信頼

信頼3.0の時代-テクノロジーの信頼革命が社会を変える

このエントリーの要約
・「信頼」は社会のインフラであり経済成長に実は密接に関わる。経済後進国はみな「信頼後進国」。
・信頼は時代とともに「閉じられた信頼」「開かれた信頼」「分散された信頼」「自動化された信頼」へ移行する。現代は「分散された信頼」が始まろうとしている時代。
・自動化された信頼の時代は、ヒトは信頼をAIに依存するようになる。

いま「信頼」の形が大きく変わろうとしている。

Airbnb、Uber、メルカリ等に代表されるCtoC型プラットフォームビジネスの出現、ブロックチェーンの発展、インフルエンサーの台頭など「信頼」を軸にした大きな変化が巻き起こっている。

私たちの生活において「信頼」は非常に重要な意味を持ち、大概においてトラブルの元でもある。信頼してお金を貸したのに返してもらえなかった、信じていた恋人に浮気された、信用していた上司が約束を守ってくれなかった等、信頼が損なわれた際に私たちが受けるダメージは大きい。逆に誰かが自分の期待に応えてくれたときや約束を守ってくれたときは、喜びを感じるものである。

これは対人関係に限った話ではない。たとえば私たちがAmazonで買い物をする時、Amazonがいつも通り正しく決済を完了し、正しく商品を郵送してくれることを前提としているだろう。ここでもし決済に不備があったり配送ミスがあったりすれば、Amazonに対して不満や怒りの感情が湧くものだ。そういうケースが続けば「Amazonは信頼できない」という事にもなる。

「信頼」という概念は私達の生活に驚くほど大きな影響を与えている。その割に多くの人がその力に無自覚だ。そこで本稿では、いまの世の中、特にビジネスのあり方にダイナミックな変化を産み出している「信頼」について考察してみたい。

「信頼」はなぜ必要か

私たちの日常生活は信頼によって成り立っている。

「そんなことはない。私は世間の誰も信頼することなく生きている!」

という考えの方もいらっしゃるかもしれないが、そういった人も、実は自分で考えているよりもずっと他人を信頼しているはずである。たとえばスーパーで買い物をするとき、私達は品物が偽装されることなく売られており、店員は突然刃物を持って襲いかかってくる凶悪人ではないという前提のもので行動している。レストランで食事するときは、食材が賞味期限切れでないことを前提としている。本当に誰もまったく信頼しない人は、普通に生きていくことすらできないだろう。それこそ山に籠もって生きていくしかない。信頼は「社会生活の必需品」なのだ。

他人を信頼することのメリットはもうひとつある。「機会利益」の増大だ。

信頼する人を限定し、付き合う相手を最小限に留めて入れば取引におけるリスクは小さくできるだろう。それはそれで必要なことだが、自分にとっての有利な機会を逃さなず生産性を高めることも重要だ。マクロに見れば、機会と人材のマッチングが適切になされることで社会全体の発展にもつながっていく。

そもそも「信頼」とはなにか?

ここで、なんともあやふやで主観的なイメージのある「信頼」が何者であるかを考えてみる。こんな例があったとしよう。

1、A君はどんな仕事を任せても失敗する。もう信頼できない。
2、友人のB君は信頼できる人柄だ。
3、C社は無名の会社なので信頼できないが、誰もが知っているD社ならば安心できる。

これら 3つの例では同じ「信頼」という言葉が使われているが、その意味する内容は明らかに異なっている。

1の例ではA君に悪気があった事ではなく無能さが問題とされている。一方で2の場合には、B君の人格がポイントになっている。3の場合は人ではなく会社という組織に対する信頼の有無であり、1や2とも異なった要素が入り込んでいる。

我々は「信頼」という言葉を実に色々なシチュエーションで使っているが、上記3つの例で共通していることは、なんらかの既知の情報から未知の結果に対する予測を行なっているという点である。つまり信頼とは「未知のものと既知のものの間の不確実性を埋めるもの」と言う事ができるだろう。

しかしこの理屈でいくと、先ほどのA君の場合「A君に仕事を任せたら失敗する」という予測が成り立ち、これもまた信頼性があるという話になる。統計学的な観点ではこれも正解なのだが、我々が日常で使っている「信頼」という言葉とはずれているようにも感じる。

