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失くしものをした日


ウォークマンを紛失した。
赤い色をしたそれは、社会人になった時に購入したものだ。10年程使っただろうか。


その日も音楽を聴こうと思い、普段収納しているポーチの中を確認したら、入っていなかった。焦って鞄の中や周辺を探したが見つからなかった。どこかに落としたのか。置き忘れたのか。思い当たる節が無い。
そもそも、いつからポーチに入っていなかったのか、わからなかった。

私は音楽が大好きだ。
初めてウォークマンを買ってもらった時から、その当時の流行の楽曲を入れて毎日聴いていた。
今はサブスクが主流になり、月額を払えば好きな楽曲を聴き放題なんてものもあるが、私が学生の頃はまだCDが主流。買うと高いので、本当に欲しいもの以外はレンタルショップで借りて、ウォークマンに落としていた。
聴きたいCDが誰かに借りられていると悔しかったり、通常料金なのに1枚多く借りられた時は得した気分になったり。
パソコンを起動し手間暇かけながらCDをウォークマンに入れる時間も好きだったし、満を持して再生する時はいつもワクワクした。


大人になるにつれて聴く楽曲の幅が広がり、気がついたらウォークマンを複数台持っていた。
1つはアイドル楽曲専用、もう1つはJ-POPやその他楽曲専用と分け、その時の心情に合わせて聴いていた。
赤いウォークマンは、アイドル楽曲専用のものだった。私の推しアイドルの楽曲もたくさん入っていた。


失くしたことに気がついてからは、見つからないなら仕方ないと諦めようとした。
もういい大人だし、失くし物をしたくらいで感情的になってはならない。
そうやって自分に言い聞かせた。しかし、思えば思うほど寂しくなり、訳も分からずイラついた。


なぜ当たり前にポーチの中にあると思い込んだのか。
なぜもっと大切に保管しなかったのか。


何度後悔したって、失ったウォークマンは出てこない。






先日 " 推し " が表舞台を去った。


私の " 推し " は、男性アイドルグループに所属していた。
初めて知ったのは、約10年程前。まだ幼い彼がマイクを持ちながら初々しくも力強くパフォーマンスする姿を見て、『ステージが似合う人だな』と思った。

その日から10年間、彼を真摯に応援した。

幼かったその姿は長い年月で立派な男性へと成長し、初々しかったパフォーマンスにも磨きがかかった。
彼の姿を一目見ようとライブにも足を運んだ。
実際に彼を見た時は、『こんなに好きな人が同じ地球上に実在したのか……』と不思議な気持ちになった。
そして、ステージ上の姿やメディアを通じて彼の " 生 " や " 動 " を感じる度に、私の心は元気になった。



彼が永遠にアイドルでいないことは、わかっていたつもりだ。


アイドルとはいえ1人の人間。様々な理由から、アイドルを卒業したり辞めていく人もいる。実際に、私も好きなアイドルが辞めていく経験をしたことがある。

辞めることは決して悪いことではない。その人の人生なのだから、どんな選択をしようがアイドルたちの自由だ。頭ではわかっている。
しかし、実際はファンとしての熱が入りまくっている状態なので、特に彼のことに関しては激しい思い込みをした。


1番の思い込みは、彼との別れはまだ先だと捉えていたことだろう。
なぜこんな根拠のない思い込みをしたのか。理由を一つ挙げるとすれば、彼が若かったからかもしれない。

『年齢を重ねれば価値観や環境の変化もあるし、アイドル活動に区切りをつけようと考えるのも納得できる。ただ、若いうちは純粋にアイドル活動してくれるだろうし、すべきだ。』

なんて勝手な思いだろう。書いていて恥ずかしくなるが、嘘偽りなく、こんなことを思っていた。

冷静に考えれば、" 若い " からといってアイドル活動を続けてくれるとは限らない、というのはわかる。
しかし、熱が入ると冷静さは欠けていくもの。その結果、とんでもなく怖くて強い思い込みが誕生したのだった。


その思い込みの反動だろうか。
彼が表舞台を去ると発表されてから、寂しい気持ちや強い不安感が付き纏ってきた。
彼を見られない毎日はどんなものだろう。私は上手く笑えるのだろうか。心は健康を保てるのか。
自分の生活に " 推し " が存在するのを当たり前としすぎて、失った後のことを考えると言葉で表せないくらい気持ちが落ち込んだ。

たかが " 推し " のことで、いい歳した大人が感情的になるなんてと、どこかでは思っている。

しかし、たかが " 推し " されど " 推し " 。

大人だろうが子供だろうが、大切なものを失くしたら感情が動くのは当たり前のことだ。
だからここぞとばかりに、思い切り感情を動かしてみた。

彼が出ている映像やCDから流れる歌声、彼が雑誌に残した言葉。過去になってしまった " 推し " の存在に想いを馳せては、泣いて、悔やんで、寂しがった。


でも、日常はしっかりと送った。一見、何も変化がなさそうに見えるほど元気に、笑顔で生活を送っている。


そういう自分を俯瞰で見ると、『やっぱりいい歳した大人なんだな』と、笑ってやりたくなった。





赤いウォークマンが、見つかった。

数日行方不明になっていたそれが無事に手元に戻って来た時、あまりに嬉しすぎて思わず『おかえり』と呟いてしまった。
変な人と思われるかもしれないが、構わない。それくらい嬉しかったのだ。

失ったと思ったものともう一度巡り合える喜びって、何にも変え難いものだと思う。
そしてその時の " 喜び " はこの先も絶対に忘れないだろうし、この感情の移り変わりは今後の自分への財産になるだろう。


私の " 推し " とも、またどこかで巡り合える時が来るのかな。
そしたら、なんて言葉をかけようか。


やっぱり、『おかえり』かな
それとも、いや、アレかな、どうだろ

そんなことを考えながら、赤いウォークマンの再生ボタンを押す。


今日もまた、彼の声が聞こえた。


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