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家で味わえる極上の一品を。 第1回日本おいしい小説大賞受賞作『七度笑えば、恋の味』第1章 全文公開!

こんにちは。小説丸編集部です。
第1回日本おいしい小説大賞を受賞した『七度笑えば、恋の味』(古矢永塔子 著)。

本作は、選考委員による満場一致の高評価を受けた発売後も、朝日、毎日、東京、高知、東奥日報などの新聞各社をはじめ、Oggi.jpやNHK高知など数多くのメディアで取り上げられました。読者からは「思わず料理をしたくなる」「私も誰かのお腹を温めてあげたくなった」など、大きな反響を呼んでいます。

思うように外出できない今、家で誰かのために料理をする機会も増えているのではないでしょうか。これを機に、新しいレパートリーを増やしてみるのも、良いかもしれません。

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『七度笑えば、恋の味』
古矢永塔子 著
小学館


(書店へすぐに行くことが難しい方や、
電子書籍で読まれる方は、
こちらでもご検討ください。)


思いを込めて作った一皿が、誰かを救うことがある。
料理をすることでできることに、改めて気づかされる『七度笑えば、恋の味』
このたびは、外に出られず、書店で本を買うこともままならないみなさまへ、プロローグ+第1章全文を特別にお届けします。つづきも読みたくなった方は、この騒動が落ち着いた頃に、ぜひ書店へ!

それでは、お楽しみください。

* * *

 プロローグ

 目を閉じると瞼の裏に浮かぶのは、懐かしい台所の風景だ。
 色褪せて生成り色になった古い型の冷蔵庫や、壁に貼られた空色のタイル。吊り下げ式の棚には色とりどりの食器が積み重ねられ、その下には梅干しや果物のシロップ漬け、豆や野菜のピクルスを入れた硝子瓶がずらりと並ぶ。風通しの良い窓辺では、麻紐で編んだネットに包まれた玉葱が揺れている。
 子供の頃から私の一番のお気に入りの遊び場は、台所だった。磨き込まれたステンレスの作業台の縁に手を掛け背伸びをしながら、料理をする祖母の手許を覗き込むのが大好きだった。
 熱々のフライパンの上でバターが溶ける音。香ばしく焼けたさんまの皮についた、狐色の焦げ目。ことことと揺れる鍋の蓋の隙間からこぼれる、刻んだ野菜やベーコンの旨味が滲み出たスープの香り。
 お皿の上の料理を食卓に運ぶ前に、まずは目や耳、香りや手触りでおいしさを味わう。それは、台所に立つ人間だけに許されたひそやかな贅沢だ。
 でも祖母に言わせれば、もうひとつだけ、特別なおいしさを味わうことのできる場所があるのだという。
『目でも耳でも鼻でもない。手でも口でもない、他のところ? なんだか、なぞなぞみたい』
 記憶の中の私は、ふかしたてのじゃがいもを懸命に潰しながら、首を傾げている。まだ背丈が祖母を追い越していないので、小学校の中学年あたりではないかと思う。
『食いしん坊の桐子には、ちょっと難しいかもしれないけどね』
 パン粉や小麦粉を手際よくバットに移しながら、祖母はふっくらとした頬を緩めて笑う。醤油と砂糖、ほんの少しのお味噌で炒め煮にした玉葱と挽肉を、ほくほくのじゃがいもに混ぜ込む祖母のコロッケは、家族みんなの大好物だった。
『いつか大人になって、大好きな人のためにご飯を作るようになったら、きっとわかるよ』
 私が丸めた不恰好なコロッケだねに小麦粉をはたきながら、祖母は大切な秘密を打ち明けるように囁いた。祖母がコロッケを溶き卵にくぐらせると、節くれだった指の隙間から、黄金色の液が糸のように垂れた。パン粉をまぶし終える頃には、コロッケは綺麗な俵形に生まれ変わる。子供心に、祖母の手は魔法の手だと思っていた。
 そっと瞼を持ち上げると、かろうじて留まっていた雫が目尻へと滑り、こめかみを伝って耳を濡らした。幸福な風景は、鍋からこぼれる湯気のように消え失せる。目の前には、独りきりの寝室の見慣れた天井が広がるだけだ。
 揚げたてのコロッケを頬張る私を、いつも嬉しそうに眺めていた祖母が亡くなって、もう九年になる。もし祖母が今の私を見たら、何を思うだろう。ふっくらとした顔が悲しげに陰る様子を想像すると、申し訳なさで胸が詰まる。
 だって私にはもう、愛する人のために料理を作る機会など、一生訪れないのだから。



