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僕の人生の話をしようと思う

初めまして。久保正太郎です。
この文章は僕に興味を持ってくれている人に読んでほしい。
これまでの人生の出来事に触れるこの文章はきっと、僕について知ってもらういいきっかけになるだろうし、ここから読み取れることは僕についてのマニュアルのような役割を果たすことだろう。
少し長くなってしまうけど、ぜひお付き合い願いたい。そしてこれを読んでなお、こんな未完成な僕に寄り添い、共に歩んでくれることを願いたい。


【生い立ちの話】

【幼少期と名前の話】
 1995年10月18日に僕は生まれた。後に弟が生まれ、僕は2人兄弟の長男になる。小さい頃は仮面ライダーになりたかったらしい。その次は名探偵コナンくんになりたかった。それ以外にもたくさん映画も見て、自分の身を削ってでも誰かのために戦ってる人たちの姿を、画面越しにたくさん見てきた。僕はずっと正義のヒーローが好きだった。
 両親は僕の名前に「正」の字を与えた。父は僕が小さい頃から僕に「正義」でいることを説いた。名前なんて親のエゴだ。正しく生きろなんて、そんなの理不尽な押し付けだ。それでも正義は自分の中で今でもキーワードになってるとは思う。この言葉がどのようにネガティブな意味で、そしてポジティブな意味で今の僕に影響しているのか、この後の話で登場する。

