【完全版】アマゾン川をいかだで冒険したら先住民に襲われた話
こんにちは、しょーごです。
2018年の3月から2019年の2月まで、ゆるく世界一周してきました。アメリカをスタートして訪問した国は28の国と地域、期間にして330日くらいです。
そのなかでも、この最大の冒険にして、1番のハイライトになったアマゾン川いかだ下りのお話を今回は少しだけ。
以前運営していたブログ内でも取り上げましたが、私のSNSをフォローしてくださっている方の大半が私がアマゾン川へ行ったことを知らないとのことでしたので、今回は再編集、完全版としてnoteに寄稿させていただきます。
Noteの内容は嘘みたいな本当の話、私がアマゾンで体験したお話を楽しんでください。
それでは、本編のはじまりです。
第1章 はじまり
日本から遥か離れた南米にあるペルーという国の首都リマから山間部を超え24時間ほど東へ走った小さな村"アタラヤ"という村から、冒険はスタートした。
目指すはそのアタラヤから600キロ先にあるプカルパという小さな街。
移動手段は船でもなく、車でもなく、
いかだである。
真っ直ぐ進むのかもわからない。
そもそもしっかりと川の上に浮くのかすらわからない
そんないかだに乗って600キロ先を目指す無謀とも言える大冒険がはじまろうとしていた。 。。
事の発端はアマゾン川をいかだで下り始める1週間前にさかのぼる。
私はキューバ、メキシコの旅を終えて南米はペルーに上陸した。
いよいよ南米の旅がはじまる
世界一周がはじまる
と不安と興奮が入り混じる中、ペルーの首都にあるリマで私はウユニ塩湖をはじめとする南米に関する最新情報の収集も兼ねて日本人宿に滞在していた。
そこで出会ったのが、これからはじまる大冒険の相棒となるJくん。
彼は、バックパッカーが集うこの宿に誰よりも大きなスーツケースを引っ張って登場した。
私がこれから南米でなにをするのか?どのようなルートで旅するのかを質問したところ彼は笑顔で一言
「おれ、これからアマゾンいくねん」と一言。
まさか自分がアマゾン川へ行くなんて
しかも話をきくと、移動手段はいかだ
正気の沙汰じゃない
アマゾンなんて、そんなの無謀すぎると思った
だからぼくは咄嗟にこう答えた
「え?おもしろそう!ついて行ってもいいですか?」
本能である。
危ないからやめておけ、知らない人を連れていくなんて無理、そんな返事がJくんから返ってくると思っていたが、Jくんは
「おう。来たらええんとちゃうか?おれはウェルカムやで。」
こうして、私は進行方向をウユニ塩湖、マチュピチュからアマゾン川へ変えた。一瞬にして冒険の世界へ足を踏み入れてしまったのだ。
ここから、Jくんと私のアマゾン川の冒険が始まる。
食料の買い出しを終え、出発地点までのバスの手配を終えて、宴を挙げた。
まだ、このときはアマゾン川に待ち受けてる試練など知りもせず、、、
第2章 アタラヤ
アタラヤという村は、ペルーの内陸部にある小さな村で、ここからいかだ下りを始める。
私たちはこのアタラヤに首都リマから長距離バスとを走るトラックの荷台(ペルーではコレクティーボと呼ぶ)に乗り続けて24時間かけて到達した。
(写真にある黒の手すりみたいなのにしがみついてました。雨が降ればビニールシートのなかに隠れる)
私は長距離移動とスコールに耐えられず体調を崩した。この先これより厳しい移動はないと信じている。
(アタラヤへの移動中)
アタラヤは小さな村で、ほかの街に住むペルー人に「こないだアタラヤへ行ったよ!」と言っても誰も知らないような村である。
アタラヤに着くと一泊300円の宿にベースを構えた。
お湯はでない、Wifiもないこの場所で手始めにやらなければならないことがあった。
いかだ下りをするためには、いかだ必要。
ただ、いかだは川に浮いているわけでもなく、どこで買うわけでもない。
いかだを造らなければならないのだ。
でも、いかだってどうやって作るの?
