Tastemadeとマクルーハン

Tastemadeというフードレシピの動画ネットワークがある。FacebookやInstagram、YouTubeに、料理レシピを1分程度にまとめたスタイリッシュな動画を展開し、世界中にファンがいる。

http://digiday.jp/publishers/tastemade-instagram-video/

短めの料理番組と聞いて日本人が思い出すのは、キューピー3分クッキングである。10分の番組にすべてを収めるために「できあがったものがこちらです」を生み出した、よくよく考えれば奇天烈な番組である。作りかけでドナドナされる料理はそのあとどうなるのか。そのあとスタッフは本当に美味しくいただくのか。あのOPはなんなのか。疑問は尽きない。

あるいは料理番組といえば、同じ日本テレビ系列のMOCO'Sキッチンをあげる人も多いかもしれない。速水もこみちなる俳優さん(もこみち、の響きが片栗粉をまぶして焼いたイベリコ豚っぽくて好きである。恐らく最初の「も」と最後の「ち」をつなげて「もちもち」と認知している。)が、その類まれなるオリーブオイル愛を発揮しながら、謎のモーション付き料理を展開し、最後は熱いエモーション(自画自賛)で終わる。ネット上では追いオリーブオイル(無駄にオリーブオイルを足す)やら、塩ファサー(無駄に高い位置から塩をかける)やら、もこみち氏の特徴的な行動にチェックリストが作られていて、毎回採点が行われている。これも嫌いではない。

少しおとなしいところでいくと(MOCO'Sキッチンに比べれば何もかもがおとなしいのではあるが)NHKの「今日の料理ビギナーズ」も好きである。ハツ江なるおばあちゃんが、いわゆる「知恵袋」的に、料理の小ネタを披露していくのだ。こういう昭和のおばあちゃん的ノスタルジーに僕は弱い。親しくしていた母方の祖父母は六本木在住で、田舎なるものは東京の中心にあったにもかかわらず、ハツ江おばあちゃんの声を聞くたび郷愁の念にかられるのである。

脱線が過ぎた。

これらの有名な料理番組とTastemadeには、ひとつ注目しておきたい差異がある。前者にはキャラクターが登場するが、後者には登場しない。これを業界関係者であれば、こんなふうに指摘する。分散型メディアにあわせたコンテンツ制作を進め、Facebookへの最適化を目指した結果、行きついたスタイルなのだと。

“What’s the secret to success, besides extreme desserts? According to Mr. Kydd, Tastemade edits videos specifically with Facebook’s unique qualities in mind. For example, since Facebook videos autoplay without sound, Tastemade uses graphics to identify and walk people through recipes. They also shoot food at specific angles, taking into consideration how clips will look on mobile devices, where the majority of Facebook users peruse their news feeds. And they try and grab people’s attention early, knowing that Facebook videos play automatically.”

Mike Shields. (Nov. 23, 2015). “Food Videos Rule on Facebook” from http://www.wsj.com/articles/food-videos-rule-on-facebook-1448276400


メディアは今も昔も、消費者の欲望を体現する。Tastemadeが体現した欲望は、より簡単に料理ができるようになること、なのだろうか?

もちろんそうではない。「分散型メディアを体現するレシピコンテンツの最前線」といった文脈だけでTastemadeを描写するのは不十分だ。Tastemadeにキャラクターが登場しないのは、「自分でもできそうに見える」からというよりもむしろ、多くの消費者が普段食べた(あるいは作った)料理の写真を、このように撮影するからである。

かつての雑誌が満たしていた「未来にありたい私」という自己承認欲求は実際の購買行動によって満たされていた。その服いいね!と言われるためには、実際に服を買わなければならない。だが、インターネットは意思を表明するだけで、同じ欲求をインスタントに満たしてしまう。単にURLをシェアすればいいし、URLは無限にシェアできる。かくして雑誌は低迷した。

そんな多くの趣味や嗜好がシェアできる中で、シェアできなかったものに目を向けたサービスが成功しているのが2010年代のWebサービスの”今”だ。端的に言うとInstagramの登場である。

2000年代後半以降、一眼レフにビデオモードが搭載されたことで、あるいはPhotoshopの普及により、ピンぼけが効いていたり、エフェクトが施された「詩的な動画や写真」のクオリティは劇的に向上した。それと同時に多くの人の手に、写真を撮影して共有する端末が普及したことによって、撮影される写真の枚数もまた、劇的に増大した。プロのクオリティと、携帯端末のあまりにお粗末なクオリティのギャップを埋める試みが進められた結果、今やユーザーレベルですら、撮影された写真はありのままではなく、事後操作を行うのが前提のものとなっている(この問題についてはまた別の機会に触れたい)。様々な画像加工アプリの登場と敗退の果てに2012年に登場したInstagramは、写真を通じて”私”という物語を操作してみせた。21世紀の私たちは服を身にまとう代わりに、写真を身にまとう。

写真で装う時代に登場したTastemadeは「こんな料理の写真を撮れる私」という欲望を体現してみせる。そのためには音声や料理研究家は不要だし、長時間である必要もない。TastemadeはFacebookに最適化したのではなく、Facebookのユーザーに最適化したのだ。「分散型メディア」の矛先は、サービスではなくユーザーに向いている。

最近、ちょっとした炎上が原因で、マクルーハンの「ホットなメディアとクールなメディア」を思い出した関係者はそこそこいると思う。ポストマクルーハンが群雄割拠して何巡もした時代に、なぜ事あるごとにマクルーハンが亡霊のように業界人に引用されるのかといえば、恐らくマクルーハンはクリエーター気質の実務家に対して、まるで占いのように、ある種のバーナム効果を発揮するからだ(右脳と左脳や、血液型をめぐる言説を思い起こしていただくと分かりやすい)。今日のネットメディアを予見しているかのような論建てが、それを助長している。

Tastemadeをめぐる分析においても、それがホットかクールかをそれらしく論じることは恐らくできる。ただ、毎回この手の論議を見るたびに残念に思うのは、メディア論、中でもトロント学派の目指した指向性と、多くの実務家の指向性はまったく逆を向いているのに、実務家がそれに無自覚なために、その暴力性が遺憾なく発揮されているようにみえることだ。メディア論の問題意識は、言ってみればメディアの麻薬的な快楽から脱し、自ら創造しその歓びを感じ人間性を取り戻すところにあるのだが、我々実務家は自分たちもそれを助けているのだと真剣に思いながら、実際には麻薬を売りつけている。

マクルーハンのメディア論にはある種の二重性がある。表裏のあるコインのようなものを想像していただきたい。表がメディア固有の形態的特性で、裏が受容者側の振る舞いによって決まる変動的な特性だ。マクルーハン自身にその混同がみられるがために大いに分かりにくいのだけれども。マクルーハンがその着想の源泉とした経済学者のハロルド・イニスの主張は、西洋の書字文化がもたらした感覚の偏り、バイアスを是正し、感覚のバランスを回復することにあった。マクルーハンの提案したメディア論の視座は、それまでコンテンツの受容にのみ着目していたメディア研究に対し、様々なものがメディアになる可能性と、それを受容する人間の人間性を含めたことにある。

だが、多くの実務家が指摘してしまうのは表の部分だ。曰く「Facebookで消費されやすいフォーマットだったから」というそれである。しかし裏の部分も見なければ、本質は見失う。ユーザーにとっての「クール」つまり参与性を高めるということが現代の情報環境で何を意味するのか。日々変容する「クール」の条件に、我々は着目していく必要がある。

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