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アイデアを「スケッチ」すること

「みなさん、普段アイデアは何に書きとめていますか?」

私は、A5ノートとA7のメモ帳にそれぞれ「ツラツラ描く用&打合せ用」「とりあえず思いつきメモ用」で分けています。また、iPhoneのメモ機能で文章として絵文字混じりでアイデアを書き残していたりします。そんな、自分だけのノートに普段はアイデアを描きためて、たまに見て、描き足して、ぬか床のように熟成させていますが

なかなか、そうはいかないのが「お仕事の話」
ワークショップ形式で、プロジェクト参加者にアイデアを発想してもらう時もあれば、スケッチを描いて提案することもあります。その場その場でアウトプットしなければ(させないと)ならなかったりと、ここでのアイデアは生ものです。

生ものなので取り扱いにも注意が必要です。
アイデアの視覚化(スケッチ)は、バの化学反応の触媒にもなるし、イメージを早い段階で固めてしまう固形材にもなってしまいます。

つまり、視覚化についての過剰反応を十分理解して描かなければなりません。
グラフィックレコーディングをやったり、ワークショップ内での視覚化をする(させる)ようになり、特にこんなことを思うようになりました。

「このアイデアスケッチって、コミュニケーションしてるの…?」

大学時代からアイデアを絵で残すということをしていました。(デザイン系の大学なら日常のことだと思います。)ただ、その頃は授業課題に対して自分の考える解決案を”訴える”ための絵でした。一斉に壁に貼られたスケッチたちは、先生の講評内でボツになるとビリっと剥がされて、はい、さようなら…。「じゃあ、ボツ案で減った分のアイデアは、追加で描いてきてね。」でした。ここで生き残るために必死で「もっと目を引こう!」とか「突飛なアイデアで意表を突こう」などと考えるようになっていました。切るか切られるか、先生との一騎打ちの様相です。

0か100の評価しかない、「俺のアイデア」スケッチ
・この場合は、描く目的が上の立場の人からの「良い・悪い」の二つの評価を得ることになっている。
・アイデアを生き残こらせるために、過剰なオリジナリティやクオリティを求めるようになる。

この辺りの、意識の変化はこちらでも書いていました。

「本当に量から質は生まれるのか?」

"勝手に"量から質に変化するのか?のほうが正確ですね。
大学時代の話は、大量にアイデアを出し切った後の空虚な状態で、強制的に発想すると新しいアイデアが生まれる…かもね?という話だったのだと理解しています。

これは、アイデアをその都度アウトプットすることで、それを見て自分自身への問いかけや内省が生まれる自己対話のプロセスだった…のだと解釈しました。

これはこれで大事なプロセスなのですが、なかなか自分の中からでは新しい気づきは生まれづらいです。他者とのコミュニケーション、特に対話から気づきを得ることが多いように思っています。他者と対話をするためには、考えた(思った)ことを、一度自分の外に出さないと成り立ちません。一人の「思いつき」だったものから「アイデア」としてカタチづくるプロセスは対話の中にあると思っています。これは「俺のアイデア」スケッチのような一騎打ちの斬り合う関係では生まれませんよね。

「一人の思いつきから、みんなでカタチにするために表現する!」

これは、私がグラレコやワークショップで大事にしたい気持ちです。
話の流れで埋もれてしまう発言や、実は大事な気づきだったような部分を逃さないように気をつけています。そこからドンドン発想していってほしいので、冒頭で述べたようにこの部分を早い段階で可視化してイメージを固めてしまうことは注意しています。参加者にアイデアスケッチを描いてもらうような時には、逆に描いたスケッチから気づきをたくさん出すようにしています。

だれも他者の人の頭の中を覗き見ることはできません。なので、やはり見える形にして外に出すことがコミュニケーションで大切だと思います。

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