【祖父母の話】
 僕の祖父母はとっても忙しい人だった。祖父母とは年に数回しか会わない。そんなわけで、僕にとっての祖父母は「おじいちゃん」「おばあちゃん」ってより「他人」って感覚が強かった。僕にとっては祖父母が甘える対象だったことってないし、他の人たちが楽しそうに話すおじいちゃんとかおばあちゃんって存在が、たまに羨ましくなったりする。
【父の話】
 そんな忙しい祖父母を両親にもった僕の父は愛情を十分に受けずに育ったらしい。確かに祖母なんかすごく厳しい人だった。4人兄妹の長男だった父への風当たりは強かっただろうな。確かにその点では同情するかも。彼は自分が愛情を得られなかった分、彼は自分の家族に彼なりの一方的な愛情を押し付けるように生きている。
 父は中学教師だったし、家でも先生だった。常に自分が正しく、常に自分が一番で、自分に都合のいいようにして、議論の余地はほぼ存在しない。そのくせ言い争いはすごく強くて、矛盾を指摘しようとするとこっちの弱みに話をすり替えてきてマウント取られて、最後は泣かされてばっかり。結局主張するのが馬鹿らしくなって、僕は不満を口にできなくなってしまった(この話は説明も難しいし、わかってもらうのも難しい)。
 父はコンサバ体質で、新しいところに行くよりも、気に入った旅行先に何度も訪れるタイプ。バブルっぽい考えも残っててお金使うのがかっこいいと思ってて、無駄にお金使ってカッコつけようとする。そんな彼は、自分の知ってる・得意なことに対しては前向きだったり唐突に背中押してきたり(勉強、サッカー、ギター、映画、沖縄など)、自分の知らない・不得意な・気に入らないことに関しては露骨に反対してきて辞めさせようとする(海外旅行、新しい挑戦、など)。僕の人生は、重要な決断の時に彼のネガティブ攻撃によって曲げられ、いつだって邪魔されてきた。彼が背中を押してくれたことはほとんどない。
 父は病気して、薬を飲みながら自宅療養になった期間が数年あった。学校から帰っても家で先生が待ってるみたいな状態で、とっても窮屈だった。部活以外の時間はあまり遊びにも行かせてもらえないで、命令されるままに予習と復習。嫌々だったし、やる気もなくて、生産性なんてなかったね。それでも僕を家に閉じ込めて、一緒にテーブルを囲んでご飯を食べて、ってことが彼の目指した愛情の形みたい。押し付けだし、一方的な自己満だし、そこに僕からの愛はないのにね。すごくトップダウンな父の考えに僕は否定されて育ってきたし、正直な話、尊敬なんてしたことない。店員さんにタメ口だし、平気で狡いことするし、器が小さいし。常に偉そうで、中身がない彼は裸の王様って感じ。それでも幸せそうに生きてる彼は、僕の人生で最大の憎しみの対象だ。僕からの愛も、父親としての本質も見えていない彼の人生がたまにすごく可哀想に感じる時がある。
 僕にとっての父は教師のくせに「圧倒的な不正義」だった。俺の人生に「正」の字を強要した、一番身近な男の背中はヒーローなんかじゃなかったんだ。家庭でも教師をするのは、子供にとっては全く正解じゃない。僕は今でも父が大嫌いだし、父が嫌いって言ってしまう自分も嫌いだし、父を反面教師にして自分が親になることや親って存在の在り方とかものすごく真剣に考えるし、自分が正義であることの意味を考える。
【母の話】
 そんな僕にとって一番の味方って言える存在が母親だった。母も愛情に関してはかなり苦労して生きてきたことだろう。母も3人姉弟の長女だ。
 母方の祖父母は僕が物心ついた頃には亡くなってた。祖父は祖母を捨てて家を出て、早くに亡くなった。残された祖母が3人姉弟を1人で育てた。裕福な家庭ではなかったし、子育てには大変な苦労をしたことだろう。ただ、祖母はかなり賢かったようで、母の人生を豊かにする知恵や知識を小さい頃から養ってくれていたようだった。その祖母の影響で、母は広い視野を持ち、新しいものに敏感で、したたかで賢い。
 そんな母には人生の要所で助けられてきた。最も助けられたのは僕を留学に出してくれた時だった。金銭面で反対する父をうまく説得することができたのは母の機転と根回しによるものだった。留学に行かせてもらったことを僕の人生でのプラスに変換することで恩返しをしなければならないと思う。そしてそれまでも、それからも、今だって困ったり迷ったりした時にまず助言を仰ぐのは母だ。昔はおせっかいぐらいのがうっとおしいと感じた時もあるけれど、今思い返せば僕を想うが故だっただろう。ありがたい限りだと思う。
 母親は父親より頭がいい。生き方とか、知恵とか、有益なものはなんだって母親から習ってきた。だけど、家の中では父親が王様だから、抑圧されて苦しみながら生きてる。僕たちは苦しみながらも、支え合いながら生きてる。
 母親にはいつかちゃんと恩返ししたいと思うし、とりあえず今できる最大の恩返しは、僕が幸せで生きられる道をちゃんと選ぶことだと思う。それと同時に、なかなか素直になれるものではないけれど、定期的にちゃんと感謝だけは伝えておかないとなって思う。考えたくはないけど、いつか会えなくなるその前にね。
【家の話】
 後述するが、僕の実家は「ゴミ屋敷」だった。主な原因は母親が片付けられない人だからである。立地だけは立派だった旧実家には、遊びに来たいって言ってくれる友達もいたのだが、人を呼ぶことはできなかった。これは僕の友人関係にも少なからず影響していたものと考える。父親との関係といい、僕にとってのネガティブな要因が家の中に集中していた。

【小中高の話とライフイベント】

【小・中学生時代の話】
 僕は長男だったから、親からの期待も大きくて、しかも親が教師だったから学校生活にめちゃくちゃ口出されてたと思う。「予習復習はやりなさい。チャレンジもやりなさい。委員長をやりなさい。生徒会にも立候補しなさい。」とかね。中学の生徒会とか、選挙で落ちたけど、今思うと当選しなくてよかったな。自分に動機がないのにやるのは辛いだけだったはず。
 サッカーチームに入った。最初の理由は「周りの子がやってたから」。でも僕は下手だったし体育会系のノリは後にも先にもずっと苦手で、嫌になっちゃって。典型的な都会っ子って感じで汚れることとか、虫とか嫌いだったし、怪我とか痛いのも嫌なので、スポーツは向いてはなかったと思う。辞めたいって言っても認めてもらえず、嫌々ながらも親に言われるがままになんとか続けてた。中学に上がる頃には自分なりにサッカーと楽しんで関わることができるようになってきて、部活に入ってサッカーやってた。
 そんなこんなで、サッカーと部活以外の時間はほとんど家で勉強をやらされてた。門限も厳しめで、事前に申請しておかないとなかなか遊びには出してもらえなかったし、友達付き合いはうまくいかなかった。

