見出し画像

05.電子書籍の読み手・リサーチャー小口さん→小説家菊池さん

それにしても、不思議なことに

オーケストラの演奏に聞き惚れて、人は惜しみなくお金を払う。歌舞伎見物で気分高揚して「成田屋〜!」「音羽屋〜!」なんて掛け声したら、もう満悦でお金を払う。ロードショー見に行って、映画館の暗闇の中でホロホロホロなんて涙流したら、満足してお金を払う。美術展に行って絵画の前で「フ〜」なんて詠歎してお金を払う。鑑賞するだけ、保存も出来ず、所有も出来ず、そういうことに対価が払われる。それが当たり前のこととなっている。

しかるに、「本」となると事情が違う。厚みを持ち、重さがあって、大きさがあって、触ることができ、持ち上げることができ、ページをめくることができる。さらに、買い取って自分の占有支配下に置く(所有する)ことのできる形をもって始めて商品価値を持つ。三次元をなす「物(ブツ)」となって始めて経済価値が実現する。

本来、そういうブツはコンテンツ本体ではない。単なるパッケージであろう。しかし、それがパッケージではすまないのだ。そのパッケージにコンテンツがビルトインされて始めて価値を持つ商品が「本」である。実に不思議だ。

コンテンツだけ欲しがる自分のような人間。パッケージは要らない。重みや厚みや大きさ、それはノイズだ。コンテンツだけ売ってくれ。そんな要求を出す自分のような客は、“変人”か、まあ、そこまで言わずとも、まだまだ日本の消費者の中では少数派なのだろう。

(何ですって!? 「猫だまし」なんて言ってる人がいるんですか!?)

この不思議、だが、持てて、さわれて、捲れて、飾れる。そうならなければ商品とはなり難い、この“フェティシズム”の中にこそ、「本」という商品の特殊性、固有の意味が潜んでいそうだ。この秘密、この不思議を鋭利に解明しなければ、次へはおそらく行けないのだろう。

電子ブック党・小口達也(会員no.43)2015/12/11 23:38

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?