クラムボン


クラムボンの名前を知ったのは、おそらく中3の時だった。
渋谷屋根裏(!)に見にいったNONA REEVESのライブで、最前列で飛び跳ねていた金髪のお兄さんと知り合い、ネットでやりとりするようになった。
(ジオシティーズ、tcup、ICQの時代だった。)
Hさんというそのお兄さんは、当時ノーナとクラムボンに通いつめていて、その2バンドを自主的に紹介するホームページを作っていた。
クラムボンのページの扉絵は、三人がジャンプしているシルエットだった。
そのシルエットと屋根裏でのHさんの姿が重なり、なんとなくモッシュ系のバンドを想像して、それ以上調べたりCDを手に取ることのないまま、何年かが経った。
偶然ついていたテレビ——おそらくミュートマジャパンか何か——から聴こえてきたのが、「はなればなれ」だった(と思う)。
既知のどれとも違う、チャーミングな音楽に思え、惹かれて画面を見てみたら、「クラムボン」と書いてあって驚いた。
女性ボーカルだとも、ギターレスのスリーピースだとも、全く思っていなかった。
Hさんに「すごく良かった!今までスルーしてて損した!」と連絡し、出たばかりの『JP』と『くじらむぼん』を買った。

その頃には、Hさんのホームページは、公式サイトを持っていなかったクラムボンの準公式(公認)サイトになっていて、そこに集うファンの人たちとやりとりをするようになり(チャットにはミトさんもしばしば参加していた)、彼らに誘われてライブに行った。
ネットで出会った知らない人と、会ってしゃべったり飲んだりするというのが、自分にとっては(また、当時の世の中のスタンダードとしても)かなり「普通じゃない」ことで、緊張して、同級生を連れていった。(彼がたまたまその時骨折か何かで松葉杖をついていたのを、よく覚えている。)
ファンコミュニティの人たちは皆、大学生か社会人で、しかし何をしているのかよくわからない人が多かった。
ひとりだけ、1歳上の高校生がいた(ということは僕は高2だったのだ)。界隈では「朝クラブイベントがはねるとそのまま制服に着替えて登校するスーパー女子高生」として名高く、僕は尊敬と羨望と(正直ほのかな好意も)をもって彼女を見ていた。
彼女がロンドンに引っ越すことになり、ファンコミュニティの人たちが、その送別イベントをオーガナイズした。
ミトさんのDJと弾き語り(その頃はミトさんがギターを弾くことも歌うことも、ものすごく珍しかった)があるという。
2000年3月19日『タイムリミット』at Ojas Lounge。
これが、僕がはじめて訪れたクラブ・イベントだった。

仲良くなったファンコミュニティの人たちの口コミと、対バン、そのサポート……というつながりで、気になったり好きになるミュージシャンが、芋づる式に増えていった。
小遣いやバイト代の全てを費やし、また、インストアのフリーライブや抽選招待制をフル活用して、それらに足を運んだ。
出演者との距離が近いハコが大半で、自然と面識ができたり、直接話したりするようになった。
輝いて見える大人たちに囲まれ、ライブだけでなくクラブやギャラリーや、自分の知らない素敵な世界が次々に花開いていった。(DITAもアロワナもライブペインティングもポエトリーリーディングも、Ojasで知った。)
ちょうど映画『あの頃、ペニーレインと』のような気分で、高3を過ごした。
今やミーハーな自慢話になるような体験がたくさんあったし、恥ずかしいことに実際に時々吹聴してしまう。


大学に入り、自分もやや本格的に演奏やバンド活動をするようになって、少し事情が変わってきた。
プレイヤーとしての僕はその頃、ジャズとのその周辺の音楽に没頭していて、クラムボンやその界隈で出会った音楽とジャズ的な音楽とを、はっきり分けて考えていた。
クラムボンのセッション的なアプローチは、ジャズ側の視点から見ると物足りなく感じられたし、また、その頃、彼らの楽曲がパターン化してきている、引き出しが枯渇してきているようにも感じていた(しかし同時に、自分はそのパターンの影響を強く受けてもいて、ほぼ無意識に似た進行・リズム・キメ・方法論の曲を作ったり、手グセのように演奏で出てしまったりもしていた)。
そんな中で、彼らはどんどんとステージを(文字通り会場のキャパシティを)上げていった。
クラムボンのことはずっと追いかけていたものの、いつしか単純な好意だけでない、憧れと嫉妬、それと表裏一体のある種の「見くびり」のようなものが、入り交じるようになった。

大きくなってゆく彼らと、何者でもない(元々何者でもなかったのに、周囲の環境で何者かであるような錯覚に陥っていた、そして、その後自分の力で何者かになってゆくことも出来ていない)自分。
ある部分では彼らと対等かあるいは優越しているんだという過剰な自信と、しかし後続として多大な影響を受けてもいる事実。
彼らはみんなのものになってゆくけれど、しかし自分は他の人と違って彼らのことをよくわかっているんだという謎の自負。
僕が変名でやっているバンドでCDを作った際、自意識が空転しすぎて、謎の(今思えば完全にヤバい人な)長いメッセージをつけて、ミトさんに送りつけたこともあった(当然反応はなかった)。
愛憎と屈託はどんどん肥大していって、『てん、』『Musical』の頃には、新譜を素直に楽しむことができなくなっていた。
ライブに行くたびに複雑な感情が喚起されてしまい、自然と足が遠のいた。


