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「天使のいない世界で」第1章 あたたかな場所には、とどまれなくて(4)

*  *

「――お世話になりました」

 燦然と輝く朝日が、ふわふわとした金髪を照らす。
 着古したブラウスに黒いベストと深緑色のロングスカートを合わせたメイは、半年間暮らした、青い屋根が爽やかな丸太造りの小さな家の前で深々と頭を下げた。

 見送られるのが寂しかったため、こうして早朝にこっそり出発することにしたのだ。しかし玄関には包みが置いてあって、中には手作りのサンドウィッチが新聞紙にくるまれた状態で入っていた。
 きっと『お父さん』には、すべてお見通しだったのだろう。
 そのお返しとしては到底及ばないが、メイも、調理場を拝借してこっそり作った焼き菓子と、準備していた手紙をテーブルの上に置いて家を出てきた。

(お口に合うといいなあ。店長優しいから、きっと不味くても全部食べてくれるだろうけど)

 想像するとなんだかおかしくて、メイは涙目になってちょっぴり笑った。こうしていると、ここで過ごした楽しい日々が蘇る。
 思い出に浸っていると、「またぼーっとして!」なんて声が聞こえた気がした。
 天界で別れたきりの幼馴染たちは、時折記憶の中から出てきては、メイの背中を押してくれる。

(うん、立ち止まらないで前に進まなくちゃね。泣き虫は封印だ)

 住み慣れた家に背を向け歩き出し、やがて小さな林に足を踏み入れる。
 底がすり減ったブーツが落ち葉を踏む音を聞きながら進んでいると、丸太橋がかかった小川が現れた。
 時間帯もあり木陰で薄暗いため、いつもは澄んだ色をしている水面が黒っぽく見える。自然と、ある人の髪を思い出した。

(結局、エルさんにお別れを言えないまま出てきちゃったな)

 昨日に限って、彼は朝に来たきり姿を見せなかったのだ。
 丸太橋を渡りながら、まだ宿で眠っているだろう彼の、瞳が隠れた笑顔を思い浮かべる。

 エルというのは彼の本当の名前ではなく、適当に決めた名前なのだという。
 というのも、おそらく顔に火傷を負った出来事の後遺症で、以前の記憶を失ってしまったらしいのだ。それから数年に渡り自分を探す旅をしており、その最中にネリネ村のそばで倒れ、メイに助けられたというのが事の顛末だった。

 医者が言っていたように、あの日倒れていたのはきっと精神的な疲れからだったのだろうとメイは考えていた。そんな彼がいつも笑顔を絶やさないのは、不安な気持ちを隠すためではないかといつも気がかりだったのだ。 

 しかし、心配するだけで手を差し伸べることはできなかった。悔やまれるが、互いの身を守るためには仕方がない決断だったと思うしかない。

(エルさんの記憶が、早く戻りますように……)

 誰にともなく祈る。いずれ天使を殺すことになる人間に啓示を与え「勇者」に選んだ……そして、『扉』をあえて勇者の監視下にだけ残した創造主に祈る気にはならない。

 そうこうしているうちに、あっという間に林の出口が近づいてきた。視界が開け、畑に挟まれたのどかな一本道が目の前に広がる。
 一時間ほど歩けば港だ。そこから出る定期船に乗れば、半日で次の目的地に着く。

(あれ?)

 馬の蹄が地面を蹴る音が耳に届いたかと思うと、一台の馬車が進行方向から現れた。荷馬車ではなく、見るからに高価そうな黒塗りの箱馬車だ。

(珍しい。村に向かうのかな? それも、こんな時間に……)

 林の先には、ネリネ村しかない。基本的に行商人と旅人しか立ち寄らない土地であるため、あんな馬車が来たらみな驚くだろう。
 さっと道を開けて畑ギリギリのところまで寄ると、馬車が横を通り過ぎていった――のだが、少し進んだ場所でゆっくりと停まった。

(? どうしたんだろう)

 なんとなく見ていると、山高帽ボーラーハットを被った男性がゆったりとした足取りでステップを下ってきた。片眼鏡モノクルをかけ上質そうな漆黒のコートを羽織っており、老齢と言うほどではないが、少し曲がった腰を支えるようにして黒く艶光りするステッキをついている。

「お嬢さん、ちょっといいかな?」

 穏やかに微笑みながら近づいてくる男性の後ろには、体格のいい青年が一人控えている。日に焼けた顔にいくつも作った傷と鋭い目つきから、荒くれものという印象を受けた。きっと金で雇われている付き人だろう。

(……怖いけど、話しかけられた以上無視はできないよね。道に迷ったのかもしれないし、助けないと)

 メイは勇気を出して、ゆっくり彼らに歩み寄った。

「どうかされましたか?」

 聞いてみたけれど返事はない。紳士風の男性は顎に手を当てて、メイをじろじろと見ているだけだ。なんだか嫌な感じがした。

「あの、何か?」

 もう一度尋ねると、男性はいまだ後ろに控えている青年に目くばせをした。青年が頷く。

「報告にあった者に間違いありません」
「え?」

(報告って……?)

