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一年で一番のラッキーデー!『9月9日9時9分』(一木けい著) 9月9日記念試し読み#4

9999書影(仮)

特別掲載『9月9日9時9分』冒頭試し読み #4
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 ティンパニのような激しい雷の音で瞼があいた。
 一瞬ここが日本だかタイだかわからなくなる。ぼんやりした頭のままベッドを抜け出し、カーテンを開けた。
 雨粒の滴る、すっきりとした電線を見て、ああ日本だと思う。
 もしここがバンコクなら、窓から見えるのはこんがらがってたわんだ電線と、大量の雨を受けて泡立つプールだ。雨の重みに耐えかねるように木々の葉が揺れ、リスが電線を駆け抜けていく。ティンパニのロール音に似た雷鳴が遠い底まで轟き渡る。
 だから目覚める前に聴いた音は、タイの雷だった。私はまた、タイの夢を見ていたのだ。
 半分眠った頭で着替え、洗面を済ませながら、バンコクの朝の風景を思い出す。
 朝の食卓には必ず南国のフルーツが上った。登場回数がいちばん多かったのはソムオーだ。ザボンに似たその巨大な柑橘を冷蔵庫から取り出して食べると、細胞ごと目覚めるような気がした。ソムオーから水気が抜けてパサつく時季には、マンゴスチンを好んで食べた。紫色の分厚い皮に爪で切り込みを入れて割ると、真っ白い果肉が出てくる。ねっとりとしてとても甘い、思い出すだけで食欲が刺激されるあの味。爪にこびりついてなかなか落ちない赤色すら、今は恋しい。とっておきのシーズンにだけ食べるのは、マンゴーとライチ。マンゴーを剥く係は私と決まっていた。そうすれば種の周りについているいちばんおいしい部分を独り占めできるから。種に果肉がたくさんつくように、削いでしまわないよう気をつけて、切っていた。
 現実逃避。
 こんな風にタイの暮らしを詳細に思い出しているのは、逃避以外の何物でもない。自分でもよくわかっている。
 でもせめて頭の中でくらい、逃げたい。
 朝起きた瞬間から憂鬱で、身体が重い。土曜日が待ち遠しくて悲しいなんて、バンコクにいたころの自分からは想像もできない。ワープして学校に行けたらいいのに。そういう技術は二千何年になったら開発されるんだろう。もしかして三千年代までかかるのか。
「おはよう」
 リビングに入ると姉の方から声をかけてきた。いつもと同じ口調だが、「あの話題には触れるな」という空気が全身からピリピリと発散されている。マスクをしていないのが唯一の救いだ。ごはんと味噌汁とバナナヨーグルトの朝食をとり、姉に見送られて家を出た。
 生ぬるい霧雨が身体に絡みついてくる。
 駅へ向かう、傘とスーツと制服の流れ。人の並びも、ゴミ集積所も、日本は何もかも新品みたいだ。道も列も整いすぎて、それを自分が乱していないかはみ出していないか怒られやしないか、いつも人目が気になってしまう。
 日本はOKの基準が高すぎるのかもしれない。それが活かされる場も、もちろんあると思う。けど、時々息苦しくなる。大人になれば、日本での生活がもっと長くなれば、こんなふうには感じなくなるのだろうか。
 たとえば少々の雨なら、タイの人は傘を差さなかった。長靴を履いている人も見たことがない。むしろ裸足だった。雨脚が強まると、頭にコンビニの袋をかぶる人もいた。あの光景を思い出すとちょっと笑ってしまう。日本でそんなことをしたらきっと即SNSに投稿される。
 ここがバンコクだったら、と考えても仕方のないことを私はまた考える。
 確かに、朝が早いのは時々つらかった。お弁当をリュックに入れ、水筒を斜め掛けにして、いってきますを言うのは六時半だった。玄関を出た瞬間、もわっとした熱気に包まれる。やってきたエレベーターには、学校へ向かう子がたくさん乗っている。エレベーターがひらく度、にぎやかな声とともにさらに何人もなだれ込んでくる。G階に着いておもてへ出ると、空にはおもちゃのヘリコプターが浮かんでおり、そのさらに高い空で、ウイーヨウイーヨと南国の鳥が啼いていた。生暖かい風に乗って漂ってくるパクチーとナンプラーの香り。巨大な通学バスの向こうには、屋台がずらりと並んでいた。クイティアオ屋の若いお父さんは仕込みの傍ら幼い息子とラジコンで遊び、フルーツ屋台やイサーン料理屋台の店主たちは甘そうなドリンクをのみながら、早朝からハハハと陽気に笑い合う。後ろから詰めるんだよとか文房具は尖っていて危ないから出さないきまりだとか言い合いながら、バスに乗り込む。白い朝もやの中を、バスはゆっくりと進んでいく。毎朝必ず、トゥクトゥクの運転手さんが敷地内の仏塔で合掌しているのが見えた。
