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デフバレー狩野監督から学ぶ共生社会とは

 「デフ・スポーツ」という言葉をご存知ですか。多くの方にとって、耳慣れない言葉だと思います。無理もありません。聴覚障がい者のスポーツのことなのですが、テレビ中継をされることはなく、新聞で報じられることもめったにありません。

 あるきっかけがあって、私はデフ・スポーツを取材しました。そのなかで、一人の女性と出会いました。狩野美雪さん。女子デフバレーボール日本代表チームの監督です。聴覚障がいの選手を率いて、2017年に金メダルを勝ち取った彼女の話は、2020年に東京で開かれるパラリンピックを間近に控え、「共生社会やインクルーシブ社会のあり方」を考えるきっかけになると感じ、原稿を書いてみました。

 ①なぜ、狩野さんはデフの世界に入ったのか

 ②デフ選手に技術を教えるためにどう工夫してどう障がい者と接しているのか

 ③自身がマイノリティーであることを認識することで相手を思いやる(相手の立場を想像できる)ことの大事さ

 などを感じ取ってもらえたらと思っています。少々長いのですが、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。なお、文中の敬称は省略しました。

祝勝パーティーが静かな理由

 デフバレーボール女子チームの祝勝パーティーが2017年10月1日、東京・表参道で開かれた。デフ(=deaf)とは、聴覚障がい者のこと。チームは2017年7月にトルコで開かれた聴覚障がい者のスポーツ大会「デフリンピック」で金メダルを獲得した。

 パーティーで挨拶した監督の狩野美雪(40)は「監督になった2011年、正直どうしようかと思いました。でも、いまは同じ目標を持っていれば、難しいことはないと実感しました」と話した。

 狩野は春高バレーの常連校である八王子実践高校へ進み、東京学芸大学を経て、実業団チームに入団した。卒業後は実業団でプレーし、2006年にV・プレミアリーグの強豪・久光製薬に移籍、北京五輪への出場を果たしたトッププレーヤーだ。

 デフではない彼女は監督に就任する少し前まで、「デフバレー」という競技の存在すら知らなかった。そんな彼女がなぜ、監督を務めることになったのか。

前任者との絆、そして別れ

 日本での現役引退を決めた2011年6月。東日本大震災の被災地で泥をかき出すボランティア活動に参加するなどしていた狩野のもとに、大学時代の1年後輩から電話がかかってきた。電話の主は、女子デフバレーボールの日本代表チームの監督をしていた今井起之だった。

 今井から「ちょっと練習を見に来て」と誘われて、後日練習場所に向かった。家から自転車で通える近場だったこともあり、軽い気持ちだった。前年の夏ごろ、今井から「がんを患っている」とは聞いていたが、久しぶりに会った今井は確かに具合が悪そうだった。

 デフバレーの日本代表選手は、普段は地域のチームや学校のクラブで練習しているが、月に1度招集される。土日やハッピーマンデーを使って2泊か3泊での合宿が練習の場で、2011年7月の合宿は1日から3日間、岐阜県内で予定されていた。

 今井から「手伝ってほしい」と言われていた狩野は岐阜へ向かった。直前に入院した今井は合宿に姿を見せなかったため、代わりに狩野が技術指導をした。

 合宿3日目の7月3日朝、狩野の携帯に今井の訃報が入った。

 スタッフの判断で選手には伝えないまま、その日(7月3日)、健聴者チームと練習試合をした。狩野が率いたデフチームが勝った。試合後、選手があまりに喜ぶので、「どうして?」と聞くと、「健聴者チームに勝ったのは初めてだから」と答えが返ってきた。

 その日の夕方のミーティングで、選手に今井の死が伝えられた。さっきまで初勝利の喜びに沸いていた選手たちが、一斉に嗚咽を漏らした。

 合宿を終えた狩野は遺体安置所で今井と会った。亡骸に向かって、健聴者に初勝利したゲーム映像を見せながら、合宿の様子を報告した。

 スタッフからは「監督になってほしい」と何度もメールがあった。同じ大学でプレーした今井は仲間、いや「同志」だと思っていた。引き受けたい気持ちはある。でも、結婚が決まったばかりだし、「指導経験のない私に務まるのか」と監督就任をためらっていた。