 第一話  鮭と酒粕のミルクスープ

 仕上げにひと振りしたスパイスで、スープの味が台無しになってしまうことがある。
 今更水を足して薄める気にはなれないし、苦し紛れに他の調味料に手を伸ばしたところで、そんなときは何を足してもうまくいかない。結局は、香りが鼻につくスープを溜息まじりにスプーンですくい、口に運ぶ羽目になる。
 新しいアルバイトとして墨田君が職場にやって来てから、私はずっと、そんな思いで日々を過ごしている。
「日向さんて、顔に傷でもあるんですか?」
 一緒に働き始めて一ヶ月。墨田君の不躾な質問は今日に始まったことではないけれど、今回ばかりはさすがにうろたえた。
 それは私だけではなかったようで、昼の配膳時間を目前にした調理場の空気が、しんと静まった。慌ただしく立ち働いていたスタッフ達が動きを止め、私と墨田君に注目しているのがわかる。
「……どうして?」
 そう聞き返すのがやっとだった。平静を装いたかったのに、ラテックスの手袋をつけた指が震え、菜箸でつまんでいたうずらの玉子を取り落としてしまった。
「どうして、ってこともないですけど、日向さん、いつも顔を隠してるじゃないですか。なんか気になっちゃって」
 私の動揺などお構いなしといった様子で、墨田君は作業台に落ちた玉子をつまみ上げる。そのまま無造作に八宝菜を盛った皿に戻そうとしたので、とっさに自分の手のひらで受け止めた。流しの隅にあるダストボックスに玉子を入れ、消毒石鹸で手を洗いながら、落ち着いて、と自分に言い聞かせる。
 顔を隠しているのは私だけではない。スタッフはマスクで口許を覆い、つば付きの帽子を被ることが義務づけられている。現に今、作業台の向こうで南瓜サラダを盛り付けている墨田君も、目許以外のほぼ全てを白い布で覆っている。
 頭の中で必死に言い訳のシミュレーションをする私の退路を断つように、墨田君はなおも続ける。
「日向さんて休憩中もマスクを取らないし、いつもグラサンみたいな眼鏡を外さないし、よっぽど顔を見られたくないのかなって、みんなとも話してたんですよ」
 みんな、という言葉に、反射的に周囲を見回す。それを合図にしたかのように、スタッフ達はわざとらしいほどの機敏さで各自の作業に戻る。それでも、依然として私達のやりとりに耳を澄ませていることは明らかだった。
 マスクで隠した鼻の頭に、冷たい汗が滲む。
『通年性のアレルギー鼻炎なの』『目が紫外線に弱くて、最近は蛍光灯でも眩しくて』
 そうやって、今までも何度となく口にしてきた嘘でごまかせばいい。わかっているのに、喉に何かが引っ掛かったように言葉が出てこない。
 そんな私の背後で、パン、と手を打つ小気味の良い音が響く。
「はい、墨田君も日向さんも口じゃなく手を動かして! 配膳は時間厳守。これ、うちの鉄則ね」
 冷水に晒した水菜のようにシャキッとした口調で指示を出すのは、栄養士の麦ちゃん。三つ年下の私の従妹だ。帽子とマスクの隙間から覗く瞳が、咎めるように私達を見上げている。
「墨田君、人の詮索をしている暇があるなら、もっと自分の仕事を丁寧にね。昨日の豚肉の味噌漬け、二〇三号室の井上さんの分が一切れ多かったよ」
 すいませーん、と間延びした声で謝ると、墨田君はさして反省した様子もなく作業に戻る。すでに私に興味を失った様子で、サラダをすくったスプーンをお皿の縁に擦りつけている。斜めに被った帽子とマスクの隙間からは、黄緑色に染めたもみ上げがはみ出していた。惣菜の盛り付け方も、衛生管理も身だしなみも、相変わらず大雑把だ。
 そっと息を吐く。窮地を救ってくれたお礼を言おうと振り返ると、麦ちゃんはすでに私に背を向け、調理スタッフのリーダー・角木さんと、出来上がった昼食の最終チェックを始めていた。

