ビーチの境界を通したカイラル性(対称性)があるのではないのだろうか。

2022/12/19

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