素人の自分たちだけで作ったら絶対に沈没する
港に停泊している漁師や村人たちを頼っていかだ職人を探した。
スペイン語に堪能な相方Jくんの交渉の結果、いかだを2万円で作ってもらえることになった。制作日数は4日。
2万円でアマゾン川へいける。
2万円でいかだに乗り、これから自分の命を危険に晒すのだ。
しばらくはこの小さな村で、荷台に乗って痛めた身体を癒しながらいかだの完成を待つことにした。
いかだ作りは翌日スタートした。
初日は木材を集めて
午後には床が完成。
その後は屋根ができて
ビニールシートが被せられと3日目であっという間にいかだ完成してしまった。船大工恐るべしである。
この3日間、私たちは職人たちとビールを飲んだり、いかだでの生活に必要な食料などを買ったりしながら地元の子たちと遊んだり、ピラニアがいるはずのアマゾン川で水浴びしたりと出発前のわずかな時間を愉しんだ。
あっという間にいかだの完成。
大冒険がはじまろうとしている。
出発の前日
私は家族の1人と幼馴染に"明日からアマゾン川に行ってくるから一ヶ月くらい連絡なかったらそのときはよろしく" と連絡を入れた。
覚悟が必要だった。これが最後の陸での生活になるかもしれない。
不安も抱きながらも、自分たちにしかできない大冒険の幕開けだと思ったら興奮して眠れなかった。
目指すは600キロ先にある小さな街「プカルパ」
食料約10日分、水25リットル、少々のお酒をいかだに積み込んで、いよいよ出航。
大冒険の幕開けである。
第3章 出航
いかだが完成した。
すでにリマを出発してから5日が経過していた。
ついに大冒険がはじまる。
いかだと岸を繋ぐロープが取り外され、いかだプカプカと流れ始める。
出航。
最初は、船大工も同乗。
パドル操作を教えてもらいながら、相方Jくんと3人で船上で祝杯をあげた。購入したラム酒を飲み干し、最高のスタートを切った。
パドル操作を教わり、いかだの製作を手伝ってくれた船大工とはここでお別れ。
もういつ会うかもわからない。アタラヤのネット環境はほぼゼロにちかい。「とにかく死ぬな、生きろ、そしてプカルパについたら連絡してくれ」そう言い残し、彼はボートで去っていった。。。
いかだは順調に進む。
岸に上陸するのが難しいくらいこの日のいかだは高速で進む。
この一度も村に上陸はできなかったものの、最初の村チコサを通過することを無事に確認。
日が暮れると同時に大木にロープ巻きつけていかだを停止させ、アマゾン川での最初の夜を迎える。
1日目夜
アマゾン川には様々な敵が待ち受ける。
なかでも厄介なのが「蚊」で、毎日太陽が沈むころに決まって現る。
手を左右に振っていれば、蚊の数匹なんてお手のもの。
ブーーンというあの嫌気のさすような羽の音を数百匹に上る蚊たちが奏でる。この蚊たちには、殺虫剤も、蚊取り線香も、効果がない。手で立ち向かおうとしようものなら、敵の餌食になるだけ。
私たちは、蚊が立ち去るまでの1時間をテントと蚊帳の中に避難するしかなかった。湿度90%を超えるアマゾンの川の上で、テントにこもる。試練だ
アマゾンの蚊はマラリアやジカ熱感染の危険もあるため大変危険である。
しかも私たちは黄熱病以外予防接種を打っていない。典型的な良くないバックパッカーの例である(マネしないでください)
蚊が去った次はスコールと落雷、嵐のような1日目の夜。
いかだの床は雨で水浸し、どしゃ降りの雨の音、近くを通る船も警戒もして寝付けないまま朝を迎えた。。。
二日目
アマゾンの洗礼を浴びて、2日目の朝を迎えた。
アマゾン最初の夜を乗り越え、太陽が昇ると同時に停泊していたいかだはプカルパに向けて進みだした。
あの朝ほど生きてる実感が湧いた瞬間はない。
人生で1番綺麗な朝日を眺めながら、2日目の朝。まわりには人ひとりすらいない。鳥の声を聴きながら、平和な時間が流れる。
(合間を縫ってアマゾンの水で頭を洗うJくん)
初日にチコサ村の通過を確認した私たちは2つ目の村、「ボロネシ」を目指していた。
初日と同じペースで進めば間違いなく到達できる距離、ただこの日気づいたことが1つあった。
昼間のアマゾン川は、川の流れに逆らってエンジン付のボート進む影響からか、不自然な流れをしていた。
つまり、いかだはまっすぐ進まないのだ。
昨日までの進み方がまるで嘘のよう、この日はほとんど進むまず、プカプカと同じ場所に浮いているようだった。
「今日は進みが悪いね」などと頭を悩ませながらも、またアマゾンの天敵がやってきた。
また、スコール
(初日のスコールは夜でよくわかりませんでしたが、昼間のスコールはやはり迫力が違う)
船内は強風と大雨でびしょ濡れ。
いかだは水流の影響もあり、完全に浮島でストップ。
はじめのうちは脱出を試みたものの、自然の力に逆らうのは不可能。
いかだは数トンある。人間の力で動くはずない。
結局2日目はそこから一ミリも動くことなく、夜を迎えたのだった。
感覚的には初日進んだ距離の半分くらいしか進めず。
スコールの影響で、床はびしょ濡れ、ごはんを作る気力もなく、
結局また一睡もできずに3日目を迎えた。
(昼間はひたすらいかだの上でひまつぶし)
第4章 遭難
3日目
昨日までの雨が嘘のよう。
雨はやみ、綺麗な朝日を眺めながら1日がはじまった。
船が少ない朝の時間帯はいかだはよく進む。
