「思い出」を織りなすテクノコード:「体験を記録にする情報メディアについて考える夜」

World IA Dayの雑感は少し脇に置いておいて(楽しみにしてくださっている方には申し訳ない)、昨日参加したイベントの感想を書いておきたい。

2017年3月2日(木)から3月4日(土)まで「Interaction 2017」が開催されている。この手の研究発表や学会に参加して充足感を得られるかどうかは一種の掛けになることが多い。先端の研究や発想に触れられるのは刺激になるが、入力過多になってしまったり、あるいはデザインや仕上げの粗さといった本筋と関係のない部分が気になってしまって、振り回されてしまうこともある。抱えている仕事の質に影響してくるから、そういう場に参加するかどうかは、慎重に判断することにしている。

そんなわけで、今年は行かないことに決めていたのだが、しかし年に一度のお祭りに参加しないのも、それはそれで寂しい。どうしたものかと思っていたところに、自社で運営しているレンタルスペースで「Interaction 2017」に参加された研究者の方々が、関西大学の白水さんと、田中さんの主催でイベントをするという。日常の記憶、あるいは記録、思い出といったものについて、あるいはそれを記録することについて考えると知り、そういうイベントは良い意味で気が抜けていて面白いことが多いから、混ぜてもらおうと思ってお声がけさせていただいたのだった。

私たちが記録できる情報の量と種類は飛躍的に増えている。記録できる情報が増えていくと、記録できていない情報に対比的に目が向く。あの時書き留めておきたかったこと。残しておきたかった思い出。失われたものを惜しみ、あるいはより良い営みができることを目指す意思が働く。情報が固定化されることによって、他者の、あるいは未来の自分の眼差しが、記録された「思い出」に対して向けられることになる。

写真の発明以来、その依代はテキストからテクノコードへと移り変わってきた。端的にメディア論の観点から言うならば、それは分節化の歴史である。たとえば音楽は、本来は分節化できない連続的なメロディを音符に分節化することによって伝達を低コストで可能にし、継承・発展させるのと同時に「楽譜の解釈」(つまり、私ならこう演奏するという作曲家と演奏家の解釈のような)差異を生み出してきた。これは音声文化の時代には、なし得なかったことである。

あるいは本が登場した当初、「黙読」は特殊な技術だった。それが普通になったのは、10世紀ごろに入ってのことである。これには、古代の文字表記にはまだまだ不備が多かったこともあるし、小文字はおろか、単語を区切るスペース(分かち書き)も発明されていなかった。黙読によって読書は「個人化」していき、そして差異が生まれた。(注1および注2)

情報化とは突き詰めれば記号化(あるいは符号化)で、私たちは0と1ですべてを記録しようとする情報の極致にいる。テクストがテクストを生み出し、連鎖的に分岐と衝突を繰り返していく時代に、私たちは生きている。かつて文字や、あるいは活版印刷の発明によって起きたような技術的なブレイクスルーが人間の営みの質すら変えてしまうことを「転回」というが(なので、この言葉を使った著者の意気込みは相当なものだし、それなりの勇気がいる)、「情報学的転回」が現在進行系で起きている状況に、私たちは生きている。

2000年以上私たちを支配してきたのが「言葉の時代」だったのだとすれば、今の私たちが生きている今、この時代はフルッサー(注3)の言葉を借りれば「テクノコードの時代」である。文字が事象を抽象化(記号化)してきた営みだとして、カメラやコンピュータによって生成される画像は、単に「観たまま」の記録だろうか。「そうではない」ことは多くの先人が指摘してきた。

マグナム・フォトの現像家Pablo Inirioによる現像指定の書き込みとbefor/After(注4)

意図して表象化された写真は決して「観たまま」のものではない。

彼(フルッサー)によれば写真は「世界についての像をもとうとする写真家の試みではなく、写真家が画像についてもった概念についての像をもとうとする試み」であり、「アルファベット前の画像が世界に意味を与えるものだったのに対して、テクノ画像は、世界に意味を与える画像に意味を与えるテクストに意味を与えるもの」なのだ。(注3 カッコ内は補足)

普段「あるものをあるがままに」観たものを受け止めて生きていると思っている私たちが意識することはまれだが、現像指定のような制作過程をみるとハッと気付かされるように、現代のテキストや写真は、実は複雑な記号操作の果てに、私たちの前に現出している。さらに、そのような複雑な語りは「読者によって」解釈される。固定化された「イメージ」の解釈は、それを「読む」読者のコンテキストが変われば変わるものだ。そうした状況が、現在の記号/あるいは情報をめぐる分析を複雑にする。

今回のイベントの主題は「思い出工学」という言葉に集約されると思うが、「思い出」もまた、常に記号も意味も編み直され続ける「可変の存在」である。「あるがままの事象」の記録なのか、「再表象化」なのか、「解釈」なのか。着目するポイントによって実装は変化するし、物量と気楽さが、意味を変えてしまうこともある(その好例は、たとえばSnapchatだろう。「記念」に撮っておくものだった「写真」が、今や「5秒で消えていく」)。

記憶はそのようなイメージと交錯しながら、常に(意識していようと無意識にであろうと)構築され、変わり続ける。私たちは何かを記憶するときに、上手にストーリーを作っているし、場合によっては登場していたはずの人物がいなかったことにされたり、その逆が起きてしまったりもする。

だから、「思い出を記録する」ことを語るときには、2つのレイヤー(とここではあえて単純化するが)を意識しなければならない。ひとつはメディアの性質によるもの。もうひとつは連続的な時間の変化に沿って、人が意識的な/無意識な「物語」をし続けているという行為そのものだ。写真の取扱を変えた主体は、言うまでもなく人である。

メディアの可能性は、実装によっていかようにも変化するし、その実装を受けて人の営みも変化する。実務家か研究者かを問わず、実装を投げ込み続けることは、こんなにも面白い。そう感じられる、良いイベントだった。また機会があれば、参加させていただきたいし、主催したいとも思う。貴重な機会をいただき、ありがとうございました。

注1:アルベルト マングェル 著、原田 範行 訳 「読書の歴史―あるいは読者の歴史」(柏書房、1999年)
注2:伊藤明生「新約聖書よもやま裏話 第3回 黙読はなかった 古代読書の習慣」http://www.wlpm.or.jp/inokoto/wordpress/2016/04/26/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%88%E3%82%82%E3%82%84%E3%81%BE%E8%A3%8F%E8%A9%B1-%E7%AC%AC3%E5%9B%9E-%E9%BB%99%E8%AA%AD%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8F%A4%E4%BB%A3/(2017年3月5日参照)
注3:ヴィレム フルッサー 著、村上 淳一 訳「テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説 単」行本 – (東京大学出版会, 1997)
注4:画像はGizmodo, ” See How Three Famous Photographs Were Edited Before Photoshop Existed”, http://gizmodo.com/see-how-three-famous-photographs-were-edited-before-pho-1295302631 から。元の記事は、Magnum and the Dying Art of Darkroom Printing, https://theliteratelens.com/2012/02/17/magnum-and-the-dying-art-of-darkroom-printing/ (2017年3月5日参照)
注5:室井 尚「プリンティング・ザ・ワールド」http://hmuroi1.wixsite.com/hmuroi/printing (2017年3月5日参照)

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