2018.4.3. 福盛進也トリオ@阿倍野区民センター小ホール

「フリージャズ的な」ないし「無拍の」ドラムにも、正味なところ、ある種の定型(スタイルないしフォーマット)が存在する。
リズムパターンでこそないけれど、仕組みとしては例えば「ファンク」や「サンバ」などと同様に、聴く側にも演奏する側にも「こういう感じ」と共有されているプレイスタイルだ。
進也さんのドラムには良い意味での違和感があって、それは、そんな「定型としてのフリージャズや無拍」とは違う回路で演奏されているところに依るのだと思う。

冒頭、静かなソロドラムが始まった時、「ああ、ドラムって、こういう音がするんだな」と思った。
より正確に言えば、ひとつひとつの太鼓、シンバル、それらと叩き方やこすり方のバリエーションから生まれる、それぞれの音色。
まるで未知の音色のように……と言うのはさすがに言い過ぎにしても、まあまあ音楽を聴いている部類に入るだろう僕にも、それらが新鮮な響きとして届いた。

“耳の肥えた聴き手”ほど、音楽を聴いた際、つい文脈で理解しようとしたり、どの引き出しにしまうかを決めてしまいがちだ。
進也さんの演奏や、彼が構築する音楽は、僕らが陥りがちなその落とし穴を、自然に避けてきてくれる。
だから、ドラムの音色がビビッドに聴こえてくるのだと思う。
(以前ポール・モチアンを生で見たときにも、似たようなことを感じた。進也さんとモチアンは、むしろ似ていない部分も多いと思うけれど、この点に関しては近いかもしれない。)

はじめて進也さんのライブを見たときには、反応が速いのか、展開の予測が見事なのか、いずれにしてもインタープレイがとにかくすごいという印象を受けた。
今回、このリーダートリオを見て意外だったのは、フレーズを掴みとったり相互の反応によって音楽を構築してゆくというよりもむしろ、「それぞれが勝手にやっていて、それが結果溶け合っている」ように見える局面の多さだ。

ウォルター・ラングのピアノはひたすらシンプルで美しく、クラシカル。(なのに、一番何を考えているかわからない……!)
マテュー・ボルデナーヴのサックスは伸びやかで、押しが強すぎず、フレージングやアプローチは素直に「ジャズらしい」。
進也さんは(アレンジや構成のダイレクションを事前にしているとは思うけれど)、二人をあからさまに牽引するわけでも、追いかけるわけでもない。
基本的にはリードシートをなぞる形で曲が進行してゆくのだけれど、その中でも予測のつかない、どのようにアンサンブルが図られているのか想像できない瞬間が何度かあって、興味深かった。

阿倍野は進也さんの地元。今回のコンサートは凱旋公演とあって、おそらくこの種の音楽を普段あまり聴きつけない、ご親戚や古いご友人もたくさんいらしていたはずだ。(少なくとも僕の近くに座っていた方々は、会話から察するにそうだった。)
そして、会場はライブハウスではなく、350人程度のコンサートホール。やや改まって音楽を聴きに行く場だ。
会場に足を踏み入れた時から、親密さと緊張感の同居した(それはさながら結婚式のような)空気が、客席に満ち満ちているように感じた。

4曲目だっただろうか。「愛燦燦」が終わり、今までで一番自然で大きな拍手が起こったのち、会場各所からペットボトルの飲み物を飲むかすかな音が聞こえたのが、印象的だった。
複数の人にとって、張り詰めていた何かがほどけた瞬間だったのだと思う。
それ以降一貫して、会場全体が進也さんの音楽にどんどん吸引されていく感触が、たしかにはっきりとあった。
アンコールの「満月の夕」(一昨年神戸に越してきて、関西で大切にされてきた曲なのだと知った)では、隣席の方が涙されていた。

そうか、進也さんの音楽は決して“音楽ファン”のためだけのものではなかったんだ。
(もちろん選曲のことだけを言っているのではない。むしろ馴染み深い曲が蹂躙されたと感じれば、余計に腹も立つだろう。)
『For 2 Akis』は、美しく、ある意味でポップだと思うけれど、それでも「ECM的なもの」あるいはジャズや現代音楽に馴染みのない人にとっては、退屈かもしれない、勘所がわからないかもしれない、と、思い込んでいた。
違った。「ちゃんと伝わる」んだ、ということを、思い知らされた。

ステージでMCをする今日の進也さんは、なんだか大人っぽく、たくましく見えた。
演奏が素晴らしかったのはもちろん、阿倍野で、ホールで、このトリオを見ることができて、とても良かったと思う。

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