岡崎恵美「それはギター」と、渋谷直角に描かれなかったものの話

 「『マッドマックス 怒りのデスロード』には中年のオバチャンが出てこない」という記事が少々バズったのを見て、以前、ある評論家が、『あまちゃん』に原発事故が描かれていないと批判した一件を思い出した。
 両者が同質の批評かどうかはここでは置いておいて、ある作品について「描かれなかったもの」をあげつらうのには、困難が伴うのだということを、あらためて思う。

 映像であれ小説であれ、その作中世界に存在する(し得る)全てのものを登場させるのは、物理的に不可能だ。
 だから、作り手が表現したいことにとって不必要な情報=ノイズは、当然その作品から排除される。
 「何かが出てこないこと」を元に「作品を批判する」のは、(「密室に閉じ込められてるけど、さっき携帯使ってたじゃん!」といった場合を除けば)基本的に無理筋だろう。
 少なくとも『あまちゃん』の件は、ほとんど因縁に近いと僕は思う。(宮藤官九郎はむしろ、「震災」という語から漏れ、その後も続く放射能の問題に隠れて忘れられがちな「津波による被害」をクローズアップするべく、意図的に原発の件をオミットした(最小限に留めた)のではないか。)
 そういえば震災直後には、アジカン後藤氏が、忌野清志郎ファンを自称する人から「いま原発を歌わないなんてロックじゃない」と絡まれる騒動もあったが、これにいたってはもうムチャクチャだ。

 しかし、ムチャクチャな因縁だとわかっていても、「描かれなかったもの」の方を強く思ってしまうことがある。


 渋谷直角さんの新刊『奥田民生になりたいボーイ出会う男すべて狂わせるガール』、併せて前作の『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女』を読んだ。
 タイトルのとおり、ある類型・典型をあぶり出して茶化す芸が炸裂している。
 キャラクターたちのいかにもな言動に、並ぶ固有名詞のチョイスに(リチャード・アヴェドン!!)、作中のインターネット画面や雑誌誌面に、いちいち膝を打った。

 「茶化す」と書いたものの、両作とも、決して悪意や揶揄(あるいは自嘲)だけの漫画ではない。
 特に『奥田民生に~』は、恐ろしいほどフラットな視点を持って描かれていて、そのことと、フィクションへのなめらかな移行とを通して、読んだ誰かが傷つくことが巧妙に避けられている。
 強烈なタイトルに少なからず反発を覚えて(「奥田民生になりたいボーイ」には当てはまる自覚があるし、「カフェで~ボサノヴァカバー」を仕事として歌っている友人は何人もいる)読むのを躊躇していた僕も、読後には
——本当に公平な意地悪さは気持ちいいのだと知りました(ブルボン小林)(『カフェで~』)
——誰かをバカにするマンガと思ったら大間違いだ!(久保ミツロウ)(『カフェで~』)
——登場人物はあなた自身だし、私のことでもある(宮沢章夫)」(『奥田民生に〜』)
の帯文に深く頷いた。

 だから、この2作品を批判するつもりは全くない。面白く読んだし、良い漫画だと思う。
 しかしその上で、両作の「あるある」からこぼれたところに、強く思っ「てしまっ」たことがある。


 本当に一番の困難を抱えているのは、「奥田民生になりたいボーイ」でも「出会う男すべて狂わせるガール」でも「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女」でもない。

「奥田民生になりたいガール」だ。

 民生的なもの――それは例えば、かっこつけないかっこよさであったり、怠惰の美学であったり、あるいはTシャツ・ジーパン、作務衣にタオル、レスポールのパワーコード、釣り……といったあれこれだ。
 まさに『奥田民生になりたいボーイ〜』に描かれるように、僕らは奥田民生というアイコンの登場によって、それらを魅力として身にまとう術を、そして、それが同性や異性から魅力と受けとってもらえる下地を、得た。
 では、男性以外はどうか。
 そう、「民生的なもの」は、男性にしか許されていないのだ。
 無論「男だけが持つべき特権」などと言っているわけではない。女性(やその他の性)のそれが、魅力的なスタイルとして認識される前提が、残念ながら社会に広く共有されていないということだ。(例えば女性の落語家と似た構造だ。)
 ノーメイクでTシャツ・ジーパン、そのシャツについたシミを「あ、さっき食ったラーメンの汁が…」と言う女性を想像してみてほしい。多くの人は咄嗟に「よほどの美人じゃないと許されない」と思ってしまうだろう。
 女性が、怠惰で頓着しない(ように見せる)ことをチャームとして表現するのは、男性の場合と比べ極めて明らかにハードルが高いのだ。

