今回の旅の"うまくいかなかった"失敗6選 −out of control の感覚の芽生え−

今回の旅は自分自身が行ってきた選択の数々が、ことごとくうまくいかないという結果になって現れる旅だった。旅とは本来そういうものなのだろう。Travel と Trouble という言葉の語源は同じものであり、私の旅にはあまりにもTrouble が多いと感じた10日間だった。
 
出発前、Remote Year という旅を新しい働き方に組み込み、世界中を旅しながら働く・生きることを行っている団体のイベントに登壇した。その後に書いたのが、こちらのエントリーだ。

旅は目的的に生きることだけではない人生の無目的の素晴らしさを見せてくれる

この文章の中で、私は目的的だけではなく、無目的だという何かの中に光るものもあり、そういう瞬間に出会わせてくれるのが旅という思考フレームのいいところなのではないかといいたかった。

旅の過程はTrouble に満ちたプロセスではあるけれども、捉え方によってはその過程に”よいもの”を見つけることができるよね、思考の転換、ものの見方を変えることができたら、プロセスの中に大量の宝物を見つけることができる。そう思っていた。
 
今回の短い旅ではあるけれども、この感覚が変化し、新しい境地が見えた気がしている。それは、物事を眺める時にいいところを見ようとし、ネガティブなものでも肯定的に眺めようとするリレフーミングではなく、もう少し、物事を受け入れる受容感に関するものだ。
 
みなさんは、うまくいかないことがあった時に、どういう風に解釈する?

今回の旅で、数々のうまくいかない状況を体験した。別にそうしたかったわけではない。自分が引き起こしてしまったと思えることもあるし、自分が引き起こしたと到底言えないようなこともあった。 
 
例えば、
 
・初日、約束していたアポをすっぽ抜かした。空港に着いたのは夜の1時、そこからずっと起きていて、15時にホテルにチェックインした。チェックインして、気持ち良さそうな布団が広がっている。重いバッグを降ろし、ベッドに腰掛けた。長いフライトの後にもかかわらずその日は結構元気で、朝・昼は元気よく過ごしていた。しかしなんたる不覚。ベッドに吸い込まれるように仮眠に入り、夜に予定していたアポをすっぽ抜かすということをやらかしてしまった、、、。(今回すっぽ抜かしてしまった方々、本当に申し訳ございませんでした….)

→二度と繰り返さないように教訓として書き出しておく。さすがに罪悪感を抱いた。これからは学びがどうだとか言ってられない。
 
・テルアビブのバウハウス美術館に行った。Google を見ると営業中の文字。テルアビブにはバウハウス出身の建築家たちが作り上げた白い建物が並び立つ地域がある。バウハウスセンターというものがあるから行こうと思い立ち、歩いて向かった。50分ほど歩いただろうか。到着して、火曜日・金曜日しかやっていないことを知る。調査段階で把握しておければよかった。そもそも滞在日程の中で、火曜日・金曜日にはテルアビブに滞在しないので、最初から行くことができなかった。
 
→仕方ないと思いつつ、調べておけば、、、と思った。でも調べてないからこういうことが起こるのであって、起きてしまってから調べておけばと思っても、現状は何も改善しない。せめて次回の調査はちゃんとしようという意気込みを抱くことぐらいしかできない。
 
・早起きに失敗する。ランドリーを回しそびれる。洗っていない服を何回も着ることは免れたが、やっちまった。
 
→単純に起きるのが遅くなった。
  
大見出し:頭をよぎる “うまくいかない” という言葉
  
今回の旅は特に”うまくいかない”何かを体験することがとても多かった。日本でも数限りないほど体験しているにもかかわらず、なぜか旅中にそれが頭をよぎって、主張してくるのだ。うまくいかない何かを意識的に見つけるのがあまりにもうまくなってしまうほどだ。
 
うまくいかないことをリフレームして、何かしらの解釈や気持ちを引きづられて持って行かれないようにする脳内の仕組みを構築していることもあって、ネガティブな気持ちでぐちゃぐちゃになることはなかった。

ただ、なんでこんなにうまくいかないということが続くのか、自分でもわからなかった。
 
さらにうまくいかないことは続く。
 
・アメリカの副大統領がエルサレムに訪問することになっていた1月23日。不幸なことに私たちがエルサレムに行く予定の日も23日だった。旅を予定し始めたのは11月くらいだ。航空券をその後押さえ、そこからエルサレム、テルアビブの滞在を決めた。宿を取り、情報を集めていった。そんな中である。外務省の配信メールからアメリカの副大統領がエルサレムに向かうことを知った。これはもしや、、、と思いつつももう宿は取ってしまっている。
 
