まっとうの色

アートというのは不思議な業界(世界)だ。もの凄く純粋でダークな人ともの凄くまっとうでグレーな人がコミュニケーションを(交流を、体裁を)取り続けるなければならない。絵を描いている時よりも、人と関わる時間がやってくるたびに自分らしさをこれでもかと、要求されている気持ちになってしまう。自分が何色かという仕方のないことにいつのまにか突っ伏してしまう。そんなとき、もの凄くホワイトの人格やベタ塗りのグレー人格、ベタベタにイエローの人格がたくましく生きていることに気がつく。何色か、仕方のないことで心のパレットがぐちゃぐちゃになっていく。

自分らしさ(本物)⇔まっとうな幸せ(偽物)
価値(本物)⇔まっとうじゃないかもなお金(偽物)
が逆ベクトルになっていることに気がつく。
賢い真実としては、逆ベクトルになっている時点でそれらは本来バラバラの要素なわけで、いっそのこともっとバラッバラに切り離してしまうことが最も生産的でアートな回答なのだろう。ただし、先に選ばられるのは馬鹿な心のアレルギー反応だ。人格が4つに分かれる。

自分、幸せ、価値、お金に細かく分かれた心はそれぞれがやせ我慢をするようになる。そして迷う。心も身体も自分の制御を離れているような気がする。心がシャットダウンする。
思い出せない記憶がたくさんあるのに、フラッシュバックがたくさんある。最初からずっと年齢の概念がなかったような気がするのがずっと辛い。

愛するということは不自由を愛することだと君は理解しなければいけない。じゃないと、君は年齢(人生)を手に入れられない。ずっとアウトサイドには居られないことに気づきなさい。勇気と不自由を持ちなさい。自分を愛するということと自分を大切にすることは違うということに進みなさい。

狂いつづけられなかったということは、君はまっとうだし、他人とペースは違っても年齢(人生)を手にできているじゃないか。赤い血を信じられなかった時よりも君は人生を生きている。

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