【高校生時代の話】
 2011年に高校に入学した。高校生になっても、人付き合いは上手くいかないまま。なぜかこの頃は広く浅くの人間関係がいいって思ってた時期で、上手くいかなさを後押ししてた。(何かトラブルがあった時でも誰とでも話せて解決できるやつを目指そうとしてた気がする…今思うとクソみたいなエゴだね。笑)
 そんな中、自分の人生が初めて大きく変わることになったのが、「高校2年の文化祭」だ。
【初めての文化祭の話】
 高校2年生の時、文化祭実行委員になった。なんでだったかは正直、忘れた。何かの委員にはならなきゃいけなかったから選んだのかな。うちの文化祭はちょっと特殊で、当時実際に文化祭を運営していたのは、「生徒会&副委員長」だった。委員長は名ばかりだったし、平の実行委員は夏休みに登校して少し準備するぐらいで、大した仕事量じゃなかった。だけど、僕はこの文化祭で人生が動く経験をする。
 きっかけは「下心」だった(笑)。
 副委員長と生徒会役員の、当時気になってた2人の女の子が夏休みに遅くまで忙しそうに作業してた。「なんか手伝うことある?」って声かけたことから、その運営メンバーの中に混ざって、夜まで高校に残って文化祭を本気で作っていくことになる。
 楽しかった。本当に楽しかった。少数精鋭の仲間と創り上げることの楽しさを知った。自分の力が何かで役立てて、認めてもらえる。初めて自分の居場所ができたように感じた。今でも、そしてこれからも付き合っていく大切な仲間を得た。あの瞬間が僕にとっての青春だった。これが僕の人生にとっての原点だった。
【2度目の文化祭の話】
 そして高校3年の文化祭へ。僕は実行委員になって、下を育てる手伝いをすることにした。また、クラスの出し物の運営にも手を挙げ、両立しようとした。そして極めつけは、人生で初めてのバンドを結成して、歌うことにした。本気で自己表現しようともがいていた。(受験は完全に後回しにしてた。笑)

 上手くいかなくなったのはクラスの運営だった。色々抱えすぎたせいで思うように進まなかったからだろう、クラスから不満が出て、僕は運営の最前線から追い出される形になった。棘を感じたし、嫌だったけど、今思えば当たり前だし、抱えすぎて頼れてなくてパンクしかけてた僕が悪い。これは当時は自分のリーダーシップの挫折だと思ってたけど、今ではこの失敗体験の気づきから反省点が見えて、今は仲間を信じて頼れるようにちゃんとアップデートへ向かってる。
 実行委員としては大成功し、大好きな後輩と一緒に文化祭を作れた。その後輩も僕たちの思いを継いで次の文化祭を作ってくれたから、すごく価値ある時期だったと思う。そして、バンドもなんとか成功した。あの時期に協力してくれて一緒に自己表現をしてくれた友人のおかげで僕は小ステージでの3曲と、後夜祭で1曲を大勢の前で歌う体験をした。特別上手くないけど全力だった。頭が真っ白になるぐらい緊張して、身体が燃えるほど熱狂した。今思い返しても、後夜祭のステージから見た光景はシビれる。笑

