長嶋有句集『春のお辞儀』

(※公開時、冒頭2句目の引用が間違っていました。お恥ずかしい限りです。大変失礼しました。 4/22 19:00 修正しました。)

僕が最初に長嶋さんの俳句に出会ったのは、おそらく大学2、3年生の頃だったと思います。
最初は1句1句の作品ではなく、その全体的なトーンに「おや?」と思いました。
話し言葉で、「エビアン」「バームクーヘン」といった単語が並び、モノやコトしか出てこないのにそこに何かの心象――それもはっきりした喜怒哀楽ではなく、平熱のぼやんとした、しかしとても身に覚えのある――をたたえている17音の連続は、まさに長嶋さんの小説のようで、俳句ってこんなことができるんだ、と――これもまたぼやんとした平熱で――思ったのを覚えています。


裁判長寝てしまうほど五月かな (★)
初夏や少女パスタを平らげる
恋人はばあさん言葉冬の海 (★)


米光一成さんが「長嶋作品は、論じようとすると何か無粋な気がしてくるのが、長嶋論が少ない理由なんじゃないかと思ったほど」と仰っています(*1)が、長嶋俳句はまさにそれで、着想や句型や取り合わせ(*2)の距離やを言い出すと、とたんに面白みが減ってしまう気がします。(尤も、本当は俳句全般がそうなのかもしれません。)
掲句も、「裁判長が効いていますな」「これは初夏が座って(*3)いますな」などと言い出すと、言っているほうがバカみたいになってきます(句のほうもバカなのに!)。
しかし、そうは言ってもどちらの句も、一般的に俳句の「要件」のように言われているポイントをしっかりふまえていて、いかめしい「保守本流」のおじさんが簡単に「こんなものは!」と切って捨てることができないように、実はシビアに作られています。
書き手が本当に脱力していたら、脱力しているようなものは書けません。
長嶋さんの俳句は、小説と同じく、この「読み手に企みを感じさせない強さ」を強く持っています。


そんな長嶋さんの「静かな企み」のひとつの柱が、「誰も“わざわざ”俳句で言わなかったことを、言う」ことだと思っています。
長嶋さんの「新規性」は、俳句という枠組みに革新をもたらすとか、俳句の概念を拡張するとか、そういう大袈裟なものではなく、誰も見ていない重箱のすみをつつくこと、それを頑なに続けていることにあるかもしれません。
そしてそれは、(自分でやろうとしてみるとよくわかるのですが)そう簡単にできることではありません。


このたび刊行された第1句集『春のお辞儀』は、長嶋さんの、重箱のすみをつつき続けてきた20年の記録と呼べるものです。

図書館に本多すぎてさみだるる
シャンプーの先になくなる師走かな
ギターよりバンジョー軽し小正月
フェラーリの馬は案外落ち着いてる


3句目は、僕も参加している句会に投句された句です。
句会では、正月寄席かTV番組に出演している演芸のひとの、キャラクターの「軽さ」という解釈も挙げられました。
僕は、そうではなくて、楽器そのものの質量と読みたいです。
バンジョーはカントリー系の音楽によく用いられる楽器ですが、カントリー・ミュージシャンには、ギターもバンジョーもマンドリンも演奏するマルチ弦楽器奏者が多くいます。
この人は、求める音色からの必然性ではなく、「持ち運びやすさ」の観点で、今日は(エレクトリック)ギターでなく、物理的により軽いバンジョーを携帯しようと決めるのです。正月気分の残るセッションだから。


4句目は「あるある」と紙一重ですが、俳句という文脈で見る(「俳句のつもりが、あるあるに陥ってしまっている」のではなく、「あるある(的なこと)が、なんと俳句になってしまっている!」)からこそ、はっとするものがあるのかもしれません。
あるいは、俳句を「17音の文字列で人を驚かせる遊び」(「遊び」がひっかかるようでしたら「文芸」でも結構です)と捉えるならば、これはものすごく「俳句」です。
他にもこんな句があります。


