シンポジウムでは[一緒に酒を飲むこと]が欠かせない!

シンポジウムの語源をご存知ですか?

συμπίνειν (sympinein)(意味は to drink together、一緒に酒を飲む)から派生した、古代ギリシャの「饗宴」 συμπόσιον (symposion) に由来するとされる。プラトンの対話編『饗宴』にもその様子が描かれている。「シンポジウム」は symposium の特定の言語での読みではなく、ラテン語では「シュンポシウム」、英語では「シンポゥジアム」である(Wikipediaより)

今年の前半で京都で知り合いの人たちと話していた時に、シンポジウムの語源についての話になりました。それで知り合いが語源を調べてみたら、なんと[一緒に酒を飲む]というところから派生してきた言葉だと判明!

それがなぜか超 頭の中に残ってまして。飲み会のことを最近はシンポジウムと呼んで遊んでいます。


研究者の方へのリスペクト

この言葉がとても印象に残った背景には、自分自身が、研究者の世界と接続されたいという気持ちを持っていたことが大きいです。シンポジウムって言葉はよく研究者が集まる場に使われていますね。

私はもともと京都大学で学んでいました。自分は研究者の道に進まなかったけれど、それぞれの研究者の人たちの話は面白いと思っているし、独自の観点で物事を見ようしている彼らを尊敬しています。

私自身が独自の物事の切り取り方をする人に惹かれるんです。

アーティストたちへのリスペクト

さらに、同様にリスペクトの感覚を持っているのがアーティストの方々。自分をさらけ出して表現活動するのって怖いじゃないですか。自分の物事の見方をさらけだしているの、すごいと思うんです。

これまでアーティストの方々がなぜ重要だと思うのかを無意識に感じていたのですが、ようやく物事の捉え方が面白く感じているのだなということがわかってきた。

哲学者たちへのリスペクト

さらにはですね、哲学者の方々にもリスペクトの感覚を持っています。

彼らは自分の目線からみると、世界に対する理知的な思考を積み重ねています。それは答えだと思われていることを問い直し、さらに定義を作り出し、ある時には社会構想までも打ち出してしまいます。

それが特徴的な人たちが哲学者なのだと思います。あくまでも私論です。

人へのリスペクト

とここまで書いてきたのですが、人の物事の見方ってそれぞれ違いますよね。どういうふうに世界を捉えるのか(世界観)も違うし、人間とはどういう存在なのか(人間観)も違うし、自分自身をどういう存在だと思っているか(自己観)も違うし、それらがまったく同じ人なんて存在していません。

人の数だけ物事の見方は存在するし、それぞれの人が持っている視点が尊いのだと思います。

シンポジウムは堅そう。ゆるくやりたい。

話をシンポジウムに戻します。

シンポジウムってすごく硬いイメージあるんですよ。

発表していて、質疑応答があって、すごく表情堅そう。そういう場にいても自分だったら、自分が思ったことをさらりと外に出すの、難しいなと思ってしまいます。

でもシンポジウムの語源って、[一緒に酒を飲むこと]じゃないですか。だったら、酒を飲みながら行うゆる系シンポジウムがあってもいいなと思ったんですよね。

お寺でありのままに世界を見ようとしてみたい

シンポジウムの開催場所ですが、お寺でやりたいんです。

仏教の教えの中に正見という考え方があります。ありのままに世界をみようね、という考えです。これを聞いた時に科学の世界と世界に向き合う態度が近いなと思いました。

伝統的な科学の研究アプローチは[客観的に世界をありのままに見ること]を志向していると思います。それに対して、[認識の世界においてありのままに見る]ことを志向していると思います。

確かに毛色は違うんだけど、そこをゆるく[ありのままに見る]という接続点を作って、それらがともに同居できる空間を作ってもいいのではないかと思うようになってきました。

普段の生活の中で、現場の中で、いつのまにか自分自身の世界の見方が固まってしまって、閉塞感を抱く。こういうことってあると思います。

そんな時にぜひお寺に来てほしいと思っているんです。お寺って、すこし自分の生活からフッと離れて、自分を内観できるような気がしませんか?

トランジション・シンポジウムは世界観を仮置きする場

トランジション・シンポジウムではゲストの方に人生の歩みを語ってもらいます。さらに、三浦がモデレートしながら、どういう世界観で生きているのか、どういう世界観を体現されているのかを引き出していきます。

参加してくれる人たちに、その世界観で物事を見て、あなたの世界観を塗り替えましょうというふうにはなってほしくない。ゲストの方の世界観はゲストの方のもので、参加者の方々の世界観は参加者の方々のものです。

しかし、一方で、世界観は世界そのものではないかもしれません。誰もが、自分の世界観を投影した世界を見てしまっています。それは実存的に存在している世界とは違うかもしれない。だから、この場では、世界観を仮置きしてみることができるといいなと思っています。(こういうふうに語っていることも自分の世界観の提示ではありますが)

発見すること

世界観を仮置きしてみるとき、世の中がこれまでと違うありのままのものとして認識できると面白いなと思っています。そんなに簡単なものではありませんが、それを目指してみたい。

発見をすることは、世界はこういうものだよ!!!と意味付けすることだけではなく、逆の方向にも存在しているのではないかと思っています。

発見することは、世界はこういうものだということを知っていくプロセスで、自分の物の見方をただただ手放していくことでもあります。

結局何がやりたいのかというと

みんなで自分自身が持っている世界観って何なんだろうねって一緒に考えたり、一緒に感じたりする、参加型一緒に酒を飲むシンポジウムがやりたい。

三浦は普段からこういう感覚で人と関わっているので、よくゲリラシンポジウムが身の回りで発生します。それをもうすこし拡張して、参加者30人〜50人くらいでやってみたいと思っています。

ゲストに誘ってみようと思っているのは、ビジネス・科学・アート・デザイン・テクノロジーなど、さまざまな領域の方々。その人たちの世界観はそういう領域の知識や経験に大きな影響を受けているだろうから、自ずと違う世界観に触れることができるだろうなぁと思っています。

何の意味があるんだろう?笑 って感じですが、これを形にしていくのは猛烈に楽しみです。こういう光景が見たい。ただそれだけです。

思索に耽るゆる系シンポジウム。ぜひお楽しみに。
   
(哲学系の思考の仕方をしている知り合いとかと、哲学カフェとかに代わるフォーマットとして実験・開発してみるのもありだ。興味ある人は一緒に作りましょう〜)


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