わたし、海上保安官でした。