領域越境の切り口 ー分野を超える統合をどう作るのかー

違う分野の人同士でどのようにコラボレーションを図るのか、その重要性が語られ始めてから、コラボレーションという言葉自体は何も新鮮なものでもなくなった。むしろどういう風に越境するのか、どういう風に分野を横断したelementたちを統合するのかの切り口の方が重要になってきている。

今回の投稿では自分自身の枠の超え方を言語化するために書いた。分野を超えて活動したい人にとって、少しでも参考になったら嬉しく思う。

三浦の頭の中ではこのようなネットワーク構造が思い浮かぶことが多い。

それぞれのカテゴリー(たとえばアート・ラーニング・テクノロジーなど)があるとする。人はカテゴリーがあるということを前提に話をする。お寺に生まれてお寺のことがなんとなく理解できるような脳内のネットワーク構造を持っていることもあれば、アーティストの息子として生まれて、アートの知識が普段のやりとりから構築されていたりする。

世の中の知識や知恵は言語化されたり、作品化されたりすることで、言語的にもしくは感性的に領域固有の知識として成立している。それらは歴史という時間軸の中を生き残りつつ今の時代に価値があるとされているものがネットワークの網目の点として存在しているとする。

いろんなコミュニティを越境していると、ある領域固有の概念の中でも感覚的にしっくりくるものが見つかってくる。

それはたとえば仏教の領域で見つかるものであるし、たとえばアートの領域で見つかるもの。さらにはビジネスの領域で見つかるものかもしれない。もちろん二つの領域が密接に重なり合った場所で生じる場合もある。

自分が面白い、これは重要だと思う感覚を研ぎ澄ます。心が動いて、これは面白い!!と思ったものは何かカテゴリーを作っていく時の一つの点になるかもしれない。

きになる概念の間に自分なりの関連性を見出していく。たとえば、仏教の領域で語られる諸行無常の概念は、ラーニングの領域では関連性の中における変化・変容の感覚に近いな...とか。違う知識形態の間にアナロジーを見出していくことで、くっつけていく。

ぼんやりしたものに名前を与える。

この前、京都大学で哲学をやっている友達と話している時、カテゴリーの作り方の話になった。哲学の領域の中で、ヒエラルキーのツリー状の知識の整理の仕方ではなく、概念同士の関係性のマッピングを作るようなカテゴライズの仕方もあるらしい。

それは星座(constellation)をメタファーにする。

まさに昔の人たちが星(知識)と星(知識)の間に関連性を見出し、その全体を星座と呼んだように。星座というメタファーで関連性について語っている。

その星々は、常にきらめいているとは限らない。寿命を終える星もある。星が生まれることもある。さらにはすでにあるのに、見えなくなっている星もあるだろう。

現実世界ではそのように突如として星が消えてしまうことはないけれど(超新星爆発によって、散り散りになってしまうことや爆発せずにブラックホール化することはある)、あくまで不完全なメタファーとして使いたい。

ポエティックに関連性を見出すことを指すことができて、その点、いいよね。

そのような枠組みを定めると、活動していくうちに独自の言語が生まれることになる。たとえば、現在行っているプロジェクトでは、「ヤドカリ」をモチーフにしたメタファーが生まれたりした。

ちなみにヤドカリは、「地球資源を借りて人が生活を営んでいて、さまざまなものを所有していると思い込んでいるけど、それは本当は借り物である」ことを言いたい時に使ったりする。

メタファーを使うことで、より直感的なイメージとして把握・理解することができる。

次にたとえば左が仏教のカテゴリーだとする。

その時、トランジションの円の中で仮に仏教の円に関係あるところの星は左上の白い円の部分と赤色の2つ。これが関連している時、仏教カテゴリーに対してどういう意味が生じうるのか。

色をつけてみた。これらの黄色い星が仏教にかぶるところだ。

これらの点はトランジションのカテゴリーにも載っていて、仏教のカテゴリーからすると、仏教の星がトランジションというカテゴリーの上で新しい意味合いとして使われていることを意味する。

仏教カテゴリーの人から眺めてみると、仏教は新しい用いられ方をすることを発見し、その新しい可能性に価値を見出す。

また黄色の関連性と星が、仏教がもともと持っている自動化された「ここは関連するよね」という星の存在やその間の関連性に影響を与えるのかもしれない。

仏教という2500 年以上も続くカテゴリーになると、その領域の星と星の関連性の変化や変容が起こるのは大仕事だ。簡単におこせるようなものでもないのかもしれない。

しかし、比較的新しいカテゴリーの中であれば、それはあまりに固定化された世界よりかは起こりやすいのだろう。

物事は相互に関連しながら、不可逆的に戻ってこない変化を起こしながら、変質していく。時には、カテゴリー自体の色が変質してしまうくらいの変化が起こる。仏教の世界でいうと、原始仏教の流れから、「空」を唱えた竜樹(ナーガールジュナ)が出てきたように。

何かカテゴリーが表出するということは、そのカテゴリーが確からしいと感性的もしくは言語的に認められていった時なのではないだろうか。

それには時間がかかる。どういう風に広まるのかという一人の人が考える世界から、他の人にどう共有されるのかという世界の広がりを経る必要がある。

人の頭の中にはさまざまな星座が配置されていて、それは本当は常に流動的に、関係性の中で変化し続けるものかもしれない。だけど、星は固定化されているように思えるし、新しい星座が生み出されたという話をいつもいつも聞くわけではない。

私たちは星座をひたすらに編み続け、それに価値があるという幻想を共有する。

書いていて、新しいカテゴリーを作ることの難しさを改めて感じているが、どうせ人生できることなんて多くないし、挑戦的な命題を掲げて人生に遊んでもらうのが良さそうだと思う次第だ。

ちょっとした思考のメモでした。読んでくださってありがとうございます!


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