【Aqua Timezの話】
 バンドって何歌ったの!?って人向けに、僕がこれまでの人生で一番好きな、そしてこれからの人生も変えてしまったバンドの話をしよう。
 出会いは小学生の時、映画館で見た「ブレイブストーリー」。ひ弱な人間らしい主人公が周りに助けられ導かれながら戦うストーリーで、映画自体も大好きだった。主題歌がAqua Timez。気取らない、カッコつけない、下手くそな夢を描けよって、辛い時に辛いって言っていいんだよって、ストレートなメッセージで僕の心に土足で踏み込んできた曲、「決意の朝に」。これ以来ずっと、2018年に解散するまでずっと、僕の中での一番は彼らで、傷ついた心の拠り所で、家のような存在になっていった。ボーカルの太志が書く優しい歌詞や言葉が、今は僕の血となって全身に流れてる。そのぐらい自分のものになるくらいに、僕は10代と20代をAqua Timezと歩んできた。
 高校文化祭のステージで僕が自己表現をするのなら、Aqua Timez以外の選択肢なんてなかったんだよなと今も思う。

 そんなこんなで、受験には失敗するけど、人生は動いた。きっかけはたった一言、自分の口から出た言葉と行動だった。そんな成功体験を抱えて、僕は大学へ進学する。

【大学生時代の話】

【軽音サークルと初めての彼女の話】
 大学入学直後に熱中したのはサークルだった。軽音サークルに入った。優しい先輩たちに囲まれた、自分にとって初めてに近いその空間は、すごく暖かくてキラキラしてて、すぐに魅了された。サークルに行くのが楽しくて、大好きな先輩たちに会いたくて、当時は勉強よりもサークルばかりの日々だった。初心者としてギターを始めたけど、後に引けないくらい気合い入れたくて、中古で10万のちょっといいギターを先輩に選んでもらって。下手だったなりに前のめりになって練習してたし、そんな日々が楽しくて仕方なかった。結局僕は途中で勉強に重点を置くことにしてサークルと距離ができてしまったけど、今でもたまにあの楽しかった頃のことを思い出す。

 そんなサークルで出会ったのが、僕にとって最初の彼女になる女性だった。同じAqua Timezが好きで出会った彼女とは、やっぱりいろんな部分で共通点があったし、一緒にいてすごく居心地が良かった。彼女が留学して会えなくなって、イギリスまで会いに行って、彼女が帰国して少ししたら今度は僕が留学して、アメリカまで来てくれて。最終的に3年間のお付き合いをして、お別れすることになった。今でも未熟者だけど、まだまだ未熟だった僕を理解してくれて、支えてくれて、とっても成長させてくれた人で、今もとっても感謝してる。

【英語学習と留学の話】
 さて、改めて大学の話。悔しくも父親にやらされてきた結果得意だった英語を、コミュニケーションのツールとして学びたいと思ったことから、獨協大学外国語学部英語学科に進学した。入学後の2年間は必修の授業ばかりで、結局やらされてる勉強の延長線上だった。それでも、特別なことはしていなくて課されたカリキュラムをこなしてただけだったけど、入学直後に受けたTOEICのスコアが徐々に伸びていき達成感のようなものは感じてた。そして、アメリカへ留学することを決意する。

 アメリカ留学の動機は、英語を完成させたい、ってことだけだった。当初の動機としてはそこまで強いものじゃなかったかもしれない。ただ、日本で習う英語の発音がアメリカの音だからということもあり、場所はアメリカにこだわってた。このアメリカ留学が自分の人生にとっては大きな転換点となった。
 留学先は本当に田舎で、遊びたくても遊びに行く場所もないし、移動手段もない、留学生にとっては監獄のような場所。それでも、田舎ならではの温厚な人たちと優しい環境で一緒にいられたことで、スラングのほとんど混ざらない綺麗な英語に触れることができたと思う。アジア人留学生の自分にとっても優しく接してくれる友達に出会えたし、日本人としての考えを聞いて尊重してくれる先生たちと出会えたし、時にお家に呼んでもらったりしながら、優しさに支えられた。現地のキリスト教コミュニティにも積極的に入っていって、世界の中での日本人としての自分を見つめ直したし、リーダーとしてのキリストを感じて学び取ってた。
 現地で会った日本人もバランスよく関われたと思う。同じ環境で苦楽を共にして支え合った仲間たちだからこそ、今後も仲良くできる人たちだと思う。