「今日こそは進まないと1週間でゴールできない」という焦りもあってか、この日はパドルを使って必死に前へ前へと進もうと試みた。
だが数時間もたてば、大木と大木の間の沼のような場所にいかだが挟まってしまい、完全に動けなった。
予定していた1週間で到着するのは絶望的に。
とりあえず助けを呼ばなければ先に進めない。
私はすぐ近くを走っていた高速船を呼び止めて、彼らに助けてもらうことに。
少しわかりづらいが、この地図でみると、私たちが目指していたボロネシ村は本流沿いにある。(当然ここまでGoogleマップが正確なわけがない)
googleマップを完全に信じていた私たちは高速船の乗組員に「ボロネシ村まで引っ張ってくれないかな?」とお願いした。
彼らはこれまでも、そしてこの先も一生会うことのないであろうわたしたちアジア人を快く歓迎してくれ、「いいよ!」とボロネシ村まで連れて行ってくれることに。
いかだと高速船をロープで繋ぎ、少しばかり陽気な旅のスタートだ。
(相方Jくんが乗客にギターを披露)
(運賃の代わりだとやたらとタバコと水を求めてきた船長っぽい兄貴)
ただ、やけに走行距離が長い。
ボロネシはすぐ先にあるはずだった。
そして気づいたころにはもう遅く
私たちは本流から20分以上も脇へ逸れた水路のいちばん奥にある村「ボロネシ」へと漂着してしまったのだ。
戻れない
いかだを漕いで本流に戻れるような距離ではない。
どうしよう、、と思いつつも久しぶりの上陸に気分は高揚した。
(私が甲板を掃除している際に上からJくんが撮影)
無事に村に上陸し、食料の調達や、水浸しになったいかだの掃除をしたりして、再出発の準備をした。
そして、数時間後わたしたちはボロネシ村を後にし、再び本流へ戻ろうと試みたものの、ここは本流から入り込んだ場所にある。
岸へ流され、なんとか水流に乗ろうとパドルを漕ぐも、数秒後にはまた岸へ。。。人の力で戻れる距離じゃない。
そのあとスコールに打たれて、再出発から3時間近くボロネシ村から数百メートルのところで「遭難」していた私たち。
日暮れが近くなったこともあり、ギブアップ。
結局、ボートに乗っていた近くの先住民にガソリン代15ソル(500円)を支払って、ボロネシ村へ戻ってきた。翌朝再び本流までボートで連れていってもらうことになった。
(再上陸時、1回目の上陸で知り合った人が撮影。この村でも数少ないスマホユーザーでした、ちなみにこの村にはWi-Fiはありません)
この村の人たちは快く私たちを迎え入れてくれた。
「明日の朝本流まで連れて行こうか?」
「バナナいる?」
「食べるものある?」
と私たちがこの先の冒険困ることがないよう全力でサポートしてくれた。
ただ、この日は殆ど進むことなく、未開の村に迷い込んでしまった。
この日の夜を境にわたしは1週間でプカルパに到着しようという目標を捨てた。
とにかく、安全に、何日かかっても無事に到着さえできればそれでいい。
脱出不可能の村に遭難中の三日目。
もはや何日かかるか見当もつかなかった。
この日は約24時間ぶりの温かい食事と、村で購入した三日ぶりのジュースで小さな宴をあげた。
もう二度と会うことがない人たち
言葉も通じない人たちだけど、片言にスペイン語で
心からありがとうを伝えて
4日目、日が昇ると同時に私たちはこの村を後にした。
(翌朝助けてくれた村の人)
第5章 銃撃
突然だが、ここで想像してみてほしい
もし突然、目の前で絵に描いたような大きな猟銃をおでこの前に突き付けられ、「金を出せ」と言われたらあなたはどうするだろうか?
もし突然、銃をもった人が超高速で走るボートの上から発砲してきたらあなたはどうするだろうか?
ここからは、アマゾン川で私たちが遭遇した嘘みたいだけど本当にあった怖い話をしよう。。。
アマゾンは毎日恐怖との戦いだった。
マラリアやジカ熱などの病気はもちろん、穴という穴から人間の内臓を中から食い尽くすと言われている人食いナマズ「カンディル」や有名なピラニア、本流にでればワニもいる。
そして第3章にもあったように、スコールや突風、蚊など警戒しなくてはいけない脅威は書いても書き切れない。
そして、出発前からなによりも私が恐れていたのが
「人間」である。
山賊、先住民、ゲリラなどいわゆる「外部の人間」である私たちをアマゾン川にいる人間たちがどう迎え入れてくれるかは運次第なのだ。
アマゾン川をいかだで下っている途中に強盗に襲われて死亡した例、軍人に襲われた例もある。
アマゾン川で最も怖いのはまぎれもなく人間だ。
そして、私たちもいかだ下りの途中に遭遇してしまったのだった。
人生初の強盗に。
正直、強盗に遭うならブラジルかなと思っていたら
まさかのアマゾン川のど真ん中で
まさかの旅をはじめてまだ一週間だったのに、強盗に遭ってしまった。
そして人生で初めて死を覚悟した瞬間でもあった。
「こんなに早く人生って終わるものなんだな」と。。。
本編に戻ろう。
事件が起きたのはいかだ下りを始めて4日目のことだった。
この日は前日漂着したボロネシ村を出発して、私と相方はちょうど中間地点になるセンパヤ村を目指していた。
早朝に村人の手を借りて、本流へ戻った私たち、ただこの日もとにかくいかだが進まない
昼間のアマゾン川は通常の流れに逆らって進む貨物線やボートが多く水が逆流し、いかだはまったく進まない。
