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【ドキドキ文芸部!】モニカと魔女理論について


あなたはドキドキ文芸部!というゲームを知っているだろうか?

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正直既にかなり有名なゲームなので、「今更何を言っている」と言いたい方もいるだろう。この記事を読んでいただいている方の中でもプレイして、その内容に衝撃を受けた方も多いかと思われる

筆者も例に洩れず、ドキドキ文芸部をプレイして衝撃を受けたプレイヤーの一人である。クリア後はリアルで一か月ほどヒロインであるモニカについてずっと考え続けるほど、このゲームは私の心に刻まれるゲームの一つとなった。

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今更私如きが説明するのも無粋に感じるが、一応簡単にゲームの概要を説明させていただきたい。(既に原作プレイ済みで知り尽くしているよ!という方は読み飛ばしていただければ幸いである)

ドキドキ文芸部とは、チーム・サルバトが2017年にリリースしたフリー述べるゲームである。ゲームの大まかなあらすじとしては、

「可愛い女の子4人が活動する文芸部に主人公が入部し、部員たちとの交流を深めていく」

という内容だ。

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ゲーム中ではプレイヤーが詩を作成するパートが存在し、この作成した詩によって各部員との好感度が変動する。勿論会話パートでの選択肢によっても好感度は変動し、どの部員のルートに行くか変動する、という仕組みだ。これだけ聞けば単なるギャルゲに見えるだろう

だが、このゲームのジャンルは「サイコロジカルホラー」である。いざプレイを進めると壊れた世界、狂気に溢れたキャラの言動の数々がプレイヤーに牙を剥き、トラウマ級の恐怖を植え付けてくる。

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そのため本作はよく「ギャルゲの皮を被ったホラーゲー」と称されるが、私はプレイ後、「このゲームは間違いなく恋愛シミュレーションゲームだった」と感じた。どうしても選択肢の総当たり、文字を送るだけという形式になりがちなノベルゲーというジャンルに一石を投じると共に、「PCゲーム」だからこそ表現できる恋愛劇を描いた、単なるホラーゲーとして片づけるには勿体ない傑作であると考えている。

さて話は変わるが、このドキドキ文芸部をプレイ後、私は「少女革命ウテナ」というアニメを視聴した。

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ウテナの視聴を始めたのは別にドキドキ文芸部とは一切関係ない。昔から興味があり、たまたまこのタイミングで手に取ったにすぎないのだが、このアニメを視聴した後、私は一つの気付きを得た。

「ああ、モニカは‘魔女’であり‘お姫様’だったのだ」と

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この発言だけ聞いて「理解した」という方は恐らく後半の内容に目を通す必要はない。是非とも一緒にモニカについて語り合いたい次第である。

大半の方は「何言ってんだコイツ」だと思われるので、ここからは少女革命ウテナで描かれる「魔女」と「お姫様」理論について、筆者なりの解釈を説明させて頂いた上で、なぜドキドキ文芸部プレイヤーはモニカに魅了され、Just Monikaおじさんと化するのか、私の考えを述べさせていただきたい。

長くなると思うが、お付き合いいただければ幸いである。

少女革命ウテナから考える「王子様」と「お姫様」理論について

まず、僭越ながら少女革命ウテナにて語られる「王子様」と「お姫様」、そして「魔女」という存在について筆者なりの解釈を説明させていただきたい。

その前に少女革命ウテナについて概要をかなり簡単に説明させていただく。主人公は幼い頃に自分を助けてくれた王子様に憧れ、自分も王子様になりたいと願う少女・天上ウテナ。

もう一人のメインキャラは「薔薇の花嫁」と呼ばれる少女・姫宮アンシーである。世界を革命する力」を与えるという「薔薇の花嫁」であるアンシーを巡り、ウテナはデュエリストと呼ばれる戦士たちとの決闘ゲームに巻き込まれる、というのが簡単な概要だ。

この少女革命ウテナも非常に有名かつ評価が高く、人によってさまざまな解釈に分かれるタイプの作品であり、この作品について詳しい考察を披露するには筆者は力不足である。ただしこの作品についての言及は、今回の議題とは外れるため筆者の理解不足な点があったとしても許していただきたい。

さて、ウテナという作品の中で重要なファクターとして「王子様」「お姫様」、そして「魔女」という概念が存在する。物語の鉄則として「お姫様」は怪物や魔王にさらわれ、「王子様」がそれを助けにいく、という形式が存在する

これはウテナに限らず、多くの創作物にも適応される。民話や童話でも類似した内容は多く見られるし、範囲をゲームやアニメまで広げれば更に広がるであろう。馴染み深いものとするとドラゴンクエストや魔界村であろうか