 留学を通して、学んできた英語がほぼ完成した。それと同時に、これまで目的として学んできた「英語」が自分にとっての「ツール」になったような気がした。このツールが今後僕の人生を支えてくれるものになるはず。そして、留学を終えて、学生生活に新しい選択肢を追加したくなった。僕は大学を休学することにする。

【正義の話とゼミの話】
 休学の話に行く前に、僕にとってのポジティブな意味での正義がどのように自分の中で育ってきたのかを振り返る。そもそもは父との関係から正義であることにこだわってたから、ジャーナリズムとかは気になってた。それ以外にも自然環境や労働環境など、人の周りの環境を大切だと認識していた。
 小学校高学年の時の話に遡る。当時の隣のクラスの担任が、ガーナに行った時にカカオの実を密輸入して帰ってきた破天荒な人だった(笑)。学年全体でそのカカオの実からチョコレートを作る体験をした。そのフォローアップの授業で初めてカカオ生産者の現状と「フェアトレード」という、生産者に正当な賃金を支払うシステムを知った。この話は潜在的に自分の中に残っていたが、具体的に登場したのは大学生になった頃だ。自分の上の階に引っ越してきたガーナ大使館の職員の人と仲良くなって、たまに家族でご飯に行くようになった。ガーナに帰国した際は、お土産にチョコレートをくれた。そのチョコレートにフェアトレードの認証マークがついていて、小学生の頃を思い出した。その頃ちょうど、大学の専門授業を選ばなければいけないタイミングだったこと、フェアトレードに関する授業を扱っている先生がいたことから、その授業を選択した。そしてこの授業から、お金を使って何かを買うことが売り手や生産者をサポートする意味合いがあることを学ぶ。これが今もお世話になっているゼミの先生との出会いである。

 サークル同様、ゼミに入った当初は先輩が好きで、ゼミが好きだった。ゼミでは国際開発協力をメインで扱っている。僕自身は国際開発には得意意識を持っていなかったし、先輩たちの背中がとても大きく見えていた。当時にインプットしてもらっていた国際開発や環境の知識が、特に国連の国際目標「SDGs(持続可能な開発目標)」が今後の活動へと繋がってくる。
 現在自分が先輩になって後輩と関わる上で、先生が目指しているコミュニティとしてのゼミの在り方に共感し、コミュニティ開発としてのゼミ活動の一役を担っている実感が湧いた。ゼミ活動を通して学生が成功体験を目指して切磋琢磨することで、自発的に考え行動することができるように学生の背中を優しく後押ししているのだ。学生人間のコミュニティとそのマネジメント、ボトムアップの必要性、コミュニティ内での自分の身の振り方や見せ方に興味が出たのはこの影響だ。ゼミでの学びは自分の行動や言動を通して世界や、身近な人たちとどのように関われるのかを自分ごととして考えるきっかけをくれた。

【休学の話】

 留学終了間際に、今だから学べることのために時間を作ることを考えたことがきっかけで、「今だから学べることを、大学の外で、働きながら実践的に学びたい」と思った。私は、2018年度を休学することにした。

【JALスカラシッププログラムの話】
 留学から帰国してすぐに参加した国際交流プログラムがあり、その参加者に選ばれ、参加して心を掴まれた。環境問題をテーマにディスカッションしながら、アジア中に友達ができる経験をして、そのプログラムの作る雰囲気に惚れ込んで、大好きになった。

 僕は熱心にアプローチして、休学中の半年間、プログラムコーディネーターとして働かせていただくことになった。
 2018JALスカラシッププログラムでは、プログラムの企画、運営に関わり、プログラム中の23日間は、海外学生たちと共同生活をしながら、テーマである「SDGs(持続可能な開発目標)」について学習をサポートする立場になった。スケジュールやコンテンツを固めたり、海外学生の来日のためのビザサポートや、プログラム進行中の引率など、裏方的な役割をこなしつつ、環境や社会のための目標であるSDGsについて教える手助けをすることができていたのはやりがいがあった。
 時に偉そうにコーディネーターとして、時には素の自分で友達として接することのできる仲間がアジア中にできて、たくさんのものを得てプログラムが終了した。


