新生活でのアンラーンをいかに行うか

今日は少し教育寄りの言葉を使って話そうと思う。

「アンラーン・学びほぐし」

教育や学びの領域の中で特に私が興味を持っているのは上の概念だ。ちょうど、年度末で生活が変わる人が多いだろうから、その人たちに向けて書いてみようと思う。

普通の記事では、どういう心構えで新しい生活の行動様式を覚えていけばいいのか、チャンレンジしていけばよいのかという感覚で書かれるものが多い。それをたとえば獲得的な学びのあり方だとする。

ここで書きたいのは、獲得的な学びと同時に起こっているであろう、何を手放していっているのかという学びだ。それは獲得しているというよりも間引いていくような感じ。自分に張り付いてしまっているものを引き剥がしていくことだ。

たとえば、大学を卒業し、就職したとする。すると、全く大学の世界と異なる世界が広がっている。「学生気分を早く抜け」と言われて、必死に頑張る。猛烈な違和感を感じつつも、いつの間にか慣れてきて、最初は適応することができなかった環境でうまくやることができるようになっていくだろう。

物事はこんなにすんなりいかないだろうけど、学生気分を早く抜けという言葉は言い換えると、前の考え・思考の仕方を手放そうね、という風に言えるだろう。

自分なりにこのアンラーンを早める考え方について考えてみたい。

A)基本のマインドセット:時間は不可逆的なもので二度と戻ってこない

高校生から大学生になる
誕生日を迎え27歳になる
今日1日働いて、寝て明日になる

全て、時間はすぎてしまっている。二度と戻ってくることはない。私たちは時間の不可逆性の中に生きている。

しかし、不思議なことに頭の中の体感時間はというと、外的に定められているようなリニアな時間軸のようではない。小学校の頃を懐かしんで思い出すこともあれば、未来の死ぬ時のことを想像することもできる。体感の中では、過去も未来も味わうことができて、あたかも今、味わっているかのように感じることができる。

実際、体感し続けているのは普段に続く今しかないと考えると、過去やら未来やらいろんな言葉を使いつつ、私たちは今しか体感することができていない。アンラーンについて考えを深めていく上で、このマインドセットは重要だ。

私たちが過去からひきづられていると感じている時、それは今現在の体感の中で起こっている。今の私が抱える何かを手放さなければいけない。

B)違和感を大事にする

これまでのやり方、考え方と違うところに移ると、確実に違和感が出てくる。その違和感自体は、自分の内的に持っているシステムと外的な世界との間に衝突が起こっていて、体にエラーが出ているのだと仮にしておく。

もちろんそのエラーを気にしていたら、目の前の変化についていけないかもしれない。ただ、そのエラーをただ無視していくのではなく、エラーが起きているなぁと感じ続けてみてほしい。

行うことは違和感を感じること、受け取ることだ。

違和感をどのように表出させるのか、どう周りの人に伝えるのかは自分で洗濯したいところ。感情を感じたら自動的にただそれを出してしまって、仕事先の人や友達との関係が壊滅的になるのは避けたい。

じゃあ違和感は無視して、とにかく行動でいいのでは?と言われるかもしれないが、なんだかそれだけだと不十分な気がするんだよね。

自分の違和感を受け取らずに、否定し続けている人がいるとする。身の回りにもそういう友達はいる。違和感があるのにそれを抑圧していくと、いつのまにかその違和感を感じていたことすら思い出さなくなる。

でもそれって適応ではなくて、心の中で悲鳴を上げ続けてる時もあるんだな〜とこれまで人と関わってきた中で思う。違和感はあっていい。受け取ったあとで、自分の行動を選ぶ。その違和感を抑圧し続けて、うつ的になっている人が周りに何人もいたことを思い出す。

C:考えを保留にする

これはカルチャーショックを乗り越えるための異文化適応の領域でも必要な観点とされているみたい。

以前の思考習慣・行動習慣が新しい生活の中で何回も出てくる。それに気づいたら、"そうだ!" "〜であるべき"を"〜かもしれない"というゆるい言葉に変えていこう。

〜かもしれないという言葉は優柔不断だから使う言葉なのではない。自分自身をまだ見ぬ可能性に拓くための言葉だ。あまりにも連発すると、周りの人は戸惑うだろうから、あくまで自分の心の声に反応する時にしよう。

D:外部化する

どういう自分の思考パターンが繰り返されてしまっているのか、行動パターンが繰り返されてしまっているのかを掴むためにはそれを外に出すのが一番だ。

言葉でも、絵でも、なんでもいい。

それを書き出した・描き出したあとにどういう自分の固定的なパターンが表出しているのだろう?と問いかけてみるとなおさら効果が出る。


E:気兼ねなく話すことができる関係の人を持つ

これは最近、自分がほかの人にありがたいなぁと思っている観点。Cで書いた判断の保留が特にうまい知り合いの人たちがいると、手放すことは楽になっていく。

そういう関係は自分自身がそういう関わりをしていくと自然発生的に生まれていく。『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』とかは、そのコミュニケーションのあり方を深めていくのにとても参考になるよ。

最近自分がトライしているのは、こういう自分の考えを手放せるゆるい感じのコミュニティ作り。意外と気兼ねなく話せる関係性ってないからねぇ。利害関係が入ってくるとそれが崩れてしまうし...。1人1パートナー、1コミュニティおすすめです。


AからEまで、抽象・具体のレベルも包括的かどうかも気にせず書いてみた。ただ、上に書いたようなレベルとは違うアンラーンのあり方の存在を感じている今日この頃。それについても少し書いてみます。


そもそも、アンラーンはする、しないという風に二分化してしまうのではなくて、アンラーンし続けているという状態にもっていきたい。

A:時間は不可逆的なもので二度と戻ってこない

を思い出してみる。時間が流れたら、絶対に戻ってこないとする。(高速よりも早く移動したら、過去にいくことはできるのかな。忘れた。)

物理現象をがちゃがちゃやって、過去にいけるとしても、現実世界に生きている自分たちにとってはほんの少し戻れるだけだから、誤差の範囲としていったん置いておく。

環境が変わったからアンラーンがーーーとかではなくて、

毎日環境変わってるから、毎日し続けるしかない。

毎日変化がなくてーーーと言っている人がいたとしても、その人の毎日は絶対一緒ではない。

私の場合は、家から駅まで20分だ。その道のりは絶対に違うし、変化に溢れている。ついでに自分自身の内面世界も変化に溢れている。

常にさまざまなものが相互に関連しながら、変化し続けている。毎日違って、毎日今日という日を即興的に生きているのだから、昨日までの方法論なんて軽やかに捨て続けないといけないはずだ。


どんどん身軽になっていく。スキルや経験はあるんだけど、限りなく持たない。手放していくことで、目の前の選択がより創造的になっていく。

人生は一回しか体験できない即興の連続でしかない。

今の瞬間が連続的に起こり続けるのだから、結局は今を懸命に生きていくことしか、できない。(とはいいつつ難しい)


意外とAのような時間感覚を取り戻すだけで、アンラーンの技術は自然についているのかも。では即興で生きるってどういうことなのか?即興で生きているつもりになっているけど、今にあれてない場合はどう今という即興の中で生きる力を取り戻していけるのか....

次に考えるのはそのあたりになってきそうだ。

新しい学びのために、獲得するばっかりではなくて、手放していくことも考えよう。それが結構、ラーニングの世界で豊富に語られていないことだよね。


頂いたサポートは、生活と創作(本執筆)のために、ありがたく使わせて頂きます!