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この「王子様」が「お姫様」を救う、という構図はこうした英雄談だけではなく、しばしば恋愛シミュレーションゲーム、俗にいうギャルゲにも適応される。物理的にヒロインが浚われていたり脅威に晒されている、というケースは少ないと思われるが、家庭の問題や学校生活にトラブルを抱えており、主人公がそれを解決する、といった流れで物語が進行するケースは多いだろう。(筆者がパッと思いつくキャラだとときメモ2の八重さんやアマガミの絢辻さんであろうか)

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この構図だが、主人公を「王子様」、ヒロインが抱えている問題を「怪物」や「魔王」と置き換えると「魔王に攫われたお姫様を主人公が救い出す物語」と同じであると言える。

一番わかりやすい事例としてはペルソナ4の天城雪子だろうか。彼女は老舗旅館の一人娘、という自身の立場を捉われのお姫様、と置き換えており、そんな現状から救ってくれる王子様を探し求めている。

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ギャルゲにおいてこの「王子様」と「お姫様」の構図が用いられるのは、やはりヒロインが主人公に好意を持つ、というプロセスについて説得力を持たせられるからであろう。男女関係なく、自分を救ってくれた相手に好意を持つというのは当然の感情であるし、自身の抱える問題が解決されたからこそ恋愛について考える余裕ができる、というのも自然な流れであるからだ。

さて、長々と「王子様」と「お姫様」の構図について語ってきたが、ウテナにおいてもう一つ「魔女」という存在があるという話をした。ウテナにおいて「魔女」と称される存在としては先ほど挙げたアンシーである。

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詳細は省くが、彼女は人々のために剣を振るい戦う王子様を封印することで世界から「王子様」を奪い去った。それゆえに民衆から「魔女」との誹りを受け、責め苦を受ける立場となる

恐らく「魔女」と言われると多くの人は白雪姫の毒林檎魔女のような存在を思い浮かべるであろう。あの手の魔女の場合ヒロインに直接危害を加えてくるので「魔王」だったり「怪物」のポジションと同一視されそうだが、個人的な印象では「魔女」はまた別軸のポジションにあると考えられる。上記のアンシーの構図のように、「魔女」は王子様がお姫様を助け出す行為を妨害する存在、いわばお邪魔キャラのような立ち位置であると言えるのではないか。

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ギャルゲでお邪魔キャラって誰がいるだろう、と考えると該当者はあまり思いつかないが、アマガミの通称「スト子」こと上崎裡沙なんかが挙げられるだろうか。攻略対象なキャラなのでニュアンスが少し違う気がするが、主人公とヒロインの恋路を明確に妨害してくるその様はいわばヒロインから王子様を奪い取る行為であると言える。

長々と書いてしまったが、一度ここで整理させていただきたい。

「王子様」→「お姫様」を脅威から救い出すための存在

「お姫様」→「王子様」に救い出されるための存在

「魔女」→「お姫様」から「王子様」を奪い取るために画策する妨害要素

次項以降は筆者のこの考えを元に語っていくので、こちらを把握していただけると幸いである。

「お姫様」理論から見たモニカの特殊性

さて、前段では「王子様」「お姫様」そして「魔女」という概念について考えてきた。ここでドキドキ文芸部のモニカの特殊性について考えてみる。

端的に言えば、モニカは「魔女」であり「お姫様」なのである。正確にはドキドキ文芸部というゲームにおいてはモニカは「魔女」であるが、プレイヤー目線で見ればモニカは「お姫様」なのである。

このモニカの特殊性を考えるにあたり、ドキドキ文芸部というゲームの本来あるべき姿について考えてみる。本来ドキドキ文芸部というゲームは、サヨリ・ナツキ・ユリの三人がヒロインであった筈だ。

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ここでサヨリ・ナツキ・ユリの三人について、先ほどの「お姫様」理論を当てはめてみる。

ヒロイン3人はいずれも例外なく、何かしらの問題を抱えている。サヨリは鬱病、ナツキは父親からの虐待、ユリは自傷癖。いずれもモニカの介入により、問題を更に悪化させられた事でいずれのヒロインも最悪の結果を迎えてしまう。

では、本来モニカによって歪められなかったストーリーはどのようなものであったのであろうか。一週目のサヨリのストーリーからも予想されるように、主人公が各ヒロインの問題に向き合い、ヒロインの抱えている問題を解決することで互いに恋に落ちる、そういったストーリーであったと考えられる。これは先ほど述べた「王子様」に救われる「お姫様」の像の典型的な例であると言える。