もうひとつ厄介な要素があった。
ファンコミュニティで楽器演奏を趣味としている人たちが、レンタルスタジオに集ってクラムボンの楽曲をコピーする「セッションオフ会」という催しを定期的に開催していたのだ。
その頃の僕は、もっとクリエイティブな演奏行為をしたいという気持ちが強く、しかし友達である彼らとも仲良くしたい、そのために参加はしたい、という葛藤があった。(さらに言ってしまえば、そこでは自分の演奏が褒められて、井の中の蛙的に自尊心が満たされるという、しょうもない気持ちもあった。)
しかも、その催しには、大助さんがときどき遊びに来ていた。
行けば一緒に飲んで話せる(その頃はライブ後にメンバーも一緒に飲むような機会は減っていた)けれど、下手くそなコピーバンドに参加しているところを本人に見られたのでは、到底肩を並べて話せないし、つまらない奴だと思われたくない、そんな自意識がぐるぐると回っていた。
そして、最悪の事態が起きた。
ある「セッションオフ会」の二次会で(飲みながら演奏もできる環境だった)、歌う人がもうおらず、ピアノ・ベース・ドラムがクラムボンの曲を完コピしている上で、僕がギターでメロディを弾いている(嗚呼、スーパーのBGMのような、最もクリエイティブでないインストのあり方よ!)ところに、大助さんが入ってきたのだ。
そういうところは露骨な人だ。こちらが怯んで手が止まったのと同時に、曇った表情で「もういいから止めて飲もうよ」と(今思えば最大限優しい台詞ですね)言われ、なし崩し的に演奏は終わった。
恥ずかしくて恥ずかしくて、飲むどころか、すぐ逃げ帰った。
この話は、今ここに書くまで、本人達にもファンコミュニティの人達にも話したことがない。


ネガティブなことばかり書いたけれど、その間に彼らの音楽に心を打たれたり、助けられたことだって、もちろんたくさんあった。
同時代を生き、最初からずっとリアルタイムで触れてきた唯一のバンドとして、作品は買い続けていたし、主なインタビューは目を通してきた。
三人と偶然街で会えば(面白いことに、一度や二度でなくそういうことがあった)挨拶はするし、「久しぶりー、たまには見に来てよ」と言ってもらったりもした。
そんな中、自分の中での何かが変わり、久々に足を運ぼうと思ったひとつの大きなきっかけは、(もちろん20周年という節目や、武道館で演るということの意味もあるけれど、)やはり例のReal Soundの記事、そして、その後聴いた『triology』の「Re-ある鼓動」だったように思う。

あのインタビューは、大きなインパクトがあった(結果的にみれば小野島大さんの煽りが上手だったという部分が大きい気もするけれど)。
奇しくも周囲の友人たちが仕事を独立し、「食っていくために当然の切実なビジネスマインド」を露にし、戦闘的なメタファ(「競争」「戦い」「◯◯を武器に」「勝つ」云々)を多用するようになったり、並行して突如国防意識に目覚めたりしているタイミングだった。
(内容はそりゃそうなんだよ、おっしゃる通りなんだけど、そんな世の中でどうにかサバサバギスギスせず、「まあまあ楽しくやろうよ」で生きていく方法をこそ死ぬ気で模索したい、と、僕はそう思っている。)
ミトさんのスタンスがというよりも、もし三人のパワーバランスや関係性が変わったのだとしたら、それは音楽の上でもとても大きな変化をもたらしているだろうと想像したし、それでさらに先行するシングルのような「アニソン性」が加速したのなら、いったいクラムボンはどんなことになっているのだろうか。
反発、懸念、不安、ざわつきは、興味と同じことだ。作品を聴く前に読んでしまったため、見事に煽られた。
実際にハイレゾをダウンロードしてみて、第一印象は戸惑いの多かった『triology』だが、聴き込むほどに、ミトさんの言っていることの意味が理解できてきた。
変節ではなく、進歩。「らしさ」は否応無く色濃く残っている上での、新たな側面の開発。
なんだ、何も心配することはなかったじゃん。

中でも「Re-ある鼓動」は、本作に至るまでのクラムボンの20年を包括し、すべての屈託をぬぐい去るほどの強度、いわゆる「ポジティブなヴァイブス」、いやそれこそ「good groove」に溢れていて、クラムボンを聴いてきた(クラムボンの違う側面をそれぞれ好いている)誰もが、等しく愛することができる曲/テイクだと思う。
聴いているうちに、高校2年からの「クラムボンと私」の15年間がフラッシュバックされた。
そうだ。『Imagination』は、発売日に買って、その日たまたま遊びにいった妻(当時は交際もしていないイチ友人)の家で聴いたんだった。ああ、その人と結婚したのだな。
あれが発売された時はああで、あの時のライブではこんなことがあって、ああ◯◯さん元気かな……。あるいは当然震災のことも思い起こされた。
そうしているうちに、自分の中の何かがほどけた。
うん、武道館、行こう。
単独ライブではもういつが最後だったか覚えていないくらいぶりに、プレイガイドでチケットをポチッた。
(余談だが、「Rollin' Rollin'」が僕らの「ブギーバック」であるならば、「Re-ある鼓動」は僕らの「ラブリー」なのではないか、と思っている。あのクラビも、「ラブリー」から着想を得ていたりして。)


武道館は、とにかく楽しかった。
クラムボンのライブを、全面的に朗らかで前向きな気持ちで見たのは、10年以上ぶりだと思う。
上手下手の前方に駆けていってギターを弾くミトさんに、心から、おめでとう、と思った。

「光が降り注ぐように ささやかな営みが途切れることなく続くように」

エピローグ曲「Lightly…」とともにステージを去ってゆく彼らを、おだやかな気持ちで見送って、よいお酒を飲んで、終電前に帰路についた。

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