 背中を押したのは、夫で、当時バレーボール全日本女子チームのコーチだった川北元(現在はデンソー女子バレーボール部監督)の「サポートするよ」という一言だった。

 狩野は10月、監督に就任した。

試行錯誤した末の「見える化」技術指導

 監督として迎えた初練習に、狩野は練習メニューを用意して臨んだ。しかし、自分が期待していたレベルと、実際の選手の技術レベルには開きがあった。事前に用意していた練習メニューはほとんど消化できなかった。

 どう指導したらいいのか。狩野の「未知の世界」との格闘が始まった。

 まず意識したのは、「自分がマイノリティーだ」ということだった。独り善がりの指導では選手はついてこない。

 選手や手話通訳者とよく話すようにした。聴覚障がい者と言っても、まったく聞こえない人もいれば、補聴器をつければ少し聞こえる人もいる(デフの試合中は補聴器を外さないといけない)。ろう学校で手話などデフの専門的な教育を受けた人もいる一方で、普通学級に通っていたためデフ向けの教育を受けずに育った人もいる。状況や境遇によって、語彙やコミュニケーション能力に大きな差があることも知った。

 デフの置かれた状況が想像できるようになっていくと、バレーの指導法のアイデアも浮かんできた。狩野はあらゆる技術指導を「見える化」した。

 どんなプレーも、まずは狩野自身が手本を見せた。現役引退後とはいえ、ついこの間までトッププレーヤーだったから、よほど複雑なプレーでない限り問題ない。選手がミスした際には、ミスした選手の真似をしてプレーの失敗原因を身振り手振りで伝えた。

 デフバレーではゲーム中に選手同士が声を掛け合えない。掛け声が聞こえないからだ。だから、ボールの軌道が変わったときにどう対応するか、「チームとしての約束事」をあらかじめ決めておかないと、コート内の選手がぶつかるなどの危険がある。とくに相手が打ったアタックがブロックに当たってボールの軌道が変化した場合は深刻な事故になりかねない。狩野はゴム紐を使って、ボールの軌道の変化を教えた。ブロックにどう当たるかを目視し、その後のフォーメーションを決める戦術を選手たちはマスターした。

 もちろんジェスチャーだけで、細かな作戦を伝えて選手全員の意識を統一することはできない。

 きっかけは、狩野が「アタックはボールを切って!」「トスが割れている」と言っても、一部の選手がキョトンとしていたことだった。原因をたどると、手話通訳者が文字通り翻訳していることがわかった。

 狩野の指示はそれぞれ「アタックするときは、スピン回転させるためにボールを打つ位置をずらす」「トスがネットから離れている」という意味で、バレー選手なら常識的な言葉だが、デフの選手は、これまでの生活によって語彙に差がある。手話通訳者もバレー経験者ではなかった。どう解決するか……。

 狩野はなるべくバレー専門用語を使わないようにしたうえで、チームに帯同している手話通訳者とバレーボールの技術的な話をたくさんするようにした。手話通訳者がバレー技術をマスターしていれば、適切な通訳をしてもらえて、選手に正確な意味が伝わると考えたからだった。

 さらに、選手と話すときは、横並びにならず、正面で向き合うようにした。指導中に大声は出さない。だが、選手たちの読唇術を最大限に引き出すため、口の周りを大きく動かして話すようにした。

マイノリティー苦にしなくなった海外経験

 人は誰もが「自分はマジョリティー」と思いたいのが常だろう。あえてマイノリティーにはなりたくない。なぜ、狩野は苦もなくマイノリティーの境地になれたのか。

 海外でのプレー経験が狩野の人生観を左右していた。

 北京五輪が終わり、久光製薬に所属していた2010年。左アキレス腱がずっと痛み、手術しても全快しない。モチベーションが上がらなくなった。久光製薬からの退団を決意し、「自分のことを誰も知らない場所」でバレーをしたくなった。英語は話せなかったが、デンマークで選手生活の最後を過ごした。

 デンマークでは3LDKの部屋で、カナダ人と米国人、デンマーク人の4人で共同生活をした。冷蔵庫をシェアしたとき、「アジア人のせいか、一番狭い空間」だった。でも、自分が好んでここに暮らしている。そう考えると、マイノリティーの境遇を自然と受け入れられた。