ではモニカの作中の行動はどうであったであろうか。彼女はストーリーを妨害してプレイヤーを自身の作り出した空間に閉じ込める。この構図は前述した「魔女」の行動パターンであると言えよう。更に言及するならば、モニカの行動は自身がヒロインとして選ばれる事がないことを理解してしまった故である。この行動は、少女革命ウテナにおいて世界の女の子の中で唯一「お姫様」になることが出来ず、「魔女」となったアンシーの行動と通ずるものがあるといえる。

だがしかし、プレイヤー目線で見た場合はどうであろうか。

モニカというキャラクターに対してはプレイヤーによっては賛否は分かれるであろうが、ドキドキ文芸部のヒロインは誰か、と言われれば大抵の人は「モニカ」と答えるであろう。

そしてプレイヤーからはモニカはどう見えるだろうか。3周目の世界の彼女を見たプレイヤーはこう思うだろう。

「ゲームの世界に閉じ込められたお姫様」

と。つまり、プレイヤーはモニカを「お姫様」と認識するが、ゲームの世界は彼女を「魔女」と認識しているのだ。ここに相反する属性が発生する。これこそがモニカの持つ「ヒロインとしての特殊性」なのだと筆者は思う。

モニカが幸せになる世界線

3周目の世界でモニカに惹かれたプレイヤーは誰もが思うだろう。

「彼女を救いたい、幸せにしてあげたい」

と。しかしモニカは魔女なのである。王子様に救われて幸せになることはお姫様に与えられた特権なのだ。

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このゲームのエンディングは、3周目でプレイヤー自らの手でモニカを消す以外のものは無い。モニカはプレイヤーに救われて幸せになる権利が与えられていないのだ。

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プレイヤーは3周目の無限に続くモニカ空間に留まることで、モニカとの共存エンドを疑似的に体現しようとするが、本質的にはそれは解決にはならない。なぜならそれはゲームのエンディングではないからだ。例えるなら、ドラクエ1で竜王の誘いに乗り、物語をリスタートしているようなものだろうか。

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恐らくドキドキ文芸部にはバッドエンドが存在せず、エンディング自体はトゥルーはあるものの基本的に一本道なのは意図的なものだろう。仮にだが、モニカの誘いに懐柔され、3周目の閉鎖空間に閉じ込められるようなバッドエンドが存在した場合、Just Monikaおじさんなプレイヤーにとっては救いになったであろう。ゲーム側はバッドエンドとして用意していたとしても、プレイヤーは

「誰が何と言おうとこれは俺にとってのトゥルーエンドだ」

と逃避することができたからだ。仮にそれでモニカが幸せにならなかったとしても、破滅の未来でしかなかったとしても、彼女を消す以外のエンディングがゲーム側で用意されているか否かは大きな意味を成す。

だが実際にはそのようなバッドエンドすら彼女には用意されていない。恐らくダン・サルバトはそこまで意図してこのゲームを作っているであろう。性格悪い。ドSである。

モニカはお姫様ではないのか

さて、ここまでの言及で「モニカはドキドキ文芸部という世界から、お姫様になる権利を与えられなかった魔女である」と述べさせていただいた。では、果たしてモニカはお姫様ではないのか?

答えは「ノー」である。

前述した通り、ドキドキ文芸部のヒロインは誰か、と言われれば間違いなくモニカである。だが、ドキドキ文芸部という「ゲームの世界」は彼女がお姫様であることを許さない。反してプレイヤーからすればモニカは救い出したいお姫様である。

この相反する関係性。だからこそ我々はモニカを救いたい、幸せにしてあげたいと思い、モニカに惹かれるのだと思う。これはドキドキ文芸部というゲームが、「これがゲームであること」を最大限に生かしたギミックを有したゲームだからこそ生まれたものであろう。全く大したゲームである。

ドキドキ文芸部という世界の中で、お姫様になることを否定された少女モニカ。だからこそ、世界のJust Monikaおじさん達は彼女をなんとか救い出したい、彼女と結ばれたいと四苦八苦するのであろう。

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モニカとひたすらイチャイチャするMODが開発されたりするのが代表的な事例であるが、USBにモニカのキャラデータを保存して持ち歩く人達も気持ちは同じだと思う。ドキドキ文芸部というゲームではお姫様になることを否定された彼女だが、そうでない世界では彼女はお姫様になれるからだ。

長々と語ってしまったが、筆者が言いたかったことは一つ。

ドキドキ文芸部というゲームは「お姫様になりたかったために魔女となってしまった一人の女の子」を描いた物語である、と思う。モニカという一人の少女に対して、我々プレイヤーは何を思い何を感じるか。そういった意味でも、やはりドキドキ文芸部は紛れもなく恋愛シミュレーションゲームであると、筆者は考えている。

Just Monika.

Just Monika.

Just Monika.

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