「はは、それはよかった。お嬢さん、ひと月前くらいに天使の羽根を買ったね?」

 思わぬ問いに、メイは小さく息を止めた。
 たしかに男性の言うとおりで、村に訪れた行商人から羽根を二枚買い取った。勇者に献上するつもりだと言っていたが、必死に説得したところ、最後には安価で譲ってくれたのだ。
 咄嗟に何も答えられずにいると、男性はメイへと一歩近づいた。

「あれは、とても価値のあるものなんだ。私に譲ってくれないかい?」

 優し気な口調とは裏腹に、獲物を前にした蛇のように威圧感のある瞳だ。背筋が凍る。

「代金なら、君があの行商人に出した三倍は払ってあげるよ? 私はちょいと名のある収集家でね。羽振りはいいんだ」

(……逃げたら逆効果だ。気持ちを伝えれば、きっとわかってもらえるはず……)

 メイは覚悟を決めて、片眼鏡の奥の落ちくぼんだ瞳をじっと見つめた。

「……ごめんなさい。とても大切なものなんです。お譲りすることはできません」

 男性の顔がぴくっと引きつったのがわかったため、深く、深く頭を下げる。

「どうか、お引き取りください」

(お願い、諦めて!)

 じっとそのままでいると、思いがけず笑い声が降ってきた。

「あはははは! 馬鹿な小娘だ!」

 はっと顔を上げたのと、体が浮き上がったのはほぼ同時だった。付き人の青年が、メイを軽々と肩に担ぎ上げたのだ。

「な、何をするんですか!? 離して!」

 必死に手足をばたつかせるが、青年のがっちりとした腕はびくともしない。

「馬車に連れていけ。服を全て脱がせれば、出てくるだろう」
「御意」

 耳を疑うような会話に、目の前が真っ白になった。
 羽根は首から提げた小瓶の中に全て入っている。それが奪われれば最後で……それに、小瓶は『鍵』のペンダントチェーンに通しているのだ。ブルースターの細緻な意匠は、きっと宝飾品としてそれなりの値打ちがある。

 これまでの日々で、ペガサスが迎えに来ることはなかった。
 勇者の監視下にある『扉』を通ることなんて不可能だし、天界に帰れる日はきっとこないだろうと頭では理解している。
 それでも……可能性を全てむしり取られたら、メイはきっと強く生きていけない。勇者に殺される覚悟はできているというのに、矛盾しているだろうか。

 暗い色をした絶望に絡め取られそうになったときだった。

「その汚い手、離しな」

(……え?)

聞き慣れた声がしたかと思うと、視界が大きく揺れる。浮き上がった体を抱きとめてくれたのは――。

「大丈夫か?」
「……エルさん! どうして……」

 見上げた瞬間、重たい前髪が揺れた。しかし、瞳は確認できない。
 彼は問いに答えないまま口元だけで小さく笑うと、メイをそっと地面に下ろした。

「すぐに片づける」

 赤茶けたマントが翻る。
 向かう先には、畑から這い出てきた青年。腹部に靴跡がくっきりのこっていることから、先ほどエルに蹴り飛ばされたのだとわかった。

「……っ、坊主。よくもやってくれたな」
「それはこっちの台詞や。あんたら、俺の大事な子に何してくれとんねん」

 その声は、聞いたことがないほどぴりぴりしていて。今まで何度も告白されたのに、「大事な子」という響きに今更心臓が大きく跳ねた。

 青年とエルが対峙し、睨み合う。互いに仕掛けるタイミングを狙っているような状況だ。
 ごくり、とメイは唾を飲み込んだ。
 そのとき。ふと、視界の端で何かが動く。無意識にそちらへと目を向け――。

「だめ!」

 メイは全身で叫び、駆け出した。
 収集家がライフルを構えているのだ。銃口は真っすぐエルに向いている。迷わずその一直線上に飛び込むと、片眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれた。

「――っ!」

 肩に感じた、焼け付くような痛み。狙いを外した弾丸はメイの肩をかすめ、均衡状態の二人の間へと飛んでいく。

 空気が緩んだその一瞬を、エルは見逃さなかった。瞬きもできないような素早さで間合いを詰め、覆いかぶさろうとした青年の懐へと飛び込む。
 そして流れるような動作で胸ぐらを掴んだかと思うと、普段のへらへらした様子からは想像できない力で相手を投げ飛ばした。

「うわあああっ!」

 泥を舞い上げて畑へと落下した青年。一方の収集家はというと、弾丸が残っていなかったようで、情けない声をあげながら馬車へと駆けだした。

「……た、助けてくれえ!」
「おい、こら! 待ちやがれ!」



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