 ❖❖❖

 食器の洗浄を終え、夕食の献立と各自の作業分担の確認を済ませると、一時間半の昼休憩が始まる。ロッカールームで白衣と帽子を脱ぎ、私服のモッズコートとランチトートを持って食堂の前を通ると、ドアに嵌め込まれた四角いガラスごしに、楽しげな話し声が聞こえた。
 縦横二列に配置された八人掛けのテーブル席に、まだ数人の入居者が残っていた。お揃いの湯飲み茶碗を手に、食後の談笑を楽しんでいるようだ。中庭に面した窓から射す光が、窓辺に座る女性の髪を銀色に透かしていた。
 単身者向けの1LDKのみで統一された、総戸数二十八戸の高齢者向けマンション『みぎわ荘』。日常生活に介助を必要としない、自立した高齢者のための施設。
 とはいえ、日中は数名の介護士が常駐しており、希望届を出せば病院への付き添いや買い物の代行等、様々なサービスを受けることができる。なかでも施設側が最も力を入れているのが、管理栄養士が献立を組んだ健康食を提供する、『優しい料理』のサービスだ。
 固い野菜には柔らかくなるまで火を通し、肉類や蛸、蒟蒻のように弾力のある食材には切り込みを入れ、ときには麺棒で叩いて繊維を砕く。余分な脂質は取り除き、出汁の風味を効かせる代わりに、塩分はぎりぎりまで抑える。歯応えよりも噛みやすさと飲み込みやすさ、舌の満足よりも体全体のことを重視した、高齢者向けの健康食。
 従妹の麦ちゃんの紹介で、パート職員として調理に携わるようになって、半年が過ぎようとしていた。
「お疲れ様」
 食堂の前でぼんやりとたたずんでいると、調理師の皆川さんに声をかけられた。スタッフ専用の給湯室から出て来たところらしく、右手には保温ポット、左手にはお盆を持っている。休憩室で昼食をとるスタッフのために、お茶の用意をしているのだ。
「日向さんは今日も外で食べるの?」
 はい、と小声で呟き、手にしていたキャスケット帽を被る。行ってらっしゃい、という朗らかな声に会釈を返し、エントランスの自動ドアを抜ける。スニーカーで一歩踏み出した瞬間、眼鏡とマスクの隙間からわずかに露出した肌に、真冬の冷気が突き刺さった。
 目の前の高架橋の上を、ネイビーブルーの電車が通り過ぎる。ガード下を抜け、北東に向かって真っ直ぐに進むと、町を横断するように流れる帷子川が見えてくる。その向こうには、川の流れに沿うように造られた親水公園。
 五段程の小さな石段を上って橋を渡り、川と公園を隔てるように伸びる幅広の遊歩道を歩き、野外プールの裏手にある小さなベンチに腰を下ろす。夏場はプールのフェンスの向こうから絶えず賑やかな声が聞こえていたけれど、年の瀬の今は人の気配がなく、静けさだけが漂っている。公衆トイレのすぐ近く、というのが難点ではあるけれど、日中でも日が射さないこの場所は、人前でマスクを外せない私にとっては貴重な休憩場所となっている。
 ステンレスの水筒の蓋をひねると、コーヒーの香りと共に白い湯気がこぼれる。マスクをずらし、トートバッグから出したサンドイッチを齧る。口の中でパサつくパンをコーヒーで流し込んでから、私は帽子のつばを引きおろし、肩越しにそっと後ろを盗み見る。そろそろ、彼が現れる時間だった。
 橋を渡って近付いて来る、背の高い人影。薄手のシャツにダウンジャケットを羽織り、下は麻のような素材のスラックス、裸足に下駄という軽装だ。白髪を短く刈り込んでいるせいで、剥き出しになった額や首許が、川面を渡る風に晒されて赤くなっている。それでも彼は寒さに肩を丸めることもなく、私が歩いてきた道筋をなぞるようにして、なだらかな下り坂になった遊歩道を降りて来る。
