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名前と人生の関係性を巡るクロニクル

30歳を過ぎる頃まで、「省悟」という自分の名前に対して良いイメージを持っていなかった。

意味は、省(かえり)みて悟る。常に過去を振り返って学べ、と言われているような気分と、実家の保守的な姿勢が重なり、その名前が、リスクを追ってでも未来へ一歩踏み出そうとする意志から自分を引っぺがしてリスクのない安全地帯へと引きずり戻すような、あるいは「お前は特別じゃない人間だから普通に生きること」という刻印を肉体に押されているような、そんな世界観の中で自分の名前を捉えていた。

小学生時代に担任の教師が手塚治虫を薦めてくれて読み始めた頃から、そうした呪縛や刻印から如何にして逃れることができるかをいつも考えていた気がする。手塚が火の鳥で描く未来の世界では、たびたび人間が限りない希望や欲望を求めて外へ外へと向かっていく物語が、内へ内へと向かう人間性の葛藤と絡み合いながら進行していく。それが、どこか自分の世界観を肯定してくれているような気がした。

昔からリアリティのあるフィクションに強い共感を覚えるのは、この社会が納得させられている、いわゆる「一般的な幸福像」という幻想から、どれだけ遠くに行くことができかが、ある種の自分の人生のテーマだったからかもしれない。

遠くに行くためには、スペースシャルトルが地球の重力を引き剥がすために爆発的なエネルギーが必要なのと同じように、自分を現状に縛り付ける重力から引き剥がすためのエネルギーが必要なのだと思う。スペースシャルトルが一人の才能だけで宇宙へ飛ぶことが不可能なように、人もまた多くの仲間たちの力を借りることでしか遠くへ行くことができない。

中学時代のある年の文化祭で、企画の言い出しっぺだったという理由でクラスのリーダーを任されることがあった。ETが満月の空を飛ぶあのシーンからそのまま宇宙へ飛び出しスターウォーズの物語へと変転するというミックスパロディ映画(タイトルは「スターウォーズET」)を制作した。

クラスの内で、映画評論好きと一緒にプロットを構成し、美術方面に進むことを決めていた仲間に美術装飾一式を造作してもらい、コンピューターに強い仲間にスターウォーズのあのオープニング画面をオリジナルでつくってもらった。そうしてクラスの連中がこれまで授業の中では発揮していなかった隠れた才能を持ち寄って早朝ロケから深夜編集までと映画作りに励んだ結果、当日は常に満席立ち見状態の超人気コンテンツとなった。結果もそうだけれども、そこへと向かう仲間たちとの制作のプロセスが、最高に面白かった。

自分の人生のビジョンは、何かをやりたいと思ったときに、それを最高のレベルでいつでも実現することができる仲間たちと一緒にいる環境をつくることだと思っている。それはもしかしたら小さい頃から変わらないのかもしれない。そして、そんな環境をつくりたいのは、今という現状から自分を引き剥がすための手段を常に持っておきたいからなのかもしれない。

2年ほど前、創業時の過度なストレスで自律神経失調に陥った際、そこから抜け出すための方法論の一つとして「禅」の思想と出会った。「喫茶喫飯」という禅語が示すように日常の瞬間瞬間に意識を置く思想を実践してみようと思い、日々のことをノートに書き留めるようになった。

その日を時間軸に沿って振り返ることで、そのときの自分やまわりにいた人たちの感情の変化や行動を頭の中で追体験し、大切だと思ったけれど忘れていたことを書き留めていく。そしてできれば一ヶ月ごとにそれをさらに振り返る。人間は日々膨大な情報と感情を処理しているので、瞬間瞬間で感じた大切なことの多くを、言われれば覚えてはいるけれども明日へ引き継ぎはせずに毎日を送っている。そうした自分の生き方の癖のようなものを把握し、よい面を伸ばし、悪い面を変えていくことで、人の性格は一年程度でも大きく変化していく。

人生とは常に選択肢の連続であり、その集合体である。選択の癖は、その振れ幅を規定するが故に、癖を認識し、意識的に変化させることで、人生の振れ幅はこれまでの想像の外側へと広がっていく。それは野球選手が自分のフォームと日々向き合い、ある時は大きくフォームを変えていくことに似ているかもしれない。とにかく、日々の思いを記録していくという行為は、自分にそうした新たな気付きを与えてくれた。

過ぎ去った過去を振り返るという行為は、使い方次第で人間の未来を大きく変える力と可能性を持っている。そうした気付きがあった時、「省みて悟る」という名前は、自分の生き方を否定するものから、肯定するものへと変わっていった。

曖昧な記憶だけれど、高校時代の国語の教科書で、ドストエフスキーだったような気がするけれども、過去を見抜けば未来が自ずと見えてくる、というような文章があった。当時、寝ているか大貧民をやっているかだった授業中には、その一説を自分の人生と統合できなかったけれども、今はたびたび頭に浮かんでくる。

過去を現在からの逃げ場ではなく、未来の選択肢を広げるための糧として自分に再インストールすることで、人はそれぞれの可能性を現在自分が想像しているよりも大きく、描くことができるのではないかと思う。

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