World IA Day 2017 Tokyo 雑感(1)「分類の(動的に認知されうる)分類」

毎年開催されているWorld IA DayのTokyoの今年のローカルテーマは「分類」だった。系統樹(ツリー)を蒐集した「THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス」の翻訳者である三中信宏さんを起点に、複雑な分類を求められるウェブサービスの管理、表現に携わる実務者を招き、分類の現在について考えてみようという試みである。

IAの重要な職務に「適切な分類を行う(「組織化」する)」というものがある。なにか目的の情報を探索するとき、私たちは自分が知っている言葉を手掛かりに情報を探索する。それらの言葉に関連する情報だけを抽出し、提供する手法のひとつが、分類である。

では「言葉に関連する」とは具体的にどういうことだろう。なにをもって関連する、と言えるのか。関連するものと、関連しないもの、という境界線を引く行為の根拠はなにか。たとえば、白はどこまで白いのか。

三中さんの紹介してくれる種概念をめぐる混乱、一見すると厳密な分類基準を持つ自然科学においても、未だに種を分ける絶対的な「分類」の基準はできていない、という指摘は、科学に対する私たちのイメージを覆してくれて面白い。種の概念を規定したリンネの分類は、交雑などの動的な変化に対応できないものだった。次に登場した交配可能かを基準とするマイヤーの生物学的種概念では、無性生殖が取り残される。共通の祖先を持つ単系統群を種とする分岐学的種概念では、爬虫類の派生に過ぎない鳥類は爬虫類に吸収されていく。

生物学上の大きな発見があるたびに、分類学は基準の改訂を迫られてきた。リンネの時代には単純なツリー構造だったものが、人類が遺伝子解析を得るに至ってネットワークの様相を呈し、同時に前述の「爬虫類と鳥類」のように日常的な種概念から、どんどん乖離していく。種分類を収斂させようという意図に反し、そのエントロピーは無秩序に増大し続けている。

それでも、分類の基準と対象が客観的に分かれており、明示的に(つまりルールとして)示せているうちは、まだ幸せだったかもしれない。原理的に基準が明示できないとなると事はさらに複雑である。なんの話かというと、言語機能のことだ。

三中さんの指摘するとおり、我々はその昔から分類とともに生きてきた。しかし、これは正確だが大いに誤解を生みかねない表現であるとは思う。分類だけであれば、他の多くの動物もこなすことができる(ミツバチの8の字ダンスには、初歩的な記号化が含まれている)。

人と他の動物の間に存在する決定的な違いは、音声、文字、身ぶり手ぶりを組み合わせて一見すると全く関係のない記号を生成し、概念を自由に結びつけて「見立てる」ことができる点にある。あるものをある言葉で「見立てる」とき、そこに明確で固定的な基準はない。絶対的な結びつきを保証しないことによって、様々な概念を文脈や状況に応じて動的に指し示す。そのように記号を生成し(同時に概念を生成し)、伝達できるのが、人を人たらしめている最大の特徴である。イルカやチンパンジーは記号を体験的に学習することはできるが、生成するのは非常に難しい。

描かれた表象を見分けることができる。恣意的なシンボルをある程度理解し、扱うこともできる。そして画風があるほどに描線をコントロールして描ける。そんなチンパンジーたちが、表象を描かず、いわば抽象表現主義をつらぬいているのはなぜだろう。(注1)

しかし、私たちはあまりに自然に「見立てて」いるために、本来人間によって勝手気ままに生成されたはずの記号と概念を、「見立て」ではなく「写像」だと思いがちである。分かりやすいのは虹の色だ。我々は科学的知識を持っているから、あれは本来はグラデーションであって7色に分解できるものではないと知っているが、その知識を持たない昔の人は、虹の色は7色だと信じていたかもしれない(余談だが、近世の浮世絵師、鈴木春重は虹の色を五彩と書いていた。少なくとも春重にとって虹は5色だったようである)。

人が、「見たものの形や色やパターンを分析する」視覚情報処理とあわせて「見立て」を常に行っていることを示した実験に、錯視がある。パターンとして認知処理された情報が、既存の表象(イメージ)知識にあるかを常に探索して照合し、足りない情報を補う能力を端的に理解できる例である。

上の段ではおじさんに見えるイメージが、下の段ではねずみに見える。イメージを理解する文脈によって、同じイメージでも違うものとして認識してしまうということが、人には起こりうる(注2)。

ここから考えていくと、異なる言語を異なる文脈で話す人々は、それぞれ世界を別の方法で認識しているのではないか、という疑問が頭をもたげてくる(これを「サピア=ウォーフ仮説」という)。

ようやく本題に入ることができる。World IA Dayで感じていた最大の疑問について。生物学上の種概念が「分類」の問題なのだとしたら、私たちIAや、社会学者や人文学者が対峙しているのは「言葉」という「分類の(動的に認知されうる)分類」の問題なのだ。あの場でその違いは、各々の参加者にどのように意識されていたのだろうか。(と二項対立のごとく言ってしまうと乱暴なのだが)

少し長くなったので、続きはまた次回。

注1:チンパンジーとヒトの子どもの絵を比較した京都大学の齋藤亜矢らの研究は示唆に富んでいる。齋藤亜矢「ヒトはなぜ絵を描くのか――芸術認知科学への招待(岩波科学ライブラリー、2014年)

注2:Bugelski, B. R., & Alampay, D. A., (1961). The role of frequency in developing perceptual sets. Canadian Journal of Psychology, 15, 205-211.

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