 足音が背中を通り過ぎるのを待ってから顔を上げ、小さくなってゆく後姿を見つめる。相変わらず、高齢者とは思えない姿勢の良さだ。
 この時間になるといつもこの場所を通り過ぎる彼がどこに行くのかを、私は知らない。言葉を交わしたことも一度もない。でも私は、彼の名前も、住んでいる場所も知っている。『みぎわ荘』の最上階、六〇二号室の住人。匙田譲治。七十二歳。
 パートを始めて半年もすれば、入居者の名前と部屋番号は、自然と頭に入るようになる。例えば血圧の高い五〇一号室の矢井田さんは塩分控えめ、歯が弱い二〇四号室の笹野さんは盛り付け時に惣菜を小さめにカット、といったように、調理前の打ち合わせで何度も名前が出る人達については尚更だ。ただし六〇二号室の匙田さんについては、他の入居者とは逆の理由で印象に残っている。
 匙田さんは、私達が作る料理を食べに来ない。麦ちゃんの話では、匙田さんは入居前説明会で出された料理にほんの少しだけ箸をつけ、『まずい』と言い放って八割方残し、それ以来一度も食堂に寄りつかないらしい。
 施設内で定期的に開かれる親睦会や四季折々のイベントにはいつも不参加で、かといって部屋に閉じこもるわけでもなく、大抵は昼過ぎに出掛けて行って、日付が変わった真夜中に戻って来るらしい。そんな彼は、私達スタッフから見ても、また他の入居者からしても異質な存在になっている。『みぎわ荘』の不良老人、調和を乱すはぐれ者。評判としては、きっとそんなところだろう。
 水筒の蓋を閉め、匙田さんが去って行った遊歩道を眺める。他のスタッフの手前調子を合わせてはいるものの、私は彼が嫌いではない。人からどう思われようと好きなように振る舞い、好きなものを食べ、誰にも良い顔をせずにしゃっきりと背筋を伸ばした姿は、私とは正反対だから。
 もう何度めかわからない溜息をつき、川の向こうに建つ職場を見上げる。真新しいダークブラウンの外壁と杏子色のベランダは、オーストリアの伝統的なチョコレート菓子、ザッハトルテを連想させる。
 目を凝らすと、屋上のフェンスの向こうで、物干し竿に掛けられたシーツが揺れているのが見えた。真っ白なシーツが風に煽られ、ヨットの帆のように揺れる光景は爽やかな清潔感に溢れていて、公衆トイレの傍でサンドイッチを齧っている自分との落差に、気持ちが萎れてくる。
 食堂の前で皆川さんが手にしていたお盆には、急須と茶筒、色も形も様々な湯飲み茶碗やマグカップが載せられていた。出勤初日に私が持って行った陶器のマグは、今のところ給湯室の食器棚に押し込まれたままだ。きっと一度もお茶を注がれることのないまま、ロッカールームに置いている私物と共に持ち帰ることになるだろう。その日はきっと、遠くない。
「潮時、かな……」
 マスクの下で何の気なしに呟いた言葉は、口から放した瞬間に重量感を増し、ベンチに座る私の膝に重りのようにぶら下がる。
 はじめからわかっていたことだ。今までと同じように、私はこの職場にも、そう長くはいられそうにない。
『よっぽど顔を見られたくないのかなって、みんなとも話してたんですよ』
 調理室での墨田君の言葉に、予想外に打ちのめされている自分がいた。〝みんな〟という何気ない言葉のなかに、自分が含まれていないことを、はっきりと突き付けられた気がした。
 十九歳の春、故郷の田舎町を追われるように上京し、今年で九年目。これまで、多くの職場を転々とした。眼鏡とマスクで素顔を隠し、誰にも心を開かない私は、どの職場にも溶け込むことができなかった。ビルの清掃や工場での製造作業など、勤務中に顔を隠しても差し障りのない仕事を選んではいたものの、休憩時間までマスクを外さない私は、同僚からは奇異の目で見られた。しつこく素顔を見せろと迫られ、強引にマスクを引っ張られたこともある。