薫風や助手席にいてチューバッカ
ポメラニアンすごい不倫の話聞く
ストーブは爆発しない大丈夫
人間大砲に笑顔で入り夏


チューバッカは、チューバッカに似た男の比喩でも、ましてヌイグルミでもなく、チューバッカそのもののはずです。
種を明かしてしまえば、これは元々映画の場面を句にした連作の中の1句なので、ミレニアム・ファルコン号の助手席ということになるのですが、断固、乗用車の助手席であると読みたいです。
乗用車であるとして、しかし僕はこの句に、不条理さや不穏さではなく、長閑さの方を感じてしまいます。
驚きと長閑さの同居なんて、なかなか味わえるものではありません。



それまで句集を買ったことなどもちろんなく、種田山頭火や尾崎放哉を面白がったりするくらいだった僕が、俳句に積極的な興味を持ったのは、長嶋さんの俳句に出会ったことが明確なきっかけでした。
「もしかして、現代俳句って、面白いんじゃないか」(今となれば、長嶋さんの俳句が現代俳句の中でもかなり特殊な位置にあることがわかるわけですが。)
「小説は書けないけど、これなら、自分にもできるんじゃないか」(今となれば、できないことがよくわかるわけですが。)
そんな、かなりいい加減な思慮で、僕は俳句(もどき)の創作を、人知れずいたってマイペースに開始したのでした。
その約10年後、長嶋さんと後に句座を囲み(という仰々しい言い方が実に似合わない句会ですが)、長嶋さんが立ち上げる(発行される予定のない)同人誌の創刊同人になるとは、想像だにしていませんでした。
急に陳腐な自分事になってしまいましたが、『春のお辞儀』には、そんな今までの思い出が詰まっています。


最後に、『春のお辞儀』の中で特に好きな1句について、偏愛を吐露して、終わろうと思います。
(偶然、俳人の佐藤文香さんもご自身のメールマガジンでこの1句を取り上げていて(*4)、良い句であることの証左だなと思いつつも、なんだか少し悔しいのですが…。)


目指せばもう始まっている花火かな

句の中には何の心象も直接示されていないのに、言外ににじみ出るものがあまりにも多い句です。
花火大会の会場を目指す道程の、混雑していて遅々として進まない、イライラとわくわくが同居したあの感触。
夏の夜風の気持ちよさ、屋台のソースの匂い。
同行している友人か恋人の、言葉や仕草。
その友人や恋人との時間も、花火大会と同じように、永遠には続かない。どころか、意外とあっけなく終わるだろうということ。
それと響き合う、短い夏休みの儚さ。ケの日があるからハレの日がある、楽しいだけの暮らしは無いということ。
こういった、花火大会から想起されるいろいろなことが、全て過去のものであるということ。ノスタルジー。
…という全部を、一瞬だけ打ち消す、花火のドーンという音。その音のような、下五(*5)「花火かな」の力強さ(口語的な句なのに、お手本のような「かな止め」の使い方(*6))。
「お前の想像力がたくましすぎるんだ」というご指摘もあるかもしれませんが、この俳句には、これだけのものが(もしかしたら、もっと)詰まっていると思います。
僕には、この俳句は、たった17音で、小説や映画のような情報量と熱量を持つものに見えます。
そして、そんなことができてしまうのが俳句のすごさであり、長嶋さんのすごさだと思います。

斜めの「クン」は、雑誌『FLASH』の組み字を模したもので、
『傍点』同人へのサインは全てこの「クン」付けになっています。


*1: https://twitter.com/yonemitsu/status/412513732598562816
*2: 2つの異なる要素を1句の中に入れる、俳句のひとつの方法論。2つの要素が「つきすぎ」ても離れすぎてもいけない、とされます。
*3: 他の言葉に替えがきかないことを、「(その言葉が)座る」と言ったりします。
*4: http://chokumaga.com/magazine/free/114/21/
*5: 5-7-5を、前から順に上五、中七、下五と言ったりします。
*6: 「や」「かな」などの助詞・助動詞を「切れ字」といい、その語のあとで文節が切れる、とされます。「かな」は最も強い詠嘆で、句の一番最後に置いて「かな」の手前にある単語を最大限に強調するのが効果的だお、とか、言われます。
句の引用はすべて、長嶋有(2014)『春のお辞儀』ふらんす堂 によります。(★の句を除く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?