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人は人。奴隷でも道具でも家畜ない。

毎日拡散されるイスラエルとハマスの戦争の報道に胸を痛めています。メディアは視聴率が命、悲惨でセンセーショナルなニュースほど喜んで配信するのが仕事とはいえ、ウクライナの戦争がまるで終わったかの様に取り沙汰されなくなったのには驚いてしまいます。彼の地では今も激しい戦闘は続いています。
この時を重ねる様にして起こった2つの戦争が示す本質を考えたら、それぞれ個別の事案では無く深い関連があるのは素人の私でも分かります。
欧米型の植民地支配からスタートした強欲資本主義と、豊かな資源を有するにもかかわらず搾取され続けた非植民地国、それを助け、イニシアチブを手中にして新しい世界のスタンダードを構築しようとする国々との戦争がユーラシア大陸とアラビア半島で同時に起こっているのが事実です。
世界の分断の構図を示さず、凄惨な画像を垂れ流すばかりで敢えて一方の報道しかしないのは何らかの意図を感じずにはいられません。

白人以外は人では無い

イスラエル軍(ハマス側だとの主張もあり)が怪我人、大勢の子供を含む避難者で溢れ返る病院を爆撃したとの報道を見て私が感じたのは、イスラエル軍はアラブ人を心底憎み、人として見ていないという事です。本来、戦争とは国と国が対話で意見対立の解消が出来ない際に、宣戦布告して暴力で相手を捩じ伏せる、原始的かつ稚拙、知性の欠けた外交手段の一つのはずです。
戦争の成果として国家という機関、その指導者を叩き潰して土地を収奪したとしても、そこに住む民の命を奪うのは近代における戦争の定義とは相容れないはずです。アメリカをはじめとする西欧諸国はロシアによるウクライナの民間施設や生活インフラへの攻撃を軍事行為ではなくテロ行為だと非難しました。今回のイスラエルのガザ地区の電気や水道を止めて病院にミサイルを打ち込む所業はパレスチナ・アラブ民族を絶滅させる行為に他ならず、それを静観、もしくは支持する西側諸国の思想が垣間見えます。
彼らの認識は白人以外は人では無いのです。

貪食、淫蕩、金銭欲、悲嘆、怒り、怠惰、虚栄、傲慢の世界

人を人として観ない思考を身に付けると、人はどんな残虐な行為でも出来る様になります。
家畜と同じだと思えば太らせるだけ太らせて食い潰す、道具だと思えば便利に使って、古くなったり壊れたり、新しいものが出たらポイ捨てします。奴隷だと思えば、無条件で隷属させ、恐怖と苦しみで縛って働かせ、喜びを与えることも幸せを鑑みることもなく自由を奪います。
イスラエル軍が地上作戦を遂行する際、「アラブの民は人では無い、何をしても神から許されるので殲滅しろ。」と軍規フリーの通達がされると耳にしました。真偽の程は分かりませんが実際に、まるで害虫駆除をするかの様に女子供も容赦無く殺しまわり、犯し続ける軍隊はまさに鬼の襲撃であり、同じ種の生物では無い認識を持っているとしか思えません。これが私が子供の頃夢見ていた21世紀の世界の現実なのか、、と絶望感に包まれています。
人類は文明、文化を進化、発展、成熟させて平和で誰もが幸せに生きられる世界を実現するのだと、私が子供の頃に描いた幻想は単に幼い夢見であり、人類は強欲と利己主義に塗れ続け、7つの大罪を手放す事無く、動物的な本能に抗えない生き物である。と諦めてしまう世界の現実は、夢や理想を持つこと教えられた者としてはいささか厳し過ぎます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA

人として生を受けた責任、もしくは意味

しかし、しょうがないね、と今の世界の現状を諦めてしまうわけにもいきません。このまま、弱肉強食の暴力で人を支配して、一部の人達がその他の人を奴隷や家畜、道具の様に扱う世界を次世代に残してしまうのは、この世に生を受けた一人の人として生きた意味や意義を失ってしまいます。もちろん、私たちには世界中で巻き起こる戦争という格差と分断のアウトプットを止めることは出来ません。しかし、諦めずに自分たちに出来ることに取り組むべきだし、その責任を誰しもが負っていると思うのです。
戦争、もしくはそれによる殺戮が繰り返される根本は、人を人として観ないことに端を発しています。教育や洗脳、思い込みや感情で人は人を人ではないと認識する様になってしまいます。そして実は、それは(圧倒的な程度の差はあれども)私たち日本人も同じ状態に陥っていると思うのです。
今だけ、金だけ、自分だけ良ければ良いと思っている人が圧倒的に多い国になってしまっているのがその証左です。

日本にしかつくれない理由

元々、私達日本人はあらゆるものに神が宿るとの八万の神の信仰を持っており、そこに仏教と儒教が伝来され、吸収と融合、独自の進化発展を繰り返してきました。神仏習合がもちろん日本独自ですし、儒教は中国、韓国のそれとは全く違う形で日本の民の生活に溶け込みました。武士道、三方よし、士魂商才等々、分断と差別ではなく、多様性の許容と共生、持続可能性の観点を持った暮らしの営みや商いを行ってきた歴史があります。この持続可能性を担保する本質的な思考、概念を今一度見直し、社会実装させる取り組みを規模に関係なく、あらゆる事業者が行えば、社会は変わります。
現在の世界は全て経済を中心に回っていることを鑑みた時、もし、日本が三方よし的なビジネスモデルの構築を普及させ、あらゆる社会課題を解決しながらそこに住まう人の幸せを実現したら、世界のモデルケースになれる可能性がありますし、そのような価値観、思考を持っている国家としての体を成している民族は日本人しか存在しません。もし、世界中に三方よしの概念が広がり、実装されたら奪い合い、殺し合う戦争はなくなります。共生と循環の文化を持つ私たちから、人を人として観る。そんな在り方を実現しなければならないのです。例え一人の一歩は微力でもその一歩を踏み出さなければ何も変わらないし、その一歩が広がって1000社、もし10000社が一緒になれば世界は変わる可能性があると思うのです。何も諦めることなく、出来ることを実践しよう。

http://sanpoyoshi.net/

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人を人として観る、真の民主化を目指して、誰しもが必ず持つ才能を開く、タレンティズム(才能主義)を基本理念に掲げた教育事業を行なってます。


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