相手の感情は相手のもの。私のせいを止めてみる
最近、書きたいことがどんどん浮かんできて、追いつかない。メモだけ残してあるので、徐々に書こう・・・。
この前ね、本当に久しぶりに人を分かりやすく怒らせたのです。誰が見てもこの人怒ってる!っていう状態。声張り上げてたからね(笑)
私の言い方もちょっと、「うん・・・」とあとあと自分でも思うことあり。それは良いのだけど、その時にもちろんいろんな感情になりました。もともと、人を怒らせること=自分のせい。私が悪いんだ!と思う節があり、場の雰囲気を悪くすることにも申し訳なさを感じるタイプの人でした。
あとは、使えないやつ、ダメなやつと思われるのがいやと思っていた節もある。
もちろんその感情も今回出てきて、初めに思ったことは「やってしまった!!」でした。雰囲気も悪くなるしさ、、、、
いろんな自問自答が始まるわけです。
その時に思ったことは、まず自分が悪かったところを探したんですよね。どうしてこうなったのか、どうすればよかったのか。
そうすると、もっとこうすればよかった。これができてなかった。
この思考を進めていくと、自分のここが悪かったんだ。自分がもっとこうしていたら。って自責のようで自責じゃない自分責めが始まります。
相手の感情って自分ではどうにもできないことだから、そこまで責任を追う必要はなくて、それは行き過ぎた自責だと思ってる。相手が怒らないようにするためにこうしようって結局、相手をどうにかできると思っている自分がいるんですよね。
なんて傲慢なんでしょうね。
だから、まず思考をする時に切り替えたのは、相手が怒っているのは相手のものであること。私がきっかけにはなったかもしれないが、それ以外の要因があったかもしれないこと。それは、朝から違うことでイライラしてたり、余裕がなかったり、それは私にはどうにもできない。最後の起爆剤のような形に自分がなっただけ。と、まずは捉えてみる。
その上で、自分ができたことは?と考える。それは、自分を責めて自分が悪かったから、、、と考えるよりは、自分はその場でもっとどうしたかったかなっていう視点で考える。
我慢するってよりも自分がより生きやすくなるためにって感じのニュアンス。
それが結果同じ行動だとしても、全然変わる。
また、自分が自分として入られたら、相手が怒ったとしても、それは相手のもの〜って思えるよね。それだけで、そのあと下手に相手の機嫌を伺うこともしなくて良いし、いつも通りその人と接すれば良い。
相手が怒っていることは相手の自由でもあるから。
私のせいかもしれないって思うことってあるかもしれないけど、そればっかりでは自己卑下しかならなくて、自分を自分でいじめても何も変わらない。
それを続けると自己肯定感もダダ下がりー
しかも、その思考って上下を作る思考だったり、被害者意識の思考でもあるので、自分ばっかりも作り出す。自分ばっかりの被害者は、誰かのせい!って加害者も同時に作り出します。
それはそれで良いけど、その誰かのせいにした自責じゃない人生ほど楽しくない人生はないと思っているので、私は切り替えたんですよね。
自分を責める自責から、自分の感情や現状に責任をとる自責へ。
そうすると本当に楽なの。どうにもできないことをどうにかしようとするって本当にエネルギー使うし、どうにもならないことをどうにかしようとすることほど無意味なことないじゃない。相手の感情なんてこっちがどうにかできることじゃない。
不用意に変なこと言ったり、わざと人を怒らせることをするのは違うと思うけど、わざとではないならそこの感情に私が責任を負うことはできないし、する必要がない。
相手の感情に自分は責任を取らなくて良いってわかってるだけで全然違うので、頭の片隅に入れておくと良いのかもなーなんてことを感じました^^
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