進まないどころか岸の大木に引っかかったり、砂でできた浮島に打ち上げられたりして、いかだは傷むばかり。
大木に引っかかって、引っかかった部分を切って、少し進んで、また引っかかっての繰り返し。
歩いた方が早く進む。
「進まないね」と文句を言いつつもいかだはノロノロと進む。
すると、小さな船にいかだが激突した。
船にせき止められて、進まないいかだ
「やばい、これ、このへんの人の船だ。厄介ごとになる前に」
と思いつつふと上を見上げると、
たくさん子供、この村の住民だろうか。
そして何事かと集まってくる人々、どうやら名前もない小さな村に漂着したようだ。
ただ、この村は何かがおかしかった。
これまで見てきた村の人たちは、服も着てるか着てないかわからないようなレベルで、携帯なんてもちろん持っていませんでした。そもそも村にWifiなどない。
ただ、この村はどこかがおかしい。
村の住民は皆綺麗な格好をしている。スマホも持っている。
おかしい。
そう思った私はすぐさま相方に「2人で行動するのは避けよう」と伝え、私は見張りも兼ねて船で待機することにした。
そして、相方のJくんは「ほな、とりあえず行ってくるわ」と村へ上陸し、村人たちに連れられて村の奥へ入っていった。
(Jくん撮影の村の様子。至って普通だったよう)
約20分ほどでJくんは無事に戻ってきた。
ただ、Jくんの後ろには大勢の村人が
上から袋叩きにされるかもしれない、、、
そんな不安を抱えながらも、村に住む長老の指示で住民のうち2人がボートで私たちを川の真ん中まで引っ張ってくれることに。
ただ、片方の男は猟銃を担いでいて、私たちをかなり警戒している。
彼に水あげたときも、お菓子をあげたときも
「先にお前が食べてみせろ」
と毒物が含まれていないことを確認させられた。
これが先住民たちの生きる知恵なのか、、
なにか聞かれた。だが、スペイン語がわからないので笑顔で受け答えようとすると「おまえ、、、本当にわかってるのか?」とやや怒り気味に返された。
いつ銃を向けられてもおかしくない状況である。
猟銃を背負ってる男を警戒しつつも、無事に私たちは川の真ん中へ。
引っ張ってもらったボートと2人にお別れをし、ぼくらは冒険を再開した。
ただ川の流れは相変わらず進行方向とも逆向き、そして向かい風。
せっかく真ん中に戻ったいかだも10分もすればまた岸に流れついてしまった。
ぼくらの視界から完全にボートと村が消えて10分少々、岸へと徐々にいかだが吸い寄せられていたそのとき。
遠くからブーーーーーーーーーーン!!!!!と
もの凄い勢いで走っているボートがいた。
速いなと思いつつも、まさかこのあとこちらへ突っ込むとはこのときは思いもしなかった。
私 「なんか速いですねあのボート」
J 「本当やな」
そして、Jくんより遥かに視力のいい私が気づいてしまったのだ。。
猛スピードのボートには二人の男が、ひとりは後ろで舵をとり、もうひとりは先頭で銃を構えている。
そのことに気づいた私は咄嗟に
「Jさん、あいつ銃持ってません?しかもこっちに向けてません?」
猟銃を構え猛スピードで近寄ってくるボート。
Jくんが「ホンマやな!」と気づいた頃には既にボートは数十メートル先まで迫っていた。
ヤバい、死ぬ。
このままだと、死ぬ。
そう思い、私は川に飛び込んだ。と同時
バン!!!と
一発の銃声が。。
四日目の午後、アマゾン川で
悪夢がはじまる。
第6章 悪夢
地獄がはじまった。
銃を発砲したふたりの船はあっというまに私のいかだに目の前に。
強盗は何周も旋回しては、発砲していた。素晴らしいハンドルさばきでした。敵ながらあっぱれである。
私たちを本気で殺そうとしていたかは未だにわからない。逃げる場所もなかったが銃弾にあたることもなかった。
なんとか銃撃を免れようと、川に飛び込んだ私は川の中からいかだを支える大木にしがみつき、「助かれ、助かれ」と思いながら銃撃から身を潜めた。
Jくんはいかだの壁に隠れた。
(後日談ですが、Jくん曰く強盗は川に向かって発砲していたようなので、川の中にいた私のが危なかったようです)
数秒後には銃持った方のおじさんが、いかだに乗り込み、完全にいかだがジャックされた。
おじさんのほうは、いかにも猟師という感じの格好で、黒のシャツ、黒のズボンに長靴、そして5センチ口径の大きな猟銃をもっていた。
(ずっとこんな感じ)
私もふたりの指示で恐る恐る、両手をあげながらいかだの上にあがると、Jくんがまさにこの写真のような感じでおじさんに銃を向けられていた。
私もJくんの隣で、山賊が持っていそうな刀を首元に突きつけられて動いたら死ぬみたいな状況になってしまった。
「あーこんな感じで自分は死ぬのか」と思いつつ、少しだけスペイン語が話せるJくんと強盗の会話をとりあえず聞くことに。
当時、わたしはスペイン語ゼロだったのでほぼ何を話しているのかわからなかったが、Jくんの訳と彼らの会話の口調から汲み取ると
「おまえたちこんなとこで何やってんだ」
「危ないだろ」
という具合の内容で、私たちは強盗にいかだ下りは危ないことだと怒られているんだなというのがわかった。(当然である)
そのあと、Jくんがしばらく会話を続けようと試みましたが、少しでも逆らおうものなら撃つぞといった緊迫した状況でした。
