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『高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの』感想

    先日、東京国立近代美術館にて開催されている『高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの』に行ってきた。

  アニメーション関係の展示としては珍しく膨大な量の手記などを通して高畑自身の言葉や思考の足跡が示されており、特に『ホルスの大冒険』など初期作品にその重きがおかれていたのは非常に良かった。

 一方で、サブタイトルに掲げられた「日本のアニメーションに遺したもの」というテーマについてはあまり深掘りされていないというか、特に目新しい解説やキャプションは無かったと感じた。もしかしたら音声ガイドではそういうフォローもあったかも知れないが、その点はもう少し親切でも良かったのではないか。

 リミテッドアニメーションの金字塔『アルプスの少女ハイジ 』

 例えば、『アルプスの少女ハイジ』のコーナーではオープニングの原画・動画が展示されていたが、このオープニングにおけるハイジのスキップは日本アニメ史上片手に入るくらいの名芝居といって差し支えないだろう。

 日本のアニメはディズニーのそれと比較して制作環境(戦後、貧乏だった)の劣悪さから限りなく少ない枚数で作品を作ることを余儀無くされた歴史があり、いつしか日本の作るアニメは「リミテッド・アニメーション」と呼ばれることになった経緯がある。

 当初、この「リミテッド・アニメーション」というのは国内のアニメーション監督、特に古参の人たちからは揶揄に使われるような言葉だった。何故なら、人物や物の動きを細かく描こうとすれば、それはディズニー作品(フル・アニメーション)のように相当の原画・動画枚数が必要だと思われていたからだ。

 しかし、高畑のハイジのスキップはディズニーのスキップと比べればおそらく半分以下の枚数で描かれたにもかかわらず、見事な躍動感、朗らかさを獲得している。これは描いた大塚康二が凄いのか、と思いきや単純にそういう問題ではないことは後のフランダースの犬を見ればわかる。(参考リンク)

  さらに、『ホルス』の頃すでにフルアニメーションに挑戦して失敗している経緯を考えても(高畑は今回展示された資料の中でリミテッド・アニメの功罪を語ってすらいる)、リミテッドアニメーションを独自の演出論で見事に物にしている『ハイジ』は高畑の中で一つのターニングポイントであり、頂点の一つと言っても過言ではない、と言えるほど見所が盛りだくさんなのだ。

  あの伸びやかなオープニングがガチガチの理詰めで作られていることがハイジの面白さじゃないか!!インスタ映えコーナーを用意するくらいならもう少し踏み込んだ解説があってもよかったのではないか。

  実写とアニメーション、二項対立からの脱却

 本展は作家としての高畑の経歴とアニメーションの歴史を併記した年表から始まる。次のブースには半世紀前に書かれた「かぐや姫」に関する手稿も公開されており序盤から既に面白い。いや、むしろ序盤が面白い。特に年表は良かった。当然、オタクなら誰しも「何でアレは書かれてないの」というツッコミが沸き起こる部分はあるものの一つのアニメーション史の鳥瞰図として評価できる。

 高畑とは孤高な作家でありながら富野由悠季も「影響を受けなかったものはいない」という程の人物である。それ故に彼の足跡即ち国産アニメの深い歴史ということができるし、全く関係がないところで起こっていたように思える現象も実は地続きになっている事がよくよく再確認できた。

 また、高畑の作品を時系列に空間的に追っていくという体験はそれ自体が新鮮で貴重なものであり、それに伴って沢山の再発見があった。

 例えば、高畑の初期〜中期の演出志向は明らかに写実的リアリズム、つまり実写的なリアリティである。最もポピュラーな例として『火垂るの墓』での焼夷弾や清太の母の遺体はミリ単位で計算されたピッチリとしたカメラワークの中で描かれている事が挙げられる。

  高畑の中で写実的リアリズムがかなり初期の頃から意識されていたことは今回の展示された資料からも明らかだが、その理論の結果が果たしてどうなのかは議論というか感想は別れる。ぶっちゃけ面白いかどうか。これは高畑作品を評価する上で必ずぶち当たる問題である。