選手に厳しく指導する理由

 狩野は監督として、選手たちに同情して寄り添っていただけではない。「日本代表に選ばれたからといって、何もかもサポートしてもらえるのが当たり前だと思ってほしくない。応援してくれる人たちに与えるものがないといけない」。狩野には、選手に厳しくする理由があった。

 狩野の目標は金メダルだから、選手に求めるプレーのレベルは高い。選手に求めているのは技術レベルだけではない。選手たちには何度も繰り返し「日の丸を背負ってプレーする自覚を持て」と言う。練習中に手を抜く選手には「練習に来たくないなら帰っていい」とも言う。

 選手は学生や社会人なので、試合をする際には大学や企業が休暇を認めてくれるなどの協力が欠かせない。「結果を出さなければ、支えてくれる人や、支えようとしてくれる人もいなくなる」。オリンピックでメダル争いをしていたトップアスリートだからこそ、実感を込めて言える言葉だ。

静寂の中に通い始めた「音」と「熱」

 選手たちから手話通訳者を介して話を聞いた。

 セッターの畠奈々子(田辺三菱製薬)は狩野の指導について、「これまで味わったことのないほどの厳しい練習だ」という。試合中、ボールは予期せぬ方向に動く。声掛けはできないが、アイコンタクトで誰がレシーブし、誰がアタックを打つか決めていくのだが、そこで練習で決めていた約束事が生きてくる。厳しい練習をしていたからこそ、誰がどのポジションで何をするのか自分の役割がわかるのだという。「デフリンピックの試合中は、まるで声を掛け合っているかのような不思議な感覚でした」

 長谷山優美(平塚ろう学校)は「狩野監督の指導は熱血で、わかりやすい。もっとうまくなりたい」と話した。

 選手たちは音のない静寂な世界でプレーをしている。その静寂なはずの「狩野ジャパン」に「音」や「熱」が通い始めている。

優勝決めた直後に起きた「予期せぬこと」

 狩野が率いるデフバレー女子チームは2017年にトルコで開かれたデフリンピックで、1セットも落とさず7連勝する「完全優勝」で金メダルが決まった。決勝の相手はイタリア。ゲームに勝ち、狩野の胴上げが始まろうとしたとき、予期せぬことが怒った。

 選手たちが「これを着てください」と言うように、ベンチのいすに掛けていたジャージを突き出してきたのだ。

 このジャージは、狩野をデフバレーの世界に引き込んだ今井が生前着ていたものだ。狩野は試合のときにいつも今井のジャージをベンチにかけていた。

 狩野と今井の関係は深い。だが今井が監督をしていたのは2011年までだから、代表チームの中には今井のことを知らない選手もいる。狩野は今井のことを選手の前で話すことはしてこなかった。だが、狩野が今井へ抱く思いを、選手は知っていた。

 今井のジャージを重ね着した狩野は、選手に持ち上げられて宙を舞った。胴上げが終わったあとしばらく、涙が止まらなかった。

 デフリンピックで金メダルを獲得して帰国後に取材した際、狩野は私に「デフチームが健聴者チームに勝てるようになったり、もっと注目を浴びてプレーに誇りを持ったりすれば、選手の意識がいい方向に変わって、自信を持って社会人生活を送れるようになると思います。このチームはその可能性を持っています」と語った。

 ほぼボランティアで監督を務めているにもかかわらず、狩野の視界には、競技の勝敗はもちろんのこと、「その先にある選手たちの人生」が入っていた。

 狩野はデフリンピック終了時点で監督任期を満了した。帰国直後には、「今後のことは白紙です」と話していた。

 そして、2018年が明けて、狩野は「私なりにデフの世界で役立てることがある気がしてきました」と私に話した。

 2月23〜24日、全国の41チームが参加してジャパンデフバレーボールカップが川崎市内で開かれる。その大会のころには、狩野の今後の身の振り方が明らかになるはずだ。

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shoichiro kawano

新聞社で社会部記者や週刊誌の編集をしていました。中退して現在はフリーランスです。独自取材したオリジナルなものを、できるだけ多く書いていきたいと思っています。ダジャレもたまに書きます。Twitterは@shoichirok

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