本気で撃たれそうになっては、「ちょっと待って、ちょっと待って!」という展開になっては、必死に説明を続け、どうにかこの状況を打破しようと必死に策を練るJくん。私は隣で正座、半泣きの状態だった。
しばらくすると、「とりあえず金出してもらおか」という雰囲気になり、テントの中からお金を出すフリをする私。
(この赤と青のテントの中に全ての貴重品が入ってました)
いつ撃ち殺されるかな?もう死ぬのかな?と考えながらも、財布ごと強盗に渡した。(人間は死を恐れると財布すらも渡します)
銃を持っていた方のおじさんはなぜか、私のアメリカ時代の免許証を確認。「なるほどな」といった表情で、私の財布は無事に返ってきた。
そして、その間にJくんが「こんなことも想定して」と用意していた100ソル札(30米ドル)を強盗に手渡した。100ソルはペルーで一番大きなお札だ、強盗も納得した様子で「じゃあな」と去る様子。
おそらく彼らはついさっき立ち寄った「怪しい村」の住人に違いない。きっと、携帯、パスポート、クレジットカードをぼくらから盗ったところで使い道がないので現金を渡したことが吉とでた。
彼らは満足気な様子で、ボートに乗り込んだものの、まだ安心はできない。
いつ発砲するかわからない、いつアマゾン川に奥底に沈められてもおかしくない状況に変わりはない。
最後まで気が抜けない、「最後に撃ってくるんじゃない?いよいよ殺されるんじゃないか?」と警戒して、いかだの後方でいつでも川に飛び込める準備をしていました。
船がエンジンをかけ、出発した瞬間。
威嚇するように再び強盗が銃をこちらに向けてきました。おじさんは再び銃を構えた
ほら来た。
「撃たれる!」
そう思い、私たちは再び川に飛び込むと
パンパン!と二発ほど空に向かって威嚇射撃をしながら強盗たちは猛スピードで去っていった。
これで、完全に無一文になった私たち。
これで、完全にメンタルが崩壊した私たちふたり。
怖すぎて半泣きの私。
悪夢の15分間だった。
まだ半分の地点にも達していないものの、完全に心が折れたわたしたちは「もういかだ下りやめましょう」と話し、一度いかだ下りを止めることをきめた。
近くの村を見つけ次第、そこに停泊して、いつくるかもわからない高速船に乗ってプカルパを目指すことを決めた。
リタイヤを決意。
やめようと話したいたところにブーーーーン!とまた聞いたことのあるボートの音が。
「あれまた?」
強盗が戻ってきたのだ・・
「いやだ、死ぬ」
そう思ったときにはいかだの壁にボートが衝突していた。
ガシャン!!!
1回目の襲撃よりも明らかに速いスピードでこちらは向かってくるボートは、いかだの壁に衝突した。
いかだの横の壁部分にボートが衝突し、壁が壊れた。
再び私たちのいかだに乗り込んで来た強盗2人組。
ただ、今回は銃は持っているだけでこちらには向いていない。
動揺する私たちに「まぁ落ち着いて、落ち着いて、大丈夫だから」といった様子で私たちを落ち着かせて、おじさんが次に発した一言は
「なんかごめんね」
あれ???強盗だよな?
強盗って人から物を奪ったら謝るのか?
「おれらも生活かかってるんだよね〜(Jくん訳)」と真面目な顔で話し始めるおじさん。
状況がイマイチ把握できていないものの、
そのときにはおじさんは「いやこれはもういらない」と自分のボートに銃を置き、ぼくらを攻撃する気はないという意思表示をした。
とりあえず、速く去ってほしいとおもい咄嗟に買っておいたピスコを差し出す私。
「まぁおまえも飲みなよ」と再び私とJくんにピスコを差し出すおじさん。
完全にマンガで観たことのあるような世界。
その後、何処から来たのか、何日いかだに乗っているのか、どこへ行きたいのか、の他に「もう危ないから次の村でやめる事」「高速船に乗ってプカルパへいくこと」も話した。
おじさんはとにかく「悪い事してしまった」といった様子で何度も何度も僕らに「悪かった」謝罪した。
謝らなくてもいい、とにかく早く自分たちの元から去って欲しい、その一心だった。
(お金を返す気はもちろんなさそう)
15分ほどでボトルにはいっていた全ての酒を飲み交わした後、彼らのボートに引っ張ってもらい、川の真ん中に。
結局彼らのおかげで、生きたまま冒険を再開できるようだ。
そして、なぜか彼らと最後に握手を交わし、彼らは去っていった。
忘れてはいけない。
彼らは1時間前私に何発も弾丸を放った強盗であることを。
その後、私たちは終始無言。。。。。
ただただやめる事だけを考えて通る高速船、タンカー1隻1隻に"Ayuda!!! (助けて)" と手を振り助けを求めたが、彼らに声が届くはずもない。
そのかわり、行き交うタンカーの操縦士たちは毎回笑顔で手を振り返してくれた。元気をありがとう
助けを求めても中々助けてもらえないのが、いかだ下りの神髄。
だれよりも、なによりも警戒されていたのは、まぎれもなくぷかぷかと浮かぶ大木に乗っている私たちふたりなのである。
「助けてもらうよりも、ゴールを目指していかだを流し続けたほうが速いかもしれない。」そう思った私たちはこの日から夜も停泊せずに真っ暗闇の中いかだを流し続けることにした。
夕方になり、蚊との戦いが終わり、とりあえずご飯でも食べて元気を出そうとしたときだった。
また新たな試練がやってきた。
なんと、火を起こすための紙や段ボールが無くなっている。
ご飯がない!