 そんななか、従妹の麦ちゃんの紹介で働き始めた『みぎわ荘』は、予想外に居心地の良い場所だった。まだオープンして間が無いこともあり、それぞれがお互いの出方を探っていたためだろうか。調理場ではもちろん休憩時間でさえも、必要以上の言葉を交わすことはなかった。お互いに干渉することなく、節度ある距離感を大切にしていた。もちろん、私が素顔を隠す理由を詮索する人もいなかった。
 お昼休みも各自が好きなように過ごしていて、どちらかといえば私のように、外に出掛けて食事をする人の方が多かったように思う。休憩室は、昼食後に椅子を並べて横になる角木リーダーの仮眠室になっていた。
 全てが変わったのは一ヶ月前。新しい調理補助のアルバイトとして、墨田君が現れたことがきっかけだった。
 ソフトモヒカンの髪を黄緑色に染めた墨田君は、右の鼻の穴に銀のリングを付け、左耳にはボールペンが通りそうなほどの大きな穴が空いていて、年配の入居者だけではなく、私や麦ちゃんですらたじろぐような風貌をしていた。
 それでも見た目に反して人懐っこく、すぐにスタッフと打ち解けた。声が大きく、よく笑い、誰にでも気負うことなく話しかける。そんな墨田君のおかげで、職場の雰囲気は和気あいあいとしたものに変わっていった。だけど私は、どうしようもなく彼が苦手だった。
『日向さんて地元はどこですか? いや、なんか微妙に訛ってるんで』
『二十八歳なら九個上か。全然見えないっすね。まぁ、顔自体ほぼ見えてないけど』
 冗談を交えた質問で無遠慮に距離を詰めてくる墨田君が、煩わしくて仕方なかった。
 私が昼食を終えて施設に戻ると、墨田君の大きな声と、みんなの笑い声がエントランスの方まで聞こえてくる。いつのまにか休憩室は、スタッフの憩いの場所に変わっていた。それが本来の在り方だということは、私にだってわかっている。でも私には、どうしてもその場所に足を踏み入れることができなかった。
 そんな私の態度に、麦ちゃんが呆れていることは知っている。一度はっきりと、マスクなんか外して、もっとみんなと打ち解けたら? と言われたこともある。
 でも顔を晒すくらいなら、独りぼっちの方がましだ。この顔のせいで私が、子供の頃からどれだけ嫌な思いをしてきたか、麦ちゃんだって知っているはずだ。
 現に彼女も、職場のスタッフの前では私と親戚であることを隠し、私を苗字で呼ぶ。結局、そういうことなのだ。
 指先がかじかむような寒さに耐え兼ねて、いつもよりも早く施設に戻った。冷え切った手をさすりながら休憩室の前を通ると、ドア越しに皆川さんの声が聞こえた。
「墨田君、ちょっとストレート過ぎたんじゃない? あんな聞き方……日向さん、すごく困ってたじゃない」
「聞けって言ったのは皆川さんじゃないですか。昨日のこと、覚えてないんですか?」
 盗み聞きなんてよくないとわかっていても、自分の名前が出たこともあり、その場を動けなかった。楽しげな会話はその後も続き、「あの店は安いけど飲み放題の種類が」「掘りごたつはよかったけど個室が狭かった」という部分から察するに、どうやら昨日、仕事終わりにみんなで飲みに行ったようだ。
「でも気になるわよね。日向さん、なんであんなに顔を死守するのかしら。一緒に働いて半年になるのに、誰も素顔を見たことがないなんて不自然じゃない?」
