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帰り道に知らないおばあちゃんから言われたこと

先週の夕方のことだった。

正確にいえば午後5時。

大分日も伸びてきたなと思いながら僕はコインランドリーからの帰り道を歩いていた。

家に洗濯機はあるのだけど、部屋が金持ちの犬小屋程度の広さしかなく干すところがないので、洗濯をするたび乾燥のためにコインランドリーに行くしかないのだ。

乾燥が終わった1週間分の服を洗濯ネットに入れて、それを両手に抱えながら僕は一歩ずつ家に向かっていた。

『あとちょっとだ!』

そう思いながら前を見ると、知らない人が50メートル程先からこちらを見ていた。

気のせいだと思ったが、近づいていくとやはり僕のことを見ていたようだ。

それはとても優しそうなおばあちゃんだった。

まるで一人息子が久しぶりに実家に帰ってきたことを迎え入れるかのような、あなたの事なら全てお見通しよと言っているかのような温かくてしっかりとした目をしていた。

この人が作る味噌汁絶対美味しいだろうなと思いながら軽く会釈をして通り過ぎようとした時、突然二、三歩僕に近づきながら言った。

『大丈夫だから、もういいから。』

彼女は背中をさすりながら確かにそう言った。

一瞬何を言っているんだこの老婆は?と思ったのが、顔に出ていたのだろう。

『大丈夫。大丈夫。』

彼女は畳み掛けるように再び僕を励ました。

小さくて、しわくちゃで、でも力強くしっかりと自分の足で生きてきた人の手だった。

もし、僕が直前にどうしようもなく辛いことや誰にも言えない悩みがあったとしたらずっと我慢していた涙が止まることなく溢れ出ていただろう。

しかし、僕は大抵のことはどうでもいいと思って生きている人間だ。これしきのことでは泣かない。

そもそも彼女の言葉はどういう意味なのだろうか。

大丈夫だから、もういいから。

これは本当に僕に対して言った言葉なのだろうか。

完全に人違いをしているのだろうか。

全ての若者にそれを言っている少し奇妙な人なのだろうか。

シチュエーションによっても全然意味が違ってくる気がする。

①何度も何度も失敗してるのにやる気だけはある奴が言う『お願いします!もう一回やらせてください!!』に対して呆れながら言う『大丈夫だから、もういいから。』なのか。

②不器用ながらもチームメイトに厳しい言葉をなげ続けて、それでも最後の大会負けた後のラストミーティングの時にもう我慢しなくていい、お前はよく頑張ったという労いの意味で恩師がキャプテンに対して言う『大丈夫だから、もういいから。』なのか。

考えれば考えるほど頭が混乱してきた。

ポケモンだったらとっくにヒヨコが頭の周りを回っているはずだ。

とにかく何かこのおばあちゃんに何か返さなきゃ。

頭の中はそれでいっぱいだった。

この場合何が正解なのだろうか。

こういう時僕は自分の語彙力の低さに絶望する。

ボキャブラリーの豊富な人だったらすでに三つ四つ答えの選択肢を持っているかもしれない。

しかし未だにこの時僕は手元に答えを何一つ持っていなかった。

頭の中の引き出しをひっきりなしに開けているにも関わらず、そのどれにも最適な答えは入っていなかった。

もう諦めよう。

諦めて、とにかく笑顔で思ったことを言おう。

僕はそう決めた。

ふと空を見た。

澄み切った空にポツンと一つだけ真っ白で大きな雲があった。

それは保育園児が絵日記を書く時に書くような大きな雲だった。

おばあちゃんの目を見た。

見本のようなしわくちゃな笑顔をしていた。

なんだか僕まで自然と笑顔になってきた。

高橋優の福笑いという曲の歌詞が僕の頭の中に流れてきた。

ありがとう、こんなかけがえのない時間をくれて。

もしかしたら、人違いだったのかもしれないけれど。でもそんな事は取るに足らないことで。

だってこんなに幸せな気持ちになれたんだから。

そう強く思った。

僕は自分の出来る最大出力の笑顔を作っておばあちゃんに言った。

『ありがとう、おばあちゃんも頑張ってね。』

それは紛れもなく僕の本心だった。

もう会えないかもしれないけど、でも何処かでずっと幸せに暮らしてて欲しい。そんな意味で言った言葉だった。

我ながら良い返しだな。そう思いながら、おばあちゃんの顔を見た。

また何か言ってくれるかもしれないと期待を抱きながら見た。

しかしながら、そんな事はなかった。



無視された。


何故か無視された。

しかも真顔で。


二人の間にありえないぐらいの沈黙が走った。

時間としては3秒もなかったと思うが、僕はその3秒が永遠に感じた。

思わず持っていた洗濯を全て落としかけた。

もう立っているのがやっとだった。

さっきまでの愛おしい時間は全て嘘だったんじゃないかとさえ思った。

もしかして最後の最後で僕はとんでもない地雷を踏んでしまったのかもしれない。

こんなに一気に雰囲気が悪くなるとは思わなかった。

雰囲気の良さは下降の一途を辿る。

この人の事を東京のお母さんと呼ぼう!そう一瞬でも思った自分がバカだった。

こんなにも心が通じ合っていなかったなんて。

僕はここにはいないどこかへ早く行きたくて、立ち去るようにその場を後にした。

魚の香ばしい匂いがした。

今日どうやらこの家は秋刀魚を食べるみたいだ。












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