地獄の4日目、一難去ってまた一難。
第7章 危機
アマゾン川いかだ下りの話をすると必ずと言っていいほど「サバイバル中はなにを食べてたの?」といった類の質問がとんでくる。
毎晩どこかにいかだを泊めて宿に泊まるわけでもない。
最初地図で調べた限り、スタート地点であるアタラヤからゴールのプカルパまで大きな街は無く、食料が途中で調達できるかもわからないままだった。
プカルパまでは推定で10日くらい到達できると予想した私たちは、とりあえず7日~10日耐えれるだけの食糧を確保しようと、ペルーの首都リマに滞在している間に
乾麺、米、缶詰、スナック類
塩、砂糖、ケチャップなどの調味料
そして非常用のインスタント麺を買い揃えた。
(リマで購入したアマゾングッズです)
さらに、アタラヤを出発する直前に飲料水40リットルと火を起こすセット、ダンボール、小枝、バナナなどの果物類を購入し万全の状態でいかだ下りをスタートした。はずだった。
初日から3日目までは準備の甲斐あって、シェフJくんが少ない材料にも関わらず毎晩美味しい夕食を振舞ってくれた。
どれだけ辛い川下りになってもその辛さを一瞬でも忘れさせてくれたごはんの力は素晴らしい。
そして4日目、悲劇が起きた。
火がつかない。
火を起こすために準備したダンボールや新聞紙が毎日やってくるスコールや、強盗のボートに突っ込まれた際に水浸しになっていたのだ。
ここは湿度90%超えの熱帯雨林。
どれだけ晴れていても一度濡れた段ボールが乾くまでには相当な時間がかかる。
そして、ここでさらに重大なことに気づいた。
「ぼくらの食糧では火がないと何も作れない」
4日目の夜の時点でパスタ1キロ、米約1キロが残っていた。あと4,5日は生きられるであろう食糧、、ただ私たちには肝心な火がない。
仕方なくこの日の夜は小さなイワシ缶1缶を二人で分け合い、バナナを一人一本ずつと残っていたオレオを食べて飢えをしのいだ。
あと何キロ先にプカルパがあるかもわからない、あと何日かかるかもわからない。
完全に疲弊していた。
強盗に襲われたショック、食料不足、たくさんのことたった半日で起こったこともありこの日はただただ空をみつめるしかなかった。
この日だけは、アマゾンからみえる星がいつもに増して綺麗にみえた。
5日目の朝
(疲弊しながらも必死に撮った一枚)
起きたらすぐに、改めて残りの食糧を確認した。
スナック類に関しては「どうせ、冒険中は暇だから毎日パーティーですよね!」などとふざけながらも、かなりの量を買い込んだ。
はずだった。
初日から通り行く船や、村に上陸するたびに「お菓子いる? 」「お菓子あげるよ!」とお菓子をプレゼントしていた私達。
気づいたら残りのスナックはピーナッツ1袋、小さなオレオ2袋だけになってしまっていた。
ほかに食べられそうなものといえばツナ缶と先住民から貰ったバナナくらい。
ただ、この先住民がくれたバナナは火を通さないと食べることができないバナナでした。これは小腹が空いたら生で食べた。不味い。
ツナ缶は5日目の時点で残り三缶、バナナは相当な量がありました。
「これ、、、持って3日ですね」
3日、、つまり8日目までにゴールしないと私たちはアマゾン川で飢え死んでしまうかもしれない。という予測だ。
火が起こせず、料理もできなければ、お湯を沸かしてコーヒーを飲むこともできなくなった。
いかだの上でとにかくやる事がなくなってしまった二人。
ただ、前日決めた通り、暗闇の中いかだを流し続けたら夜はかなりのスピードでいかだが進むことに気づいた私達。夜を待てば、いかだは進む。
とにかくエネルギーを消費しまいと、昼間は昼寝したり、音楽を聴いたりととにかく「無の状態」で日が暮れるのを待つ。
前日までは「いかだが進まない!」と嘆いていた私も「夜まで待てばいかだは進む」と信じて、木に引っかかろうが、いかだがどう進もうが昼間はlet it be、流れに身を任せた。
ついには、いかだを漕ぐパドルにすら触れることがなくなった。
そして、日は沈み、いかだはまた進みはじめる。
待ちに待った夜ごはんの時間、この日の夜はツナ缶一缶を二人で分け、バナナとオレオを食べた。一瞬でご飯の時間を追え、蚊との死闘を終えて眠りにつく。
今では、ツナ缶を見るたびにアマゾン川を思い出すようになってしまった。
そして、この日夜オレオは底をつきた。
ここで、空腹に耐えられなくなったJくんが驚きの行動に出始める。
「しょーご、これ美味いでー」
何を食べているのかと見ると、
なんと茹でる前のインスタントラーメン。
あの硬いままの麺の砕いて食べ始めた。
味のないインスタントラーメンをかじるのに最初は衝撃を受けた私であったが、翌日には私も限界を向かえ、Jくんとともに硬いインスタントラーメンをかじった。
この域に達するともはや何を食べても美味だ。
5日目の夜もいかだは前進、三日以内のゴールが現実味を帯びてきた。
6日目も朝はバナナ、夜はツナ缶1缶とバナナ。