私見で言うと、「信頼」とは次のようなシンプルな言葉にまとめることができると思っている。

信頼 = ポジティブな結果への期待

ポイントは「ポジティブな」という点かと思う。我々が日常で使っている「信頼」という言葉は、原則的に良い結果、前向きな結果を生み出せるかどうかという点を重視しているからだ。


信頼の分類

もう少し「信頼」の構造について考えてみたい。信頼は大きく「ヒトに対する信頼」と「ヒト以外に対する信頼」に大別される。

ヒトに対する信頼

ヒトに対する信頼は感覚としてわかりやすいところだが、さらに3つに細分化できる。

1、誠実さに対する信頼
多くの人が「信頼」と聞いたらこれをまず思い浮かべるだろう。その人が正直か、嘘をつかないか、裏切らないかといった、いわゆるその相手の人格で判断する信頼の形だ。

2、有能さに対する信頼
主に仕事相手に対して持つ信頼の形。仕事をやり遂げる能力、スキル・知識・経験の有無に対するものだ。「あの人は仕事ができる」というときは有能さに対する信頼を寄せているが、それは人間性の善し悪しとは全く関係がない。

3、コミットメントに対する信頼
その人の意思表示に対する信頼の形。「やる」と言ったことを必ずやるかどうか、やり遂げられるかどうかという点が重要。「結果は悪かったが、やるべきことを最後までやり切った」と評価されるときは、コミットメントに対する信頼を獲得できたと言える。

ヒト以外に対する信頼

私達がヒト以外の存在に対し信頼感を持つためには、いくつかのハードルを越えていく必要がある。

1、それが身近であること
まずは、それが身近な存在であるかどうか、言い換えれば危害を加えないものかどうかが重要だ。相手がヒトである場合は、よほどの危険区域を除けば簡単に直接的危害を受ける可能性は低い。しかし相手がモノになると、自分の使い方次第ではうっかり大ダメージを負う可能性もある。ゆえに人は、新しいものには常に慎重だ。

2、それが得になること
次のハードルは「メリットがあるか? 」だ。自分にとって得にならない存在は、信頼するしない以前に、そもそも私達の心の引き出しからすぐに消えていくだろう。

3、皆が使っているか、知っているか
最期のハードルは「皆の意見」だ。日本人はここが最重要ポイントかもしれない。この3つ目の条件さえ満たしていれば、1と2は気にしないなんて人も多いかもしれない。この3つのハードルを越えることで、ヒト以外の存在は我々の信頼を獲得できる。

ひとつ例を挙げると、日本におけるiPhoneは見事にこのプロセスに則り、普及していったと言える。

iPhoneの信頼獲得プロセス

1、それが身近であること
iPhoneは実際にはモバイルスマートコンピューターだったが、あえて「電話」という誰にとっても身近な存在を取り、生活に浸透していった。

2、それが得になること
電話、メール、インターネット、音楽など、豊富な機能を手軽に持ち運べることは、ユーザーにとって大きなメリットだった。

3、皆が使っているか、知っているか
初期はテクノロジーに敏感なユーザーのみが使用していたが、メリットに気づいた人々がどんどん使い始めたため、今では普通の人々もiPhoneを使うほど普及している。

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信頼の歴史と変遷**

信頼の定義が済んだところで、次は信頼の変遷の過程を考えてみたい。

信頼1.0 閉じられた信頼

最も原始的な形の信頼は、友人、血縁関係に代表される閉じられたローカルへの信頼だ。人類発祥から数百万年の間、ヒト族はこの非常に狭い範囲でのみ信頼関係を結んでいたのではないかと推測する。家族や友人や同じ集団の人といった親密な人間関係のなかだけに信頼は存在しており、全てが個人的な枠組みを出なかったと考えられる。原始的と書いたが、この形が未だに私達の信頼の根幹にあり、数多くの人間関係を支えている。

信頼1.0が強い社会は、いわゆる「コネ社会」を生み出しやすい。親密な関係の内部では相互協力が簡単に成立し、内部の仲間とだけつきあっている限りは、人に利用されたり搾取されたりしてひどい目にあう可能性は少ない。悪い事をした人間は、あっという間に噂が広まり村八分にされてしまうからだ。