【SDGs動画コンテストの話】
 スカラシッププログラムが終わった後、「SDGs Creative Award」の存在を知った。ちょうどいいタイミングで発見したSDGsの動画コンテストということで、1人での参加を決意していたところ、イベントで「Tさん」と出会いチームで参加することになる。アメリカ留学中に趣味として始めた「動画」という手段でSDGsにコミットするチャンスにワクワクして、全力で取り組んだ。別で撮影・編集ができるメンバーがいたので、僕は動画の内容やストーリーを考え、設計する役割を担った。結果として受賞には至らなかったが、最終選考まで残る自信作を協力して作り上げることができたのは、自分の長所を生かしてチームで取り組んだ達成感を得ることができた。


【実家の引っ越しをした話】
 さて、休学の話の最後にネガティブネタが存在する。生い立ちの話でベタ褒めしておいた母親だが、唯一で最大の難点がある。それが、「絶望的に片付けができない」ということだ。また、母親だけではなく僕以外の家族構成員は、多趣味で、収集癖が強く、物が多い。物が多くて片付けができない人が住む家がどうなるか。そう、「僕は物が多すぎるゴミ屋敷で育ってきた」。物心ついた頃には家は親のものを中心に溢れ、友達を家に招いたことはなかった。再開発に伴い、実家の引っ越しが必要になった結果、自分にとっての恥であり、ずっと隠してきたこの事実に向き合わざるを得なくなった。
 最も悪いのは母親。次に悪いのは父親。だが、父親は自分の非を認めず、非協力的。自分の物は家族に比べて圧倒的に少ないが、休学中ということもあり、一番時間を作りやすかったため、僕は主戦力として期待されていた。エアコンの故障、上水道管の経年劣化による破裂などが重なり、床は濡れてカビだらけで腐敗し、夏は地獄のように暑く、冬は凍えるほど寒いという、大劣悪な労働環境。正直、なぜ僕がやらなきゃいけないのかモヤモヤはしたが、母親への恩返しのつもりでフルコミットした。結果、作業期間に4ヶ月間を有する地獄の引っ越し期間を経験することになってしまった。

【オンラインコミュニティの話】

 そもそも「オンラインサロン」ってものを聞いたことがない人もいるだろう。有名な人が主催してたり、好きなものとか、興味のあるものを共通点としてインターネット上で形成される非公開コミュニティだ。参加者はそのコミュニティにお金を払って所属し、メンバー限定情報や特別な価値を受けられる。僕はいくつかのオンラインサロンに所属し、新しい人との出会いや、特別な経験をしてきた。

①無人島開発サロン
 和歌山県にある無人島、「地ノ島」。この島を開発している人たちがいると知り、ワクワクに突き動かされて話を聞きにイベントに参加した。そこでサロン参加を誘われたことと、SDGsへのビジョンを持つTさんにこのとき出会ったことがきっかけで、僕はサロンに参加。SDGs動画コンテストに出品することになる。以降、Tさんに色々と誘ってもらい、引っ張り上げてもらったおかげで、色々なイベントに参加し、僕なりに協力することができた。現代社会の喧騒から逃れ、無人島にポジティブに息を抜けるような居場所を作る、という教育的観点の混ざった親子向けのキャンプイベント「Positive escape in Mujinto CAMP」では動画スタッフとして、そして現在も別の無人島イベント開催の準備を進めている。また、Tさんの影響でサロンの宣伝のために渋谷のサテライトスタジオでラジオに出演することにもなった。無人島サロンでの出会いからTさんは僕の人生をポジティブに動かすキーマンの1人だ。