そして、6日目の夜、どうしても甘いものが食べたくなった私たちがカバンを漁り見つけたのはスーパーで衝動買いしたココアをつくる粉。
「Jくん、これいけるかも」と私は粉を直接口のなかに流し込み、水を口の中に含み、自分の口の中でココアを作りました。
久しぶりに甘いものを口にできわずかに幸せを感じたものの、辛さを感じた。
そろそろゴールしたい。
そろそろちゃんとしたご飯がたべたい。
この生活はいつまで続くのだろうか、、
そんなことを考えながら6日目が終了した。
7日目の朝
行き交う船の数がこれまでよりも明らかに増え、ゴールが近づいてきたことをふたりとも確信していた。
二人ともとにかく早くゴールしたいの一心。
7日目、いかだの上での会話の内容は
「リマに戻ったらチャーハン食べたいですよね」 (ペルーはチャーハンが有名)
「プカルパ着いたら何食べますか?」
「プカルパ着いたらアイス食べたいですね」
「とりあえず甘いもの食べたいですね」
「サンフランシスコの〇〇って日本食屋さんが美味しくて〜」
「大阪は食べ歩きが有名で〜」
など食べ物の話ばかり。バナナも残り数本。
明らかに限界を迎えている。
私たちは7日目の夜にゴールできることを信じて
この日のお昼、ついにピーナッツを食べた。
ただのピーナッツだった
それでも
「お昼ご飯食べれるとかめちゃめちゃ幸せじゃないですか?」
「ピーナッツとか豪華すぎません?」
とツナとバナナ以外の食べ物を食べられることに感動していた。
夕方になり、ゴールまで残り数十キロ地点まで到達していた。
最後の蚊との闘い、そして最後の晩餐、この日のご飯もツナ缶一缶を二人でわけた。
日が暮れると、かなり遠くからかすかに人の声や音楽が聴こえ、そして空が明らかにいつもより明るい。間違いなくプカルパだ。
ここで寝たら寝過ごす。
といいつつ、仮眠を取ろうとする二人。
大きなカーブを周り切るまでに数十隻の大きなタンカーや貨物船が私たちのいかだ数メートルまで接近し、ライトで私たちを照らした。
毎回強盗では?と警戒して隠れたりしていたが、いまこうして振り返ると不気味なのは川にプカプカ浮いてる私たちのいかだのほうだ。
プカルパはまだかまだかと待ちつつ、1時間近くかけて最後の大きなカーブを曲がると
もの凄い灯が。
見えた。
プカルパ
最終章 終点
巨大な貨物線のエンジン音、港の光、少し大きなビル、今まで立ち寄った村とは比べ物にならないくらい明るいプカルパ。
やっと、ゴールがみえた。
スタートしてから7日目の夜。
プカルパが見えた瞬間鳥肌がたったのを今でもよく覚えている。
ただ感動できるのもつかの間、まだゴールではない。
地図で確認する限り、プカルパは少し本流から外れた場所にある。
このはすでに夜、川の流れはかなり速く、気を抜いていたら街を通過してしまう。
私たちの最後の闘いが始まった。
「絶対ここでゴールしましょうね!」
「ゴールして美味しいご飯食べましょうね!」
「絶対明日の昼チャーハン食べるんだ!」
私たちは空腹の限界を迎えていた。
二人ともパドルを手に前と後ろから必死にいかだを漕ぎ、港へ近付こうとした。
本流から少し外れたところに差し掛かったところから川に浮かぶ家が何軒かあった。(ここは下の図を参照)
私たちのいかだを漕ぐかけ声で何事かとみな外へ出てきた。
当然だ。木でできた巨大ないかだが自分の家に向かって流れてきたら誰だった恐怖を覚えるに違いない。
私たちは「アタラヤから来たんや!」と大きな声で伝え、怪しい人ではないと全力の笑顔で手を振った。
浮島の家に気を取られていると、目の前には停泊中の巨大なタンカーや貨物船が。
ぶつかる
必死にいかだを漕ぎ、スレスレで貨物船との衝突を避けることができました。貨物船の看板からも船員たちがいかだを見下ろす。
いよいよ、岸が見えてくるはず。
ただ、既に夜の10時近く。
明るい街も、何箇所か暗い部分もあり、どこでいかだを止める事ができるのかよくわからない。
そもそも私たちはいかだの止め方を知らない。
ここまでノンストップでいかだを流し続けたからだ。
そして流れに身を任せていたら、あっというまに
最初のいかだを止められそうな場所を逃し
次のいかだを止められそうな場所を逃した。
「これやばいですよ!プカルパ通過しますよ!」
川の流れは岸に寄れば寄るほど速くなった。
また、少し前に巨大なタンカーが停泊していた。
このまま直進すればタンカーに衝突
でもタンカーを避ければプカルパを通過してしまう。
究極の選択を迫られていたとき、目の前に停泊中の高速船を三隻見つけました。
私 「ねぇJくん、あれにぶつけて止めません?」
J 「一か八かだけど、もうやるしかないっしょ!」
私たちの出した結論は「停泊中の高速船を利用して、いかだの流れを止めて、そのまま高速船といかだをつなぎとめて停止させる。」
一か八かの勝負。
劇場版名探偵コナンのテーマソングが流れてきそうクライマックス。
あっという間に高速船一隻目に衝突
ドーン!!!