 活気と静けさの入り混じった快い記憶を追いやり、ポケットに手を入れ満員電車に身体を押し込んだ。いま、私のいる場所からは外の景色なんて見えない。黒や灰色の重たげなスーツ。活気も静けさもなく、ただみんな苛々鬱々として余裕がない。右のポケットにシャーペン、左には防犯ブザー。電車が動き出す。鎖骨のあたりが緊張でヒリヒリする。雨のせいで車内はじめじめして、誰かの傘がふくらはぎに当たって気持ち悪い。どこからか、男性同士の小競り合いの声が聴こえてくる。
 そして、いつもの駅であの男が乗り込んでくる。男は私の後ろにぴったり立った。
 シャーペンをぐっと握りしめる。手が伸びてきた瞬間、取り出して刺すと決めていた。そのときはばかばかしいくらいすぐやってきた。刺した。うっと男がうめき、手が離れる。これでやめてくれる、そう思ったのもつかの間、仕返しするように男は堂々と臀部を掴んできた。自転車通学、という言葉が閃いた。そうだ、筋トレも兼ねて自転車で通おう。どんなに時間がかかったって痴漢に遭うよりはいい。どうして今までその手を考え付かなかったのか。電車で二十分の距離って自転車でいったい何分かかるんだろう。また頭の中で逃避する。電車が時速百キロだとしたら、三十分で五十キロ、ということは……。でも、もし雨が降ったら……。胃が重い。わかっている。ほんとうに考えなくてはいけないことは、いま、この状況をどうするかということだ。でもそれを考える気力がない。私から思考する能力を奪うこの男は醜い。そういえば、米陀さんは毎朝何分くらいの電車に乗るのだろう。通学路で一度も彼女を見かけたことがないけど。もしかしたら米陀さんも私と同じ目に遭っているかもしれない。いっしょに通えることになったら、彼女も私も、お互いの家族もきっと安心だ。そこで、あれ、と思った。確か米陀さんは印丸と同じ中学じゃなかったか。だとしたら高校の近くに住んでいるはずだ。電車で通うはずがない。それとも高校入学と同時に引っ越したのだろうか。わざわざ、高校から離れたところに?
「なにすんだよ!」
 耳元で金属が擦れるような不快な声がして、思考が叩き潰された。
 反吐が出そうなほど気色悪い手が離れている。そしてその手を、学生服の男子が掴んでいる。
 息が止まるかと思った。
 あの先輩だった。骨ばった顔と、大きな一重。ひらいたドアに向かう人の流れをさらに力強く太く加速させるように、彼は痴漢をホームに引きずり出した。
「放せよ!」
「うるさい黙れ」
 低く言って先輩は痴漢の手首を掴み、ずんずん歩いていく。
 そして、ふいに足を止めて振り返り、
「漣も来て」と言った。
 聴き間違いだと思った。
「ほら早く、漣」
 けれど彼が口にしたのは、確かに私の名前だった。
 なんで、知っているのだろう。
 知っている。知らない。ふたつの相反する感情は、彼の背中を追いかけるのと同じ速さで肚の底から湧き上がっていき、私がついてきていることを確かめるように先輩が振り向いて視線が絡まり合ったその瞬間、頭のてっぺんから清流が通り抜けるように、私は彼を思い出した。
 世界が静止したみたいだった。
 目に映るものすべてを、細部に亘って永久に記憶できそうな気がする。
 こんな経験を、私は以前にもしたことがあった。
 直立不動、静止の時間。一日二回、時が止まる、タイの鉄道駅。
 駅構内のスピーカーから厳かなタイ国歌が響き渡ると、そこにいる人たちは全員、停止ボタンを押されたみたいにフリーズする。通勤通学でどれほど急いでいようと、階段を降りている途中だろうと関係ない。私はあの光景がとても好きだった。いつも胸を打たれた。勇ましさと温もりの混ざったメロディが、頭の中で鳴り響く。「チャイヨー(万歳)」の美しい和音で曲が終わるまで。
 ああ、この人は。
 鎖骨に落ちた涙を私は掌で拭った。
「会議に遅れる! 会社に電話させてくれ」
 わめき散らすスーツの男と、涙を流す高校生。駅員に冷静に話しかける先輩を、大勢の人が興味本位でじろじろ見ながら通り過ぎて行く。警官がやって来て、男をどこかへ連れて行き、私と先輩も警察署へ移動することになった。
