World IA Day 2017 Tokyo 雑感(2)「見たものは見たままに実在する」

「THE BOOK OF TREES」では二千年に渡る人類の「分類」の歴史が綴られているが、通史的になにかのトピックを見ていくときに注意が必要なのは、二千年に渡って同じ言葉が同じ概念を表し続けるとは限らないし、そこに連続性があるとも限らない、という点である。

たとえば今日の私たちが「芸術」という言葉を聞いたとき、そこには必ず「著作権」や「オリジナリティ」が紐付けられているが、著作権は印刷技術の発展に伴って発生した概念で、17世紀以前の「芸術」は、むしろ職人的な発想に近かった(注1)。芸術作品は発注者の指定に沿って、複数の人の手を経て作られる商品だったといえる。

Web業界にいる私たちにとっては、これはむしろ自然な考え方に思われるかもしれない。アートディレクターと呼ばれる人たちの影には、必ずアシスタントやプログラマーがいる。ルネサンス時代の芸術家たちと、私たちはマインドが似ているのだ・・・というように、人は過度な類型化を行いやすい。

このような例は枚挙に暇がないし、例外があるわけでもない。科学哲学や科学史を紐解いてみると、そのことはたちまち明らかになってくる。

 ハーヴィの実験的方法はガリレオの方法とは異なっていたし、またそのどちらも、ベイコンの理想としたもの、あるいはまたボイルの実践した方法とも異なっている。それでは、今日の科学にあれほどの知的正当性を与えているはずの実験的方法というものが実在すると考えられているのは、いったいなぜなのか。(注2)

同じ時代であっても、カトリックが大勢を占めた大陸圏とプロテスタント中心のイギリスでは、実験によって発生した出来事に対する捉え方は異なっていた。奇跡は起きうると考えられていた大陸では1回の例外は自然の枠組みから外れるものではない(それは新しい事実とはいえない)が、プロテスタントにとっては1回の実験であっても十分に意味を持つ(プロテスタントにとっては1回の例外も、神が示した別の真理である)。

私たちにとって、もっとも自然らしく聞こえる「見たものは見たままに実在する」という素朴実在論的な態度は、少なくとも当時、カトリック信者であったかプロテスタント信者であったかで明らかに異なった。では転じて現代の私たちの「見たまま」は、彼らと比べてどうなっているだろう?

そうして私たちのまなざしを疑った哲学者のひとりがフーコーである。

続く。

注1:ブルース・コール/著 越川 倫明/ほか「ルネサンスの芸術家工房」(東京 ぺりかん社、1994年)

注2:ジョン・ヘンリー 著 , 東 慎一郎 訳「一七世紀科学革命」(岩波書店、2005年)、p.65

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