いかだの先端が船と衝突し、止まった!と思いましたが、なんと川の流れが速すぎて、紐を括り付ける時間もなく、いかだが一回転。
再びいかだは進みはじめてしまいました。
「ダメだ、止まらない!」
その瞬間紐を手に取ったJくん、並ぶ二隻目と三隻目の高速船。
ラストチャンス。
ドーン!!! と三隻目の高速船に衝突した瞬間、紐を持って二隻目の高速船に飛び乗るJくん。
運良く二隻目と三隻目の間挟まったいかだ。
二隻目の高速船に紐を括り付け、いかだは停止した。
「なにやってんだ!!!」と慌ててぼくらの元にやってくる高速船の乗組員たち。
まずは謝罪。
事情を説明したものの川の流れはかなり速く、いかだに残されたわたしと、高速船に乗ったJくんの距離は実に5メートル。
Jくんのいる高速船に飛び乗るは難しいと判断した私は、必要最低限の荷物をいかだのパドルを橋渡しとして利用してJくんに渡し、私は隣の三隻目の高速船から陸へ降りることに。
図を参照に
① プカルパを確認
② 漁師の家
③ タンカーに衝突しそうになる
④ 着岸
いかだとはここでお別れ。
高速船の乗組員の人たちに「ごめんね」と謝りながら、別々の高速船内部をつたってついに陸へ降り立った。
ゴール。
4日ぶりに陸を歩いた。
空腹、疲労、そして陸酔いでフラフラしながらも全力の握手を交わした。
いかだはプカルパに到着してから売ればいいよね!と話していた私たちでしたが、高速船に括り付けたまま。いかだに使用した木材は「自由に使っていいよ」と彼らに任せることに。
ハチャメチャないかだ下りはこうして幕を閉じ
私たちは無事、生きて帰ってくることができたのだ。。。。。
(到着したプカルパで翌朝に撮影、あたたかいごはんが身にしみました。)
あとがき
私の人生で最も過酷な7日間はこうして幕を閉じました。
マラリアやジカ熱の恐怖、ピラニアなどの恐怖と闘い、毎日突風やスコールと闘い、タンカーが通過するたびにやってくる大きな波でいかだは沈没しそうになり、そして強盗、食糧不足、生まれて初めて死を意識した7日間でもありました。
本編には書きませんでしたが、強盗に襲撃された際にテントが壊れ、途中からビニールシートに包まって寝ていました。
いかだ下りを始める前に「こんなこと起きたらヤバイですよね」と予想していたことが全て起きたといっても過言ではないほどの超過酷なサバイバルになりました。
それでも、僕らは
毎朝、朝陽を見ながら生きる喜びを噛み締め
昼間はアマゾン川で水浴びをし、陽気に歌を唄い
夜になればどこよりも綺麗な満天の星空を眺めながら夢を語り合いました。
川の流れに身を任すいかだ生活はもう二度とできないですが
世界一周を終えても忘れることのない貴重なハイライトとなりました。
これで、このブログでの"アマゾン川いかだ下り"のお話は完結です。これを見て、アマゾン川に行ってみたいと思った人、何をバカなことを堂々と語ってるんだと思う人、いろいろ意見はあると思います。
僕らの冒険に対する意見は一人一人違うでしょう。でも、それでいいんです。
感じるままに、ありのままで、これがぼくがアマゾンで学んだことです。
最後に、リマでアマゾン川いかだ下り参戦を提案してくれた相方のJくんには感謝です。
「人と違う旅がしたかった」というぼくの望みが少し叶った瞬間でもありました。
実はキャンプ経験がほとんど無いどころか、キャンプが大嫌いな私をも歓迎してくれ、心が折れそうになったときも、いつも明るく笑いの絶えない冒険になったのはきっと彼が相方だったからでしょう。
また、どっかで一緒に歌でも唄いながら冒険ができたらなと思います。
兄貴、ありがとうございました。
最後まで文章力の足りない本稿にお付き合いいただき
本当にありがとうございました。
それではまた世界のどこかで会うその日まで。
アマゾン川のお話はこれにて完結。
完
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