エルサレムについた。岩のドームと呼ばれるイスラム教の聖地の一つに近い場所に行こうとしたのだが、断られた。アメリカの人きてるからダメだと。さらに、ユダヤ人のホロコーストに関するMuseumにも行った。最寄駅に着き、ヤド・ヴァシュヌと呼ばれる美術館に向かう道で、旅行者だろうか。話しかけられた。「アメリカの副大統領が来ている影響で、今日は休みみたいよ。」呆然とする。
 
→ここまでアメリカ・イスラエル間の話が個人の自分の旅に影響してくると、行き場のない気持ちをどのように扱えばよいのかわからなくなってくる。でもこういう風に政治的な問題が常に私たちに影響しているんだということが学びだと思い、納得させようとした。何度も自分を納得させようとした。
 
・ドイツに入国した。行きたいと思っていたホルツマルクト。ほとんどの施設が閉まっていた。自分が前回ベルリンに来たのは夏だ。一番いい時期である。その時に興味を持ったホルツマルクトに今一度行こうと思い、その地域に行ってみた。ホルツマルクトの近くに宿を押さえた。空いていないという結末に終わった。ただ全て閉まっているわけではなかったが。その場にいた長髪でMuscian 感のあるヒッピー風の男の人の話す機会を得た。普段オープンになってないけど、27日の夜にはオープンのクラブイベントやってるから、それに来なよ!ありがたい。不幸中の幸いかと思えるような言葉をもらい、冷静に諦めた。27日の昼のフライトでドイツを出発するからだ。
 
→頭の中では「またか」という言葉が聞こえてきた。どこまでうまくいかない状況を与えるんだ、と思った。
 
・ベルリンのショッピングモールでご飯を食べることにした。ショッピングモールのフードコートに行くと、アジア系のご飯も売っている。それまでイスラエルで苦々しい食生活をしていたことと、旅の間にアジア系の料理を食べていなかったこともあり、そこで食事をすることに決めた。食べ物を取るシステムを聞くと、お皿ごとにカウントされるらしい。バイキングだ。とても嬉しい。大きめの皿を取り、お皿いっぱいに食べものを取った。レジへ向かう。レジでクレジットカードを出すと、うちではカードは使えないと冷たく一蹴される。手元にユーロの現金がない状態。食べものを戻すことができないにもかかわらず、払えない。どこにあるかもわからない両替できる場所を探し、走り回った。
 
→もうここまでいろいろ重なってくると、これまで自分が経験して培ってきた思考のフレームが揺さぶられてしょうがない。憤りこそないものの、”うまくいかない”という言葉が反芻される頭の中に走っている時に一つの変化が起こることになる。
 
大見出し:うまくいかない状況を受け入れずリフレーミングするのではなく、うまくいかない状況を受け入れて、次のアクションを選択する

両替する場所を探して走った。頭には気持ち悪い感覚と、「なんで・・・」という被害者意識に彩られた発想の数々が花開き、そのたびに頭の中で悪い状況から何かを得れる、得をしたとも言えるという風に言い聞かせようとするもう一人の自分がいた。
 
ただ、走り回ってモールに帰ってきた時、違う発想の仕方がひょっこりと顔を出した。
 
「うまくいかない状況を受け入れずリフレーミングするのではなく、うまくいかない状況を受け入れる」
 
ハッとした。
 
旅に行くまでの自分は、うまくいっていない状況を見た時に、そこから何かしらを見出そうとする思考の癖を持っていた。もちろんそれは今も同じようにするのだけど、少々感覚が違っている。
 
私が行っていたのは、うまくいかない状況を見たくないがゆえの、思考の転換だった。自分ではそれを受け止めているとでも思っていたのだろう。しかし、いろんな場面で、特に自分が引き起こしてしまったと思うこと以外のことが起こった時も、それに意味があるとして、どうにかこうにか自分を納得させるために目の前の現実から何かを引き出そうとしていた。
 
つまり、目の前の現実から何かしらの意味や学びを引き出すことができればOKというスタンスである。それはこれまで生きてくる中で培われてきた、いわば思考の前提とも言えるようなものであり、私がもっていた思考の仕方の癖だ。
 
しかし、今回の旅の多くは自分で改善しようと思えばできるものもあるが、そもそも旅を計画した時点ですでに無理な状況だったり、政治という大きな枠組みで個人が簡単にコントロールできないからの効力が発生して自分の思い通りにいかないという状況が続いた。
 
このようなものが続くと、思考を転換せざるをえない。
 
別にそのような現状を望んだわけでもない。それが起こってしまっているのだ。
 
新しい考え方・発想は、現実の捉え方を変化させた。起こったことをいったん引き受けてしまおうという受動の姿勢が養われたのだった。私たちは何か自分に不利益が被ることを望ましく思わない。多くの人が自分に不利益が被らないように立ち回るのかもしれない。
 
