自分と世間と世界と区別


ー ひとはなぜ、性別を気にし、着るものに違いがあり、違う言葉を喋るのか。


日本語の一人称が好きではない。なぜなら、「私」や「僕」などと性別によって言い分けられているからだ。自分は私でもないし、僕でもない。アタシでもなければ、俺でもない。自分は自分なので、英語のように誰もが同じ一人称を使う「I」がとても羨ましい言語だ、と思う瞬間がうんとある。

最近よく聞く言葉で言うと、こういった考えはいわゆる「ジェンダーレス」の人間の問題に当てはまるのだろうか。女として生まれたが、だからといってピンク色は好きではないし、スカートも履かない。長い髪をしてなければ、メークもしない、アクセサリなどの小物すら身につけなければシャネルやディオールなどの光り物や、ブランド品などにもサラサラ興味は湧かない。

かと言ってこういう自分のことを、世間は果たしてボーイッシュと呼ぶべきなのだろうか。もちろん服装や身なりは他の女の子に比べればより男の子たちがしているようなモノに近いが、それを「ボーイッシュ系女子」としてカテゴリに入れてしまうのもどうなのであろう。自分はただ、他の子が好むようなモノは好まない、というだけだ。

だからどちらかというと「世間の女の子女の子してない系女子」と言う方がしっくり来る気がする。なんならば、「世間の女の子像から外れて生きる系女子」の方がいい気もする。今の自分は、親や親戚、学校などから言われてきた「女の子だからスカート履きなさい」「女の子だから赤色のランドセルを背負いなさい」「女の子だから髪を伸ばしなさい」「女の子だからピンクや赤などの服を着なさい」「女の子だから家事をしなさい」「女の子だから女の子らしく生きなさい」という言葉らを無理に飲み込んで、異物として体内に入ったこれらが違和感と共に戻ってきたことで出来あがった自分だから、それを「ボーイッシュ系女子」で片付けてしまうのはどうなのかと思う。

考えてもみてほしい。ひとは、気付かない内にこんなにも家族や環境に洗脳されて生きている。それに気付くことの出来る人はどれくらいいるのだろうか。生まれた時から「女の子だ」とピンク色の服を着させられる。「男の子だ」とトーマスのオモチャを渡される。アカチャンホンポなんかに行けばよだれかけは決まってピンク色か青色のどちらかだ。出産するひとの友人というのは、生まれて来る子が女の子と知ればキティちゃんやマイメロディなど、いわゆる女の子向けのモノを出産祝いで持って来るし、男の子と知れば、戦隊モノやアンパンマンなどの男の子向けのオモチャを持って来る。これはすでに、生まれて来る赤ちゃんに対しての「洗脳」だとは思わないだろうか。生まれて間もない頃から、こうして人は「女の子は女の子らしく」「男の子は男の子らしく」生きるようにと洗脳されるのだ。

こういう無意識な洗脳の仕方を自分は「社会のシャワー」と呼んでいる。私たちが毎日無意識に浴びるシャワーは、本当に自分の身をきれいにしているのだろうか。浴びすぎて自分の肌を痛めたりしていたら元も子もない。

成長の過程でそれに気付くことができた自分は、これからも「女の子らしく」なんて生きるつもりはない。たとえ世間に「女の子らしくないね」と言われようとそれは今までの周りの人たちのおかげであり、自分にとって最高の褒め言葉だと思っている。

今日はいいかな、と1日シャワーを浴びないでみる。

社会のシャワーは、それと同じように浴びないように生きることもできるのだ。


Instagramでは海外の写真をアップしています。https://www.instagram.com/shosemin/