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美味しさは罪悪感を越えるか

今日はもう疲れたから、お惣菜を買って帰ろうか…という日があります。と同時に、そんな無駄遣いして!とか、私、怠けてるんじゃなかろうか?というような、罪悪感がわいてくることがあります。さらには、それだと栄養バランスが…とか、冷蔵庫の中にある野菜を早く食べないと勿体無い…とか、自分の取ろうとする行動にダメ出しをする内なる声が、続々と聞こえてきます。

少なくない人が、こういった葛藤を感じたことがあるのではないでしょうか。
私も例外ではなく、惣菜売り場をふらふら一周した挙げ句、結局何も買わずに出てくるなんて経験が、何度もあります。

ところで、最近、通勤途中にあるデパート内に、お気に入りのお惣菜店ができました。(正確に言うと、半年ほど前にできていたのですが、そのことに最近気づきました。)
ご飯に、3種類のおかずを自分で選んで詰めてもらって、1000円ほど。おかずは、どれも色とりどりで、少しだけ珍しい野菜や調味料が使われていたりして、選ぶ楽しみがあります。
日常の1食に1000円は、安くはないですが、結構ボリュームがあり、少食の人だったら、少し残して朝食にも回せるんじゃないかな?と思えるくらいの量。もちろんとても美味しくて、さらに嬉しいことには、葉っぱ系生野菜でボリュームをごまかしたりしていない!火を通した根菜や丸野菜がしっかり使われているので、栄養が偏っているんじゃなかろうか…という不安を感じずに済みます。

そして、気づいたのですが、ここのお惣菜の時だけは、私は、全く罪悪感を感じていないのです。いや、もちろん、毎日利用したら予算オーバーなので、その程度の自制心は働きますが、一番最初に挙げた、お惣菜を買うとなると突然湧いてくる教育的指導(死語ですね)みたいな声は聞こえてこない。
それどころか、満足感と嬉しさでいっぱいになります。
さらには、もともと料理が好きなこともあって、お惣菜に使われている具材の組み合わせに刺激されて、インスピレーションが湧いてきたり、むしろいいことしかない……!

これは、一体どういうことでしょう。
もしかして、今まで感じてた「罪悪感」って、罪という名前を借りた、単なる物足りなさだったのでしょうか。

罪悪感の背景には、様々な要素が潜んでいます。なので、すべてが当てはまるわけではないのですが、「自分が心から納得できる価値」が得られているか否かというのは、思っている以上に大きな要素なのかもしれません。
さぼってしまったから、無駄遣いをしたから、心がもやもやするのではなくて、その代わりに得られたものに、実は納得できていないことが、もやもやの原因かもしれません。
前回は、自分のための食事を作ることがまず大切、といったことを書きましたが、今回も、自分にとっての「価値」の意味と大切さを、考えています。

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