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哲学ファンタジー 大いなる夜の物語 謎その7

謎その7 遠くの物ほど小さく見えるのはなぜ?

しばらく歩いていると、広場のようなところへ出た。

広場に面して、いろんな建物がある。とんがり屋根の建物が、広場に影を落としている。太い柱がいくつもついた建物もある。人はまばらで、荷車が一つ停まっている。小さくしか見えないので、何を積んでいるのかはわからない。うまく歩けるようにはなってきたけど、見えるものはまだ、ぜんぶ小さいままだ。

「荷車で果物を売ってるね。おいしそう。あっちにはパン屋さんもある」と石戸さんは言った。

「そろそろお昼じゃない?お腹は空いてない?」

そう聞かれても、

「歩けるようにはなってきたけど、うまく口に物を運べるかなあ」と自信なく答えるしかなかった。

すると石戸さんは、「ちょっとここで待っててね」と言った。そして、広場の向こうから歩いてくる人のところへと向かっていった。石戸さんは、その人と何か言葉を交わし、戻ってきた。

「病院へ行ってみない?広場をこのまま通り抜けて、向こうの道に入ったところにあるって」

そうだな。目や脳に異常があったら嫌だし、いい薬をもらえるかもしれない。

広場を通り抜けると、病院はすぐに見つかった。それは、古い洋館のような建物だった。僕には、きれいなミニチュアの家のように見える。ミニチュアの洋館の庭に、とびきり小さなバラの花が咲いている。

ドアを開けて中に入ると、そこは待合室になっていた。待っている人は誰もいない。緑色の絨毯の両側に、ソファが置いてある。

「いいですよ。入ってください」

左手にあるドアの向こうからそう聞こえたので、僕たちはドアを開けて入っていった。

そこは診察室で、医者が椅子に座っていた。「どうぞ」と二つの椅子へと促され、石戸さんと僕は、医者の前に腰かけた。

「こんにちは。今日はどうされましたか?」

僕は自分の症状を説明した。

「なるほど。あなたはこの街の人ではないですね?」

「はい。二人でバスに乗っていたら、なぜかここに来てしまったんです」

「バスですか。それはそれは、遠くからおいでになりましたね」

「そんなに遠いところなんですか、ここは」

「それはもう、はるか遠いところです。なにしろ、夜空だってすぐ近くにあるようなところですから」

医者は、机のカルテに何かを書きつけて、ふたたび僕のほうを向いた。

「あなたの症状は、そのことと関係があります。考えてみてください。物は、近くにあると大きく見えますよね」

「はい。小さな虫でも、近くにいると大きく見えます」

「そのとおりです。どうしてだか、おわかりになりますか?」

「ええっと、どうしてだろう。考えたこともなかったです」

「それはですね、近くにある物ほど、具体的だからです」

近くにある物ほど具体的。どういうことだろう。

「あなたがたは、〈具体的〉という言葉を、どういうときに使われますか?」

医者がそう聞くと、石戸さんがこう答えた。

「『具体的な例を挙げてください』と言うときは、実際にあるものを挙げてほしいときでしょうか。あと、『具体的に言ってください』と頼むのは、細かいところまで詳しく教えてほしいときでしょうか」

「そう、そのとおりです」と、医者は石戸さんを見て言った。

「〈具体的〉というのは、〈実際にあること〉とか、〈細かいところまで詳しいこと〉とか、そんなような意味です。そして、物は近くにあればあるほど、実際に存在するように見えて、細かいところまで詳しく見えます」

たしかに、近くにいる虫は、実際にリアルに存在するように見えるし、細かい部分まで詳しく見える。

医者はこう続けた。

「反対に、物は遠くへ行けば行くほど、実際にあるのかどうかわからなくなり、細かいところは見えなくなってしまいます」

たしかにそうだ。ものすごく遠くを飛んでいる飛行機は、小さな点のように見えて、本当にあるのかどうかもわからなくなってくるし、細かい部分はまったく見えない。

「つまり、遠くにある物ほど、〈具体的〉の反対、すなわち〈抽象的〉なのです」

遠くにある物ほど抽象的。難しいな。難しいけど、つじつまは合っている気がする。

「そのことが、僕の症状と関係しているんですか?」

「はい。まさにそうです。あなたがバスに乗ってやってきたこの街は、はるか遠くの街です。ということは、あなたにとってこの街は、抽象的な街なのです。だから、この街ある物すべてが、小さく見えるのです」

「抽象的な街、ですか」 

「はい、抽象的な街です。あなたにとってこの街は、どの街でもない、まさにノーウェアです」

ノーウェア・スパー。この街の名前だ。そういえば、この街は外国のようでもあるし、日本のようでもあるし、何だかよくわからない。それはこの街が、抽象的な街だからなのか。

でも、石戸さんも一緒にバスで来たのに、どうして石戸さんは何ともないんだろう。そのことを医者に聞くと、医者は石戸さんを見て、こう言った。

「それはこの方が、普段から世界を、抽象的なものとして見ているからではないでしょうか。いつも世界を遠くに見ているから、はるか遠くのこの街を見ても、変化を感じないのでしょう」

そういえば石戸さんは、遠くを見ているような顔をすることがある。

石戸さんは世界を遠くに見ているのか。

とにかく、僕は病気ではないようだ。よかった。でも、このままだと、食事もできそうにない。困ったな。

医者は僕のほうを向いて言った。

「心配はいりませんよ。小さく見えるのはなかなか治りませんが、体を動かすのにはすぐ慣れてきますから」

「うまく物を食べられるようにもなるでしょうか」

「それも心配いりませんよ」

医者はそう言うと椅子から立ちあがり、部屋の奥の窓のところにある、ガスコンロの火をつけた。ガスコンロの上には、青いポットが置いてある。医者は戻ってくると、

「ちょっとお待ちくださいね。お湯を沸かしていますから」と言った。

お湯が沸くのを待つあいだ、医者はこんな話を聞かせてくれた。

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