②ハワードフルタサロン
 僕の趣味、GoProのイベントに行った時、広告映像監督のハワードフルタに出会った。同い年で、同じ大学出身だということがわかって、ご縁を感じたとともに、誘ってもらったことから彼の主催するオンラインサロンにも参加。彼も仲良くしてくれるし、機材の相談にも乗ってくれたりして、今なんのスキルもない僕は一方的にお世話になっている(月額1500円は払っているが)。先日はかなり大物が出演する、ハイブランドのCM撮影の現場を見学させてもらうこともできた。動画とは趣味として関わろうと思っていたのだが、彼の使っているのと同じセッティングの本気の機材をローンで購入したので、ついにこれで後が引けなくなった。このサロンからもたくさん学び、今後は本格的に動画にも力を入れて、ちゃんと使えるレベルにしなければいけない。
③クリエイティブクエスト
 旅するクリエイターKeiくんは、GoProファミリーの1人で、ワクワクする動画を作る天才だ。どうしても1度会ってみたいと思っていた矢先、彼がオンラインサロンを主催することにしたと言ったものだから、そのワクワクを近くで感じていたいと思い、飛びつくように参加した。サロンの中では「旅×クリエイター」のような自分の「肩書き」を名乗ることが求められていて、自分のスキルや得意が見えていなかったころはモヤモヤして居心地が悪かった。当時はただの「GoProオタク大学生」と名乗っていた僕に転機がくる。Keiくんのトークライブ「Brand New Trail」でスタッフを募集していて、大学でコミュニティを学んでいたこともあり、「コミュニティマネジメントをやってみたい」って手を挙げてみた。結果的にみんなに支えられながら運営を取りまとめることになり、何とか成功させることができた。また、頑張りを評価してもらって、クリエイティブクエストアワードを受賞した。

 この経験から、この次に開催した無人島イベント「Island Waves」でも幹部の1人として運営に携わり、目標を達成するために頼りながら取り組む組織運営の練習ができている。

 僕は今、「コミュニティマネージャー」を名乗っている。
 数ヶ月前まで何のスキルもないと思っていた僕が、やってみたいと主張することで、自分の得意を見つけて一歩を踏み出すきっかけをもらえた。僕の場合はしかも、得意を見つけたというより、高校の文化祭から好きだった裏方という関わり方を再発見したの方が正しいかもしれない。そしてその原動力にワクワクがある。今後もKeiくんの起こすワクワクの近くにいたいし、自分の得意を使って協力できればいいなと感じる。

【今後と生き方の話】

 さて、長くなってしまったが、ここまで読んできてくれた人には今まで知らなかった僕のことがわかったんじゃないだろうか。きっと断片的にしか話してなかったはずで、家のこととか、過去の出来事とか、いろんなことがあったけど、過去の自分がいたからこそオリジナルな今の自分がいる。嫌なこともあったけど、概ね今の自分を受け入れることができているし、前に向かって進めてる。
 それに、今までバラバラに見えていた僕の個々の動きが一連の流れとして理解してもらえたんじゃないかと期待している。正義について考えて、環境や社会に対して正しいのかどうかという判断軸を持っていたこと。裏方に回って人が集まり笑顔になれる場づくりに関わるのが好きなこと。この2つの軸をこれまで出会ってきた人たちやワクワクする気持ちが繋いできてくれた。これからも正義と裏方とワクワクのミクスチャーを楽しんでいたいって思う。これが僕にしかできない道に繋がると信じて。

 僕は今就活をしていて、まだできることは少なくて、自分がこれからどんな人間になるのか、何を武器にどんなことをして世界と戦い、生きていくのかを決めようとしている。まだまだ情けないほど未熟で、未完成で、何もないこんな僕だけど、こんな僕の人生を面白いって言ってくれる人、そばで見ていてくれる人、寄り添って支えてくれる人たちへの感謝は常に感じてる。まだ恩返しはできないかもしれない。もう少し時間がかかるかもしれない。だけど必ず返すから。いつかちゃんと僕のできることでみんなの人生にプラスになる何かを還元して、一緒に支え合って幸せを見つけていきたいと思っているから。だから頼む、大好きなみんな、手の届く範囲にいてくれ。物理的にじゃなくていいから、心の距離で側にいてくれ。お互いの人生を、面白くて、満足できるものを支えあいながら一緒に創ろう。これを最後まで読んで、心で側に寄り添ってくれるあなたへ、ありがとう。

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