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良いことをするという構造からの逸脱

良いことをしている。

そんな感覚に苛まれることが無くなってきた。1年半もの間、お布施を受け取り、送り出してきたけれど、ずっと「良いことをする」という規範に紐付けられていたような気がする。「良き自分を演じなくてはいけない」というのも同じようなものだ。その際に認識の中に立ち現れる「良い」とはどういうことなのか。

22年の9月、10月、11月は寝込んでいたり、調子が低迷していた時期だったけれど、この時期が本質的に私にとって大事だったと思う。芋虫がさなぎになって、蝶になる。そんな変容体験だった。さなぎになる時、芋虫の身体構造はドロドロに溶ける。蝶になった後は芋虫の身体構造とは違う構造で生きていくことになるのだ。あくまで蝶になったというのはメタファーであって、私の場合は何度も精神的な変容を経験すると思う。今の構造もドロドロに溶けて、保てなくなる時期がくると思うから、あくまで仮の構造体として生きようと思う。

新しい構造体として生きる。そこで出てこようとしているものが「0をニュートラルポジションにした往還運動」だ。お金を例にすると、+になったら、0にする。それを繰り返す。

特に0にすることに意味を見出していない。やり続けてみると面白そうというくらいのものだ。

この往還は「良いこと」なのか。そう問われても、どうでもいい気がする。ひとまず、面白いという感情を自ら受け取り、発露させていくことをやりたい。それが良いのか、悪いのかとか、そういうふうなところに留まらず、運動として発露していく。

「良いことをしよう」

それって生きる上でどの程度 重要なことなんだろうね。引き続き、探究だ。

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