不利益を被りそうな方向に進みそうな時や、そういうことが起こってしまった時、よくある人の反応は、怒ったり、無視したり、意味づけをしてそれがさも自分に必要であったかのように解釈するなどの形態をみせる。私はそういう人の反応の仕方がダメだと言っているわけではないが、今思うと私たちは相当自分に都合がいいように物事を見ているということが実感できた。
 
うまくいく、うまくいかない。このフレームが私の一つのとらわれだった。
 
うまくいく、うまくいかないという思考の枠組みを作ることによって、私はうまくいっている旅のプロセスとうまくいっていない時の旅のプロセスを認識することができた。それは必ずしも言葉にしてこういうものがうまくいく、うまくいかないという風に考えていたわけではないけど、考えの根っこの方でそれらを切り分けていたのだろう。
 
うまくいくのはよいが、うまくいかないというフィルターにひっかかってしまった現実の認識と直面し続けることで自分の感覚は変化した。うまくいくいかないという枠組みを包括的に包んでしまう視点に移動することができるようになるということに気づいた。
 
そもそもうまくいかないという現象は現実に起こることを自分の解釈によってそういう風にしてしまっているにすぎない。その枠組みによって、うまくできないという劣等感を感じたりする。
  
でもそれを手放すことができるとすると、新しい世界が開けるのではないだろうか。
 
世界は受容するしかないのだな、と思う。
 
現実は自分の認識のフィルターの先に起きてしまっている。旅にかかわらず、人がホロコーストによってユダヤ教徒を殺してきたことも、土地や資源を奪い合うことも起きてしまっている。私たちが思い通りにいくかいかないかは置いといても、それは過去起きてきたのだし、今起きているのだし、不確実の未来に起きていく。
 
私たちは、認識をコントロールしようとして、目の前の現実を否定することができる。
 
だがこれはなんでもかんでも起きていることを受け入れましょうね、現実の被害者になりましょうね、ということでは全くない。むしろそのような人生に受動的な態度で生きるのではなく、能動的に生きることにもつながる。
 
私たちは現実を受け止めることができるが、その次の瞬間に選択することもできる。選択を行った結果、いわゆる”うまくいかない”という結果が未来における今に起こるかもしれない。でもそれは起こることだから、受け止めるしかない。またもちろん選択をするということが無意識に行われていたり、そもそも選択を主体が行うというところに立つこともできるだろうが、ここでは主体の選択という視点にしぼっておく。
 
これまでの私が行っていたのは、”うまくいかないこと”を排除しようとすることであった。
 
これからはうまくいこうが、うまくいくまいが受容したい。
さらにうまくいかないものがある時には、自ら選択して、それが変化させれるのかを試していく。
    
選択した結果起きうることはまた受容するしかない。私が選んだ結果なのだから。
     
ただ、世界はどうも自分がコントロールしうるものでもないらしい。全てをコントロールしようとしても、そんな偏った視点が世界の動きの全ての流動的な流れをコントロールできるはずもない。人は何かを動かす時にイニシアティブを取ろうとするけれど、そこから外れた見方もあるのではないだろうか。
 
うまく世界の流れをコントロールするのではなく、流れの向きを調整していったり、流れるようにしていったり。そのような Out of control の世界観をもっと深めていけそうな気がしている。
 
どうしようもないことが起こることもある。たとえば死の瞬間はそれだろう。
中2でおばあちゃんがなくなった。でもそれは寿命という自然の摂理をおばあちゃんが受け入れざるをえなかったからだ。
 
自分にも死の瞬間は来る。さらに周りの人にも同じように死の瞬間は来る。もちろん延命したり、危険を避けることによってそれを遠ざけることはできても、未ださまざまなテクノロジーが発展しても死を免れることができる人は出てきていない。(科学・テクノロジーがもうそこに到達しているとしたら、世界の秘密にされるだろうね。まず大富豪の層や世界を牛耳る人たちの最大の秘密事項になりそうだ。)
 
自分が体験したくなくても、起こってしまうものはある。それは仕方ない。
 
と、こんな風なことを考える、イスラエル・ベルリンの旅でした。華やかなこんな情報つかんだぜ!というものは今回少なくてね。でもそれに匹敵するくらいに世界観がゆるっと移り変わったな、というそんな感じがします。
 
現在モスクワに着きました。モスクワはマイナスの極寒の地でした。コントロールできないね。そのような複雑でどうしようもなくて、こじれにこじれている地球の上で自然の中に溶け込みながら人間のエゴを発露させつつ生きていくことが何よりもかけがえのないものだと思います。
 
もうすぐ日本に帰り着きます。

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