 そして、この困難さは音楽、特に、まさに奥田民生のサウンドであるところの、60~70年代のロック(いわゆるクラシック・ロック)~フォークをベースとしたポップスに於いて、顕著になる。
 ラブサイケデリコやスーパーフライは、「かっこつける」方向であると同時に、「お人形性」(=横の男が全部曲書いたり操ったりしてるんだろ?と誤解される性質)を(不本意にせよ)たたえている。aikoは、服装こそ無頓着風だが、言葉や歌い方で女性性(ガーリィ)を強く打ち出している。UAやCHARAは歌い方がもっと装飾的だし、最も「民生っぽい」パフィーは自作自演家ではない。
 そう、「民生的な女性SSW」って、いないのだ。
(※あくまで音楽様式やスタイルの話なので、「そもそも誰一人似てないし」とか「何かっぽい時点でアウト。まったくのオリジナリティを生み出せばいいじゃん」みたいな突っ込みは無用に願いますね。)


 岡崎恵美ちゃんという古い友人がいる。
 シンガーソングライターで、「moqmoq」という名義で、ウクレレを中心とした弾き語りをやっている。
 出会った時はジャズ研の学生(ジャズボーカリスト)で、その傍、女性ボーカル×2・アコギ×2のユニット「くすりゆび」で(まさに『カフェでよく~』にも描かれる)下北沢のmona recordsというライブハウスで演奏したりもしていた。
 その後クラブジャズ系のバンド「HAREM」に参加し、その頃、「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバー」のような仕事も引き受けている。
 しかし恵美ちゃんは、「有名になりたい 手段は選ばない」(『カフェで~』に登場する一節)のようなスタンスと、おそらく最も遠い人だ。
 「やりたいことだけやっていたい、それで何とか食べていけたら最高」とでもいうような(※本人の弁ではありません)、スノッブな含蓄やポジショニングの論理には興味のない人だ。
 「HAREM」解散後は、カントリーポップス的なバンド「あしのなかゆび」、情緒の濃いマルチプレイヤー/作編曲者との2人ユニット「まばら」に参加しながら、次第に「moqmoq」としての活動のパーセンテージを増やしてゆく。
 活動の幅の広さは、彼女の幅の広さゆえだ。器用なので、種々の「仕事っぽい仕事」にも重宝されている(プロデューサーと寝ずに)。
 そして、恵美ちゃんは、奥田民生のことをとても好きだ。

 恵美ちゃんが弾き語りでの活動をはじめて何年か経った頃から、ああ、歌い方が変わってきたな、と思っていた。
 淡白な発音から、粘り気のある発音に変わった。
 日本語の歌詞に、英語的な子音や、中間的な母音を使うようになった。
 その頃からか、「一人で黙々と」やる(から「moqmoq」だった)はずのソロ活動に、他のミュージシャンが参加するようになった。

 秋頃に発売される予定のmoqmoqの新作から、4曲を収録した先行シングルが、5月、ライブ会場等で発売された。(そのダイジェスト版がこちら。)
 ドラム、ベース、ペダルスチールギターを交えたバンド編成だ。
 これまで彼女の曲は、一癖あるコード進行のものが多かったが、今作のオリジナル3曲は比較的シンプルになっている。
 また、(言葉にこだわりがある点はそのままに)歌詞の“文学的表現”は鳴りを潜め、より直裁的でとらえやすいものになった。

 「奥田民生になりたいガール」よばわりをしたら、恵美ちゃんは気分を害すると思うけど、しかし彼女が濃厚に奥田民生を敬愛し、意識していることは、このシングルからも明らかだ。
 3曲目『それはギター』は、民生曲へのオマージュを多く含んだ、奥田民生への熱烈なラブソングとも言える。
 「もしもギターが弾けたなら」と歌うサビは、まぎれもなく(『もしもピアノが弾けたなら』を引用した)奥田民生『人間2』へのアンサーだ。
 4曲目にはボーナストラックとして、とある楽曲のカバーが収録されているが、これはおそらく奥田民生の『Sunny』(アルバム『30』に収録されたBobby Hebbのカバー)を意識したアレンジや、温度感になっている。
 今作とそれに至る彼女の変化は、「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女」的に見られることを避け、ある意味で「民生的なもの」を志向する(もともとあったその志向をダイレクトに露呈させる)ぞという彼女の決意にも思える。


 『奥田民生になりたいボーイ出会う男すべて狂わせるガール』、『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女』を読んで、『それはギター』を聴いたら、「もしもギターが弾けたなら」という詞には、暗に「もしも男であったなら」という歯がゆさが隠れているよう、思えてならなくなった。

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