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当たり前を疑う自分でいたい。

常々そう思っている。

そして、この「当たり前」には2つの意味があって、それが【自分の当たり前】【世間の当たり前】だ。

そもそも「当たり前」ってなんだ。

▶︎当たり前
名詞|①だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然なこと。また、そのさま。②普通と変わっていない・こと(さま)。世間なみ。なみ。

「だれが考えてもそうであるべきだと思うこと」

わーお、驚いた。そんなことが存在してもいいもんか。いや、よくないどころか無理がある。存在しない。

無意識で行われる、人生の多数決

多数決をするときも、少数派の意見が押し潰されて、多数派の選択が良しとされるんでしょ。多数派の中にも実は違う意見を持ってる人がいたのかもしれない。周りの意見に流される時もあるよね。けど、多数派の選択が推し進められていくうちに、さもそれが「当たり前」のような顔をして世間でのさばるのだ。

これは言い過ぎかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。

「当たり前」なんてものは自分の中で、今まで出会った人たちの多数決が無意識に行われ、勝手に作り上げられた妄想に過ぎない。

家族・親戚・友達が海外旅行によく行く人たちだったら、自分が海外旅行に行く頻度も上がるはずだ。

逆に旅行にあまり行かない人が身の回りの圧倒的多数だと、旅行にすら行かないかもしれない。

自分の中の「当たり前」によって行動範囲が狭まっている。もし、そんなことがあったらもったいなさの極みだ。

こんな理由から【自分の当たり前】を疑う自分でいたいと思っている。

【自分の当たり前】を疑うもうひとつの理由

それは「こんな不確かな価値観を、他人に押し付けたくない」から。

「そんなの当たり前だろ」とか言っちゃって、ただの妄想である【自分の当たり前】を他人に押し付ける行為ほど残念なことはない。自分の行動を制限してしまっている可能性のあるものを他人に押し付けて、他人の行動まで制限しちゃってどうすんの。

余白のない世界

この世の中には当たり前が溢れてる。溢れ過ぎてて、余白がないからワクワクしないんじゃないの。そんなもったいない世界、壊せるもんなら壊しちゃいたいね。

他人を変えるのはすっごく難しいことだし、世間を変えるなんて大それたことは途方もない。でもね、自分を変えることはそんなに難しくないんじゃないかなーと。

だからこそ、【世間の当たり前】は壊せないけど、疑うことで自分の中の「当たり前の概念」だけでも変えてやろうって思うわけ。

世間へのささやかな抵抗ですよ。

映画館は飲食の持ち込み禁止ってなんでなの?セルフのガソリンスタンドはお札だけって誰が決めたの?頭ごなしに大学辞めちゃダメって理由、ちゃんと説明できるんですか?

別にいいじゃん。

こんな理由から。

こんな理由から、これからも全ての当たり前をどんどん疑っていきたいし、自分の中の概念をぶち壊していきたいと考えている。

全ての当たり前に、常に“?”をつきつけることで、もっと広い世界が見えるようになるのが楽しみで仕方ない。

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