  率直な僕の意見としては『安寿と厨子王丸』〜『ホルス』までは、割と安直な印象というか「はぁ、なるほど、そういうご意見ですか。でもそれ面白いですかね」くらいが正直なところだが、『パンダコパンダ』以降、そして先述した『ハイジ』あたりからは一貫した演出理論に下支えされた映像の持つ強度というか、整然とした説得力を帯び始めて、高畑さんの作品はこの辺からは『おもひでぽろぽろ』以外はほとんど面白いと思う。

 また、この中期の作品に至るまで高畑の「アニメーションに何ができるか」という問いから始まる演出論の深掘りは、常に実写との対比の上に成り立っていたと言える。

  例えばかつて山田洋次との対談で、「アニメはピントが全部あっちゃってる違和感」を述べる山田に高畑は「そんなパンフォーカスがアニメの持ち味」と返している。つまり高畑はアニメの特色を踏まえつつも、実写的なリアリティを追求していたと言える。

 しかし『となりの山田くん』以降、つまり『山田くん』と『かぐや姫』は中期までの演出論を発展させた上で、いきなりその力点が変わる。

  『山田くん』からは自身が育てたとも言える写実的なリアリズムを批判するかのように画面の「余白」に着目し、余白のその向こうに視聴者の想像力から各々の現実を措定するような演出を目指しはじめるのである。

  それは高畑の「アニメーションに何ができるか」の問いかけが写実的リアリズムから離れ、純粋にアニメーションそのものへ向かったターニングポイントと言っていいだろう。

  そして『かぐや姫の物語』からはアニメーターのラフスケッチの線が持つ美しさやしなやかさに着目し、その一回性の表現に挑戦していく。

  何を隠そう、今回の展示で一番肝を抜かれたのは『かぐや姫』の原画の数々である。

  その原画から伝わってくるものはアニメーターのラフスケッチだの、その瞬間の線がどうだの、そんな生易しいものではない。完全に、才能が命を削って描いた線だと一目でわかる。たった一本の線の迫力たるや、もはや恐ろしい程であった。

  無理やり何か言おうとすれば、今回展示されていた文献資料でも度々言及されていたような、高畑のアニメーションにおいて標榜された人物の背景との調和、即ち自然との調和は、この線によって遂に可能にされたのだと思う。かつて絵巻で平面的に描かれた自然や魑魅魍魎、人びとの生活がアニメーションの「生きた線」で描かれることにより、正に動く絵巻として息を吹き返すのである。

  とにかく、『かぐや姫の物語』は絵巻として見るとすごく面白いことに気づいた。レイアウトやカメラワークも、絵巻のレイアウトで見ようとすると途端に面白くなる。 

高畑勲への新たな批評性の提示

  そして最も重要な点として、今回の展示で高畑は紆余曲折ありながらも明確に『かぐや姫』のようなゴールを若手の頃からずっと構想していた、もしくはこのような作品を生むような理論構築を絶え間なく続けていたということがキチンと体系的に明らかにされた事が挙げられる。

  一方でそれは、彼の理論構築や実験の変遷として作品群を再評価する機会がこの展示によって与えられたことを意味する。つまり一つの批判的なパースペクティブが立脚されたと言える。

  逆説的にはそのような視点に立ってこそ、高畑の足跡を膨大なメモや文献、作品資料を通して時系列に観直すことができる本展は二度とないかも知れないくらい貴重な機会でもあると思う。ぜひ再訪したいが…行けなさそうなのでこのノートを書いている。

    ケチを付けるとしたらハイジのジオラマ、あれはなんだ。高畑があのジオラマで喜ぶ観客を見たら憤るのではないだろうか。高畑がアニメーションを通して育みたかったものはアニメのジオラマを見て作品世界に浸るようなオタク性ではないはずだ。だから、あのジオラマにどんな意義があったのか。作品世界をジオラマで忠実に再現したらなんなのか、皆目見当がつかない。まぁ、SNS向けの広報戦略だと言われたらお終いだが。

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