このような集団社会では取引におけるリスクは大幅に軽減される反面、外部のネットワークと繋がることによって得られる利益を享受できないというデメリットがある。

信頼2.0 開かれた信頼

同じ血族、同じ集団間でのみ交わされてきた極小範囲での信頼の交換は、集団が拡大していくにあたり現実的に機能しなくなっていったのは想像に難くない。このあたりは国家誕生論のような話にもつながってくるが、拡大する組織をまとめ上げるためには部族の掟や法で統治される法治社会が必要であり、それを成立させるためには、掟や法を執行する政府に対する信頼が必要不可欠だ。悪人がいれば王様が罰してくれると信じられるからこそ安心して人民は生きていけるのであり、それが犯罪の抑止力にもなる。つまり人間は文明を発展させていくにあたり「よく知らない人でも信頼できるようにする」ために、信頼の対象を外部に移行(解放)させる必要があったのではないかと考えられる。

初めは部族を取り仕切る長老や戦士長などへ「個人」への信頼から始まった。それが「王」という権威に移行し、やがては「国家」や「企業」といった体系的な制度に信頼は注がれるようになり、必ずしも個人を信頼する必要はなくなった。これにより、信頼1.0にありがちであった地理的制約(同じムラの人でないと信用できない等)、時間的制約(長い付き合いがないと信用されない等)は大きく軽減された。

結果、人類の機会利益は飛躍的に拡大した。言葉の違う民族とも取引ができるようになり、株式取引のように時空を超えた取引も可能になったのである。近代社会を支えているのはこの信頼2.0であり、個人への信頼1.0と制度への信頼2.0がマーブル状に混じり合った社会が現代と言えるだろう。

信頼3.0 分散された信頼

人類は信頼2.0のもとで飛躍的な発展を遂げたが、その時代にも陰りが見え始めている。理由は後述するとして、次は「分散された信頼」の時代に突入すると私は思っている。

分散された信頼を可能にするには、ブロックチェーンの技術だ。ブロックチェーンは特定の個人や組織が支配することも改ざんすることもできない恒久的かつ開かれた取引記録の作成を可能にする。分散された公開台帳は株や不動産といったあらゆる資産の契約においての信頼性を担保する。モノの所有に関することだけではなく、取引の透明性も向上させることができるだろう。たとえば「オーガニック化粧品」とうたわれている商品が本当にオーガニックな成分で作られているか、過去の取引記録を見れば一目瞭然でわかるようになるかもしれない。

分散された信頼が秘める大きなポテンシャルは、途上国の経済成長を飛躍的に高める可能性があることだろう。アフリカ諸国などで見受けられる低信頼社会においては、不正な取引が横行し、極めて不健康な経済活動が行われている。国家の経済成長には国民の相互信頼が前提となるが、ブロックチェーン技術により現代の不信の壁が一気に取り壊され、数十億もの人たちを瞬時に新時代に突入できるかもしれない。中国が信じられないスピードで現金社会からキャッシュレス社会に移行したのと同じような理屈だ。それはイコール、世界全体のあり様を変えることも意味するだろう。

信頼3.0への変化はなぜ起こっているか

信頼2.0がなぜいま変わろうとしているか?理由は2つあると私は考える。

ひとつには、テクノロジーの発展がある。今のままでも必ずしも変わる必然性は無いが、より透明性が高く、より機会利益を増大させる方法があれば、それを採用したいと思う人が増えるのは当然だ。

もうひとつは、既存のシステムへの不信である。かつて最高権力者は文字通りの最高権力者であり、逆らうことはおろか疑うことすら許されない時代があった(今でもそういう国はある)。しかし、少なくともこの日本において、政府が100%正しいと思っている人は極めて少数だろう。大臣や社長、教育者といったいわゆる偉い人がみな清廉潔白な人格の持ち主で決して間違いを犯さぬであろうと信じている人は、ほとんどいないだろう。

これはアメリカの調査事例であるが、およそ50年前の1973年に ワシントンの連邦政府が国際問題に正しく対処してくれると信頼していた国民の割合は、70%だった。それが現在では49%まで下落しているという。さらに、2015年にハ ーバ ード大学が行った調査によると 、ミレニアル世代の86%は「既存の金融機関を信じていない」と考えていることがわかった。75%の若者は、連邦政府が正しいと信じたことは 「ときどき 、または一度も 」ないと答え、88%がマスコミを 「ときどき 、または一度も 」信じたことがないと答えたという。肌感だが、日本の若者も同じような感覚ではないかと思う。

なぜここまで既成権力への不信が高まっているのか?ここには様々な理由があると思われるが、SNSの普及により、 フェイクニュースのように捏造された情報も含めあらゆる情報が加速度的に流通してしまう点に尽きると思う。言い換えれば、情報操作することで既成権力はそのパワーと信ぴょう性を維持していたとも言えるが、そのやり方の限界が来ているということかもしれない。

印刷機が発明される以前、この世で最も権威があり信頼されていた集団は、数少ない書物と知を独占していた僧侶達だった。それがグーテンベルクの活版印刷が普及したことで誰しもが本を読めるようになり、教会の影響力と信頼性は弱まっていった。それと同じ変化が起こっているのかもしれない。

「信頼」がビジネスの要である企業たち

信頼2.0が徐々に崩壊し3.0へ移行を始めた現在を、暫定的に「信頼2.5」と呼ぶことにしよう。信頼2.5社会では、2.0の時では考えられなかった形のビジネスを始める企業が出てきた。いわゆる「CtoCビジネス」は信頼2.5時代の代表的ビジネスモデルであり、テクノロジーが磨かれることで今後も更に増えていくだろう。また、数こそまだ少ないものの中国の芝麻信用に代表される「個人の信頼スコア化」サービスも、新しい信頼ビジネスである。日本でもYahoo等のビッグプレイヤーが個人のスコア化に乗り出しており、今後の注目が集まるところだ。

代表的な信頼2.5サービス
・Airbnb
・メルカリ
・ランサーズ
・ebay
・Uber
・Tinder
・芝麻信用

信頼2.5時代のサービスは何が新しいのかを考えるにあたっては、Airbnbの事例をみるとわかりやすい。 Airbnbは信頼2.5を象徴するようなサービスだからだ。

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信頼2.5時代の申し子 Airbnb**

Airbnbのサービスはいわゆる民泊(個人が個人の部屋ないし家を他人に宿泊施設として貸し出すサービス)だ。今でこそユニコーン企業の仲間入りをしている Airbnbだが、最初は「そんなサービス流行るわけがない」と多くの投資家から一蹴されていた。

Airbnbは、高い相互信頼、特に貸す側から借りる側への強い信頼が前提となる。赤の他人に自分の家やベッドを貸すわけだし、部屋を汚されないか、盗難がないか等、想像できるトラブルはきりがない。借りる側も借りる側で家主がどんな人間かわからないわけだから、相応のリスクが伴うはずだ。

なぜAirbnbが流行るのかはそれだけでも非常に興味深いテーマだが、集約すると次のような形かと思う。

1、決済システムや相互レビューシステム等、テクノロジー基盤が整っている。
2、部屋を貸す側は副収入を得られる。借りる側はホテルよりも安く部屋を借りられる。双方にメリットが大きい。
3、ホテルや既存の宿泊施設に泊まるのとは全く違う旅行体験ができる。

民泊というモデルは利用者にとって大きなメリットがあり、それがテクノロジーによって安全が担保されているので爆発的に普及した、ということだ。技術の進歩によって、より便利でお得なサービスを人々が使い始めるのは当然だし、逆に言うと信頼2.5の裏付けにテクノロジーは必須であるとも思う。

信頼2.5の課題

信頼2.5時代の社会では、社会の様々な側面で機会利益を拡大することができる。旅行の際は民泊でお洒落な家に割安で泊まり、仕事の際はクラウドソーシングで優秀な個人に発注し、買い物はフリマアプリでお得に済ませる。

あらゆる社会活動は最適化・最大化・効率化の方向に向かうだろう。しかし当然ながら課題も多い。最悪の事態、悪用、信頼能力の退化、格付けの是非に関する問題だ。

「最悪の事態」問題

信頼2.5において最も重要な課題が「最悪の事態」問題である。

いまや世界最大のタクシー会社となったUberは 、車を1台も持っていない。世界最大の宿泊業者となったAirbnbは不動産を持っていない。世界中の人間が見ているFacebookはコンテンツを持っていない。メルカリは自分達の商品は売っていない。サービス(コンテンツ)そのものを提供しているのはユーザーであり、それを消費するのも、またユーザーだ。

たとえばUberに乗っていて運転手から暴行を受けた場合、法的に罰せれるのは暴行した運転手である。しかし、プラットフォームを提供したUberに責任は無いのだろうか?実際に、アメリカではUberの運転手による殺人事件が起こってしまったことがある。Airbnbでも、違法な売春や集会が行われたり、死亡事故が起こってしまったケースがある。

もしもホテルで事故があれば、誰を責めたらいいか、誰を訴えたらいいかは、比較的明確だ。後々への対策も立てやすい。しかしCtoCの世界では、プラットフォーム側は供給されるサービスそのものをコントロ ールすることはできない。何が起こっても不思議ではない。この点をどう解決していくかは人命にも関わることであるので、非常に重要な課題である。

悪用の問題

オープンなプラットフォームは誰に対しても平等に開かれている。善人にも悪人にも、等しく平等にだ。

システムやツールは道具でしかない。世界を良い方向に変えることもできるし、悪い方向に変えることもできる。世界中の見知らぬ人間同士がつながるFacebookは、価値のある情報を一瞬にして全世界に届けることができる。悪質なフェイクニュースもまた一瞬で広めることができる。

分散された信頼のネットワ ークは、その理想に反して巨大勢力に支配されてしまうリスクも抱えている。ビットコインが良い例だ。中央集権へのアンチテーゼとして生まれたビットコインであったが、採掘業者が中国に集中し、独立性の危機が生まれている。現代はこれまでとは違う新種の同一化と集中が進んでおり、ひと握りのプラットフォームが我々の見る物や読む物を支配している。FacebookやUberが突如として独裁者となったとき、私達に何ができるだろうか?

信頼能力の退化

3つ目の問題は、私達が他者を信頼する行為をどんどんアウトソースしてしまっていることだ。Amazonのレビュー、Airbnbのレビュー、Uberのレビュー、Facebookのいいね!数、私達は星の数が多いものを機械的に安全なものと判断し、アルゴリズムがすすめてくる効果的なレコメンドを簡単に受け入れる。これはとても便利なことであるが、仮に人類がこの行為に慣れすぎてしまった場合、私達の他者を信頼する能力はどうなるのだろうか?それは新しい形の退化ではないのだろうか。

格付けの是非

個人スコア化の代表的サービスである芝麻信用は、個人の信用履歴や履行能力のみならず、個人の特徴、性格、はてや人間関係にいたるまで、あらゆるデータをインプットとして個人をスコアリングする。その結果「この個人は信頼できる(一定数のスコアを獲得)」ということになれば、ビザの取得や空港・ホテルのチェックインに優先権が得られたり、前金なしでレンタカーが借りられたりする。逆にスコアが低くなると、子供が特定の学校に入学できなくなる、保険料が上がる、ローンが組めない、特定の仕事につけない、社会保障が制限されるなどのハンデを背負うことになる。真の意味での格差社会が実現するのだ。

格付けシステム自体はまだ中国でのトレンドでしかないが、確実に普及の機運は高まっている。アルゴリズムにより個人の人間性まで規定されてしまう社会は、果たして住みやすい社会なのだろうか?

新しいトレンドが生まれる時、必ず良い面と悪い面がある。しかし、良い面の方が大きければ世界は必ずその方向に変革していく。新しい信頼が生み出す社会も様々な課題があるが、確実に信頼2.0から3.0への移行は進むだろう。そしてその先は、まだ誰も見たことがない「信頼4.0」の世界が待っているはずだ。本稿の締めとして、分散された信頼の更にその先を検討してみることにする。

そして信頼4.0へ

分散された信頼が普及した後、次にやって来るのは何か。私は「自動化された信頼」の時代だと考えている。

「自動化された信頼」とは何か。それは、今風の言葉で言えば「信頼をAIへアウトソースする」ことである。つまり、何でもかんでもAIが勝手に判断して最適な意思決定をしてくれるということだ。

信頼2.0(現代)と信頼4.0(未来)の違いは、人間による運転と自動運転の関係のようなものだ。現代の私達は、自分が運転する限り車を信用しているが、AIが動かす自動運転はまだ信用していない。しかし未来人は、当たり前のように自動運転の車に乗っていることだろう。むしろ人間が運転するよりよっぽど信用できると思っているはずである。

この説に懐疑的な人は、人が手で行う洗濯と、全自動洗濯機の、どちらがより汚れを落とす能力があるかをイメージしてほしい。明らかに後者だろう。現代人は、全自動洗濯機レベルの人工知能(これを人工知能と言っていいのなら、だが)ならばすでに信用している。全自動洗濯機を信頼することと自動運転を信頼することは、テクノロジーのレベルが違うだけで本質的には同じ話である。

テクノロジ ーの進化は、人間と非人間の境界線を溶かしていく。日本マイクロソフトが開発したAIボット「りんな」は、まるで人間と間違うほどの会話能力を保持しており、リアルタイムで今も学習を続けている。ポーカーを学習したAI「リベルタス」は、AIでありながら駆け引きやハッタリを覚え、2017年にラスベガスで行われた大会でプロのポーカープレイヤー達に勝利した。

人口知能は大量の情報を記憶し、高速に演算することが得意だ。過去のデータから対象が信頼できるかそうでないかを判断するという作業については、人間よりもはるかに正確かつ高速に処理できるポテンシャルを持っている。人間よりもAIに意思決定を委ねることが多くなる時代は、確実にやってくると私は思っている。

Do Androids Dream of Electric Sheep?

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という小説がある。人間と見分けがつかないほど進化したアンドロイドが存在する社会を描いた傑作SFで、人間とは何か、知能とは何かというのがテーマになっている。

人口知能の長所が大容量・超高速の縦列処理であるのに対し、人間の知能の長所は膨大な量の情報から共通点を素早く見つけ出しパターン化する能力、すなわち「超並列処理」だと言われている。頭の中で現実を高速でモデル化し、パラメータを瞬時に変化させ続けることで未知から既知の予測を行う能力だ。そう、古来から「信頼」を判断する際に用いてきた能力そのものである。

機械は基本的に未知の情報に弱い。ゆくゆくはそこも進化していくのだろうが、現時点では圧倒的にその点は人間にアドバンテージがある。人工知能が人間並の並立処理思考を体得した時がいわゆるシンギュラリティの特異点なのだと思うが、それはもう少し先の話になるだろう。

逆に言うとこれからしばらくの時代は、人工知能の長所と人間の知能の長所がうまく両立できるのではないか。生物的な人間の知能が持つパタ ーン認識能力と、非生物的な知能のもつスピ ード・記憶容量・正確さが融合することにより、人類の文明はさらに類を見ない速さで進化できるのではないだろうか?

その進化の先が、本当にハッピーな世界なのかは分からない。テクノロジーが進化しすることで人々の暮らしはより豊かになっていくはずだが、本質的にそれが幸福を産み出すものかはわからない。成長の光の影で、闇もまた生まれるだろう。人工知能を信頼しすぎるあまり人間が機械に隷属する世界になってしまうかもしれない。しかしそれは未来人にとっては心地の良い世界かもしれない。人間同士で信頼の有無をいちいち確かめ合う必要がある社会なんて、そもそも野蛮な世界なのかもしれない。

ただひとつわかるのは、この流れは確実に止まらないということだ。内なるコミュニティから外部に向けて信頼を解放したその日から「信頼」は「利益」の源泉であるということに人類は気づいた。より正確で、より公正で、より信頼性を担保できるシステムを、これからも人は求め続けるだろう。それが利益になるからだ。自分だけでなく、社会全体に対してもだ。

テクノロジ ーが引き起こす信頼の大革命は、まだ始まったばかりである。

まったく、妙な話さ。ときには、正しいことよりまちがったことをするほうがいい場合もある。
ーフィリップ・K・ディック(アンドロイドは電気羊の夢を見るか? より)

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