「ああいうおとなしそうなタイプに限って、実は男を殺して逃げてる指名手配犯だったりするんだよな」
「角木さん、セクハラ」
 皆川さんにたしなめられ、角木さんは「そうかぁ?」と腑に落ちない声を出す。それに被せるようにして、墨田君が伸びやかな声で言った。
「俺は、日向さんの正体はアレだと思うんですよ。都市伝説のこういうやつ」
 ジェスチャーで何かしたらしい。皆川さんと角木リーダーが同時に噴き出す音がした。
「やだぁ、懐かしい。確か、犬が来た! て叫ぶと逃げ出すのよね?」
「いや、俺のときはポマードだったぞ」
「俺らの学校ではヨーグルトでしたけど」
 その噂なら私も知っている。マスク姿の若い女性が、学校帰りの子供にそっと近づき声をかけるという都市伝説だ。
「地域と世代によって違うのかしら。……でも、あのセリフだけは同じでしょう?」
 誘うような皆川さんの問いかけに応えて、墨田君がおどろおどろしい作り声で囁く。
「──私、綺麗……?」
 大げさな皆川さんの悲鳴と、弾けるような笑い声。震える指先は、暖房の効いた室内にいるはずなのに、ちっとも温まる気配がない。指も足も、何もかもが、凍りついたように強張って動けなかった。
 どれくらいそうしていただろう。目の前でドアが開いた。麦ちゃんだった。声が聞こえなかったので、いるとは思わなかった。
 立ち尽くす私を見て息を呑み、他のスタッフの目から私の姿を隠そうとするかのように、慌てて後ろ手にドアを閉める。
 麦ちゃんはきまりが悪そうに目を伏せ、でもすぐに、いつもの強気な表情に戻った。
「昨日、墨田君の歓迎会だったんだ」
「そうなんだ。……知らなかった」
「桐ちゃんは、誘ったって来ないじゃない。みんなの前ではマスクを外せないもんね」
 何も言い返せない私に背を向け、麦ちゃんはトイレに向かって歩いて行く。ドアの向こうで皆川さんが「お茶のお代わり淹れましょうか?」と言う声と、椅子がきしむ音がした。慌てて廊下の突き当たりにあるロッカールームに駆け込む。大して走ったわけでもないのに、息が上がっていた。
 自分用のロッカーを開け、扉の裏についた鏡に顔を映す。震える指でマスクを外すと、大嫌いな自分の顔があらわになった。
 陰口なんて慣れている。学生時代の方がもっと酷かったし、内容もえげつなかった。みんなの口ぶりにも、それほどの悪意は感じなかった。悪口というよりは、ただの軽口だ。
 わかっているはずなのに、動悸が収まらなかった。
 だけど今の私は、昔とは違う。いい大人は、セーラー服のスカートを翻して保健室に逃げ込んだり、鞄も持たずに上履きのまま家に帰ったりはしない。
 なんとか息を整え、いつものように白衣を羽織り、帽子を被った。新しいマスクで顔をおおい、予定時間よりも早く調理室に入る。冷蔵庫から、夕食のシーフードサラダに使う殻つきの海老を取り出す。頭と身の節の隙間に竹串を刺し、探り当てた背ワタが途中で千切れてしまわないように、慎重に引き出す。
 慌てず、焦らず、壊さないように。見つけ出したら、あとは思い切って一息に。機械的に作業を続けながら、頭の中には、子供の頃にひとりで遊んだジェンガのタワーが浮かんでいた。
 遅れて調理室にやって来た墨田君の声が聞こえるたびに、バランスを崩したジェンガのように、私の視界もぐらぐら揺れた。眼鏡とマスクが私の動揺を隠してくれることを願いながら、俯いて作業に没頭するふりをした。

試し読み#2 へつづきます)

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