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吾妻線にて

 車が猪とぶつかり大破した。

野生動物との接触事故後だけに、何もない駅に熊が潜んでいないか、突如として現れないか気が気ではなかった。

「豚は猪が飼いならされたものなんだって」

 スマホで検索をしながら子どもが言った。大きな驚きを覚えた。

私は上州麦豚が大好物にも関わらず、豚について深く考えたことがなかった。むしろ、生殺与奪によって自身の食を満たしていることを考えないようにしていた。

ある意味この交通事故から私は豚が人間の飼いならした動物であり、自然界からの恵みなのであるという知識と殺傷道具を何も持たない非力な私にとっては身体能力においては全く歯が立たない恐ろしい存在であるということを学んだ。

 妻がとっぷりと暮れた闇夜に愛犬のチワワのみかんを歩かせていた。

みかんがちょこちょこ歩く姿を眺めるだけで自然を忘れてしまったこのブランド犬も太古は野山を駆け巡る野犬であったのだろうと思った。すると、自然界にとっての正しい基準とはなんなのだろうと考えさせられた。

 同時にもう自然界から切り離され車という道具での移動に飼いならされてしまった私は猪と衝突し怯えるのは後にも先にもこれで最後にしたいと思った。

 やにわにカイコガ蛍光灯から落ちた。しゃがみ覗くと案の定死んでいた。

その一連の死は、映像でしかない野生動物との遭遇を思い出させた。

事故以前の私はまさか自分が野生動物である猪にぶつかるとはゆめゆめ想像していなかった。だから、事故時、私は地元の人の指摘によって衝突したのが猪であることを認識するまで猫をひいたと勘違いしていた。

地元の人にとっては良くあることなのだろう。落ち着いた声調で言った。

「あれはよけられませんよ。まさか猪が出てくるなんて考えていなかったでしょ。ほら、崖の下の畑であんなに大きなのが死んでいる」

 私は興奮を覚え急いで崖の下を見た。

すると、私の眼は猪の眼とかち合った。なんと、猪は生きていたのだ。猪の眼は私に問いかけた。

どうしてあなたの車はそこにあったの? どうしてこの場所で僕らを苦しめるの? 私を全力で否定する眼。その眼は恐ろしいほど私の心を深くえぐり藪の中へ消えていった。

 事故処理で暗闇が包み込み始めた頃、警察官は私が怯えているのがわかったのだろうか。経験談を話し始めた。

「私は熊と車で衝突したことがあります」

半信半疑の様子の私に警察官はより詳らかに教えてくれた。

「ある日、事故を起こしました。何にぶつかったのだろう、と思い恐る恐る確認しました。すると、子熊が目の前に横たわっていました。子熊だと、安心し車を降りようとしました。すると親熊が傍にいました。私は慌てて逃げ出すことなく目を合わせながらゆっくりその場を後にしました。今思うと親熊に殺されてしまうかもしれないあの状況で、あれだけ冷静な行動ができた自分が信じられません。心配しないでください。私がいます。大丈夫です」

 私はこの事故を体験する以前であれば、他人事として捉えたのだろう。だが、今はその事故が本当でありその緊迫した場面を乗り越えたこの警察官を信じることができた。

レッカー車が到着するまで私たちを見届けてくれた警察官は別れしなに言った。

「これに懲りずにまた来てください」

 警察官の眼。その眼は市民の安全と地元を思う強い思いで溢れる眼だった。

 乗り込んだ電車で着座すると椅子の下から温風が出ていた。人間が支配する世界に戻ったのだと妙な安らぎを覚えた。

 妻は言った。

「この吾妻線赤字で廃線になる可能性があるんだって。でも、みかんが乗れるし、ありがたいね」

 赤ん坊を覗きこむようにバギーの中にいる愛犬のみかんを見ながら、私もこの温室育ちの退化した生物と同じなのだろうと思った。

実際、電車に暖房が入っていなかった場合の対応策は知らず、ましてこうじることはできない。隣でスマホを片時も離さず、全てをインターネットで解決しようとする子どもであれば電源が切れたら何を根拠に生きるのだろうと思う。要するに人間は生きるという観点から言えば進化ではなく退化している。

 ただ、人間は動力によって力を誇示し自然界を秩序立てることに成功した。だが、赤字という身勝手な観点からその場所を修繕せず立ち去ろうとしている。私はその点だけは忘れてはなるまいと思いみかんをなぜた。

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