 同じ話を何度も繰り返し、書類に記入したり学校と連絡を取り合ったりしているうちにずいぶん長い時間が過ぎた。
「シャーペンで刺すまでしたのに、そのあとじっとしていたのはどうして?」
 怖くて恥ずかしくて声なんか出せない、防犯ブザーを押す勇気もない、その悔しさをこの、自分とはまったく別の人間に、どうやったらわかってもらえるのだろう。また落胆することになったら。交番に行ったときのように、かき集めた勇気を下卑た笑いで踏み潰されたら。
 こぼれそうになる涙をこらえながらじっと考えていると、となりで先輩が言った。
「ほんとうに思っていることを言ったらいいよ」
 昏い声が鼓膜の奥を心地好くふるわせる。
 彼は私の顔を見てはいなかった。けれど、心はしっかり私に向いていることがわかった。なぜかわかったのだ。
 その言葉にどれだけ背中を押されたか、この人に伝えられる日が来るだろうか。
「諦めてたんです」
 喉の奥から声を絞り出した。言いながら、そうだ、私は諦めていたんだと思った。
「逃げられないと思って。できることなんかもうないと思って」
 警官は顎をさすりながら、わかったようなわからないような顔つきで書類に何か書き込んだ。
 やっと解放されたころには、太陽が頭の上にあって、いつの間にか雨もやんでいた。
 高校の最寄り駅で電車を降り、改札を出た。噴水の音が聴こえてくる。私はふらふらとその快い水音のする方へ歩き、ベンチに腰を下ろした。彼もとなりに座る。私たちのあいだには、鞄ふたつ分の距離があった。
「何かのむ」
 彼が道路の向こうのコンビニを指差した。無言で首を振る。ほんとうは、喉が渇いてしかたなかった。けれどひとりになるのが怖かった。もしも、彼が飲み物を買いに行っているあいだに、警察に連れて行かれたはずの男がとつぜん現れたら? 刃物を持っていたら? ちょっと想像しただけで、その場面がまるで現実のように目の前に立ち昇った。
 彼はしばらく黙っていた。そしてふいに、鞄から水筒を取り出した。
「よかったらこれ。寮の麦茶だけど」
 飲み口を上げて、差し出してくる。
 その水筒に唇をつけるとき、かつて感じたことのない種類の緊張で上顎がじんじん痺れた。
「何部に入ってるんですか?」
「何も。バイトしてる。漣は?」
 彼はとてもゆっくり喋る人だった。
 背中から、噴水の音が規則的に聴こえてくる。肩甲骨のこわばりが取れ、植え込みに咲く花がひときわ鮮やかに見えた。
 どこからか、パンの焼ける甘い匂いが漂ってくる。目の前を通りすぎるよちよち歩きの子をなんて愛らしいんだろうと思う。そこら中にいるすべての人に無性に優しくしたい。
「私は、陸上部です」
 ああ、と彼が言った。
「あのときも、とても楽しそうに走ってた」
「あのときって」
「結婚式の教会。屋上で、緑がいっぱいあるところ」
 目の前にあの日の光景が広がった。おでこを出して幸せそうに笑っていた姉。涙ぐむ母と、どこかしんみりした様子の父。みんな笑顔で、日本のお菓子がいっぱい食べられて、ちょっと淋しいけれどうれしくて、私はまぶしい新緑の中を走り回っていた。
「お母さんが言うには、私は小さい頃から広い場所に出ると走りたがる習性があったらしいんです」
「習性って。野生動物じゃないんだから」
 くくっと俯いて笑う横顔を見た瞬間、心臓が痛くなった。
 すべてではないにしろ、彼の中の何割かは私のためにあると思った。渡り廊下で彼を見て縁があると感じたときのように、なんの根拠もないけれど、そう感じた。
 同様に私の中の何割か、というよりむしろすべて以上のものを、彼に差し出せる気がした。
 でもだめだ。そんなことを思ってはいけない。これ以上、彼に近づいてはいけない。いますぐ立ち上がって、ひとりで高校へ向かわなくては。
 そう思うのに、足が地面に張りついて動かない。
「タイに長く住んでたんでしょう?」
 そう言いながら彼が立ち上がった瞬間、つられて立ってしまう。今度はたやすく足が地面から離れる。はい、とうなずき、並んで歩き出す。
 雨に濡れたアスファルトが徐々に乾いていき、太陽に照らされ、きらきらと輝いている。
 私がタイで生活していたことを知った人が、次に言う科白は決まっている。
 暑かった? 辛かった? タイ語しゃべれる?
 いちばん嫌なのは、「だからそんなに色が黒いの?」
 何を言われてもいいように、覚悟した。
 先輩が私を見おろし、口をひらいた。
「学校は電車で通ってたの?」
「いえ、スクールバスです」
「それならあんな電車、慣れなくて怖かったんじゃない?」
 心地好い風が吹き、街路樹の葉がさわさわ鳴った。
 その音がなぜか懐かしくて、胸が詰まって泣きそうになる。
「他に何か不安なことは?」
 彼の声が入ってくる耳が痛い、見つめ合う目が痛い、胸も胃も、ぜんぶ痛い。
 お、と俯きながら出した声がかすれた。
 木漏れ日が、道や水たまりや彼のローファーの上で揺れて光っている。
「大きな道路をひとりで渡るのが、いまだに怖くて」
 笑われたらどうしよう。答えた直後心配になった。でも彼は笑わなかった。ただ黙って私の言葉を受けとめた。
 信号が、青に変わります。横断歩道のアナウンスとともに急かすようなメロディが流れだす。
「いっしょに渡ればいいよ。ほら、走って」
 脚を速め、彼が大股で歩いていく。追いかけようとした、そのとき。
『おめでとう、漣!』
 姉の声が耳元で弾けた。高校の合格発表の日。花壇前の掲示板に張り出された紙に自分の受験番号を発見して、まず報告したのは姉だった。姉は電話口で泣いて喜んでくれた。
『よかった。ほんとうによくがんばったね。すごいよ、漣』
 だめだ、と今度こそ強く自分自身に言った。
 これ以上距離を縮めたら、私は姉に隠し事をしなければならなくなる。
 横断歩道の手前で足を止めた。走って渡り終えた彼が振り返る。薄茶色の髪が風になびき、私たちのあいだをバイクやバスが行き交う。隙間から見え隠れする彼と視線がぶつかった。彼ははじめ不思議そうな顔をしていた。かすかに首を傾けもした。
 百二十秒も待って、信号はやっと青になった。
 私の両隣、それから後ろにいた人たちが一斉に歩き出す。
 それでも私は動かなかった。
 渡ろうとしない私を見て、彼の表情が変わった。
『何のために?』
 連絡先を交換したいと言った私に、今にも怒り出しそうだったあのときと同じ顔。
 くるりと背を向けて、彼が歩き出す。
 次の青信号までの二分が、二時間にも三時間にも思えた。
 私は左右を何度も確認しながら、近くにいた女の人の歩む速度に合わせて向こう側へ渡った。彼はすでに、ずいぶん先を歩いている。
 視線が絡まることはもうなかった。何も言わず振り返らず、彼は歩き続けた。高校が近づくにつれ、距離はどんどん広がっていった。
 廊下の突き当たりで彼を呼び止めたときと同じように、今日の私がほんとうの感情の操り人形だったら、走って彼を追いかけただろう。
 彼がもし修一さんの弟じゃなかったら、ためらわず彼の隣を歩いただろう。

〈お読みいただきありがとうございました。
続きはぜひ、書籍でお楽しみください〉

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