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他人の努力、嗤うべからず。

「いうても美魔女は、努力してはる」

これは先日、気持ちのいい庭を見ながらお茶を飲んでいるときに、友人が発した一言である。「いうても」が効いている。「なんだかんだ言って」くらいの意だ。

私と友人のそばには、美魔女がおられる。複数おられる。たまに私たちの前に降臨なさると、私はその魅力にひれ伏し、爪の先ほどは自分もきれいになったような気になって帰ってくる。

他にも個人的に、人生の先輩として見習いたい方は何人かおられて、有り難いことにロールモデルには困らないわけではあるが、この時の話の流れは確か

「美魔女をロールモデルとして眺めているだけでは美魔女にはなれんだろう」

というものだった。そう、私にはどこか、最期まで元気でキュートだった祖母のようになれると思っている節があるが、最近ちょっと怪しいなと思い始めていたりするのだ。そこでこのセリフをもう一度。

「いうても美魔女は努力してはる」

深い。その表面に現れた美しさはもとより、そこに至るまでの努力を、私どもは感じ取らねばならない。学ぶべきは、模倣すべきはまさに美魔女の努力する姿勢。92歳で逝った祖母の遺品の中には使いかけの、資生堂の高級ラインのマッサージクリームがあった。シャネルの香水があった。こういう気概のようなものを、もっと私は真似しなくてはならないのだ。

そんなことを考えていた時、テレビで「おばさん史」のような特集をやっていた。「オバタリアン」から「美魔女」までの変遷らしい。余計なお世話だよと思いつつ見ていたら(見るんかい)、美魔女には「イタイ」という批判があったが、美魔女にはそんな批判を跳ね返す強さがあった、美魔女は新しいおばさん像、的なことを言っていた。

美魔女を批判する輩がおるのか、と私は驚いた。それこそ余計なお世話である。イタイと思うなら見なければよろしかろう。

努力する人を批判する権限など、何人にもないと思う。悔しいなら自分もやればいいし、気に入らなければ離れればいい。「もともとあの人は美人だから私とは違う」という意見には「それを言っちゃあおしまいよ」と言いたい。それは単なる思考停止である。私はどんな分野であろうとも、努力する人には尊敬の念しかない。

他人の努力、嗤うべからず。

また逆に、努力している側は、その努力していることを口に出さずとも自分だけでしっかりと誇りにしていればいいのだと思う。たまに

「私なんか」

という枕で始まるセリフを見る。本人は本心からそう思っているのだろう。だから周りも「そんなことないよ」と励ましているし実際にそんなことはないわけだが、「私なんか」の結末はたいてい「こんなにうまくいってびっくりです」的な成功譚なのである。


成功したのは努力したからである。だから「私なんかがこんなにうまくいっちゃってびっくり」というのはいらない。黙って努力したことを誇ればよろしい。

本当に「私なんか」と思うのであれば努力すべし。「そうですこの成功は努力したからですけど何か」くらいまで努力すべし。

そう、結局

「いうても美魔女は努力してはる」

のである。私が知っている美魔女の面々は「私なんか」とは決しておっしゃらない。ああ、強く自戒の念をこめつつ、筆を置こう。私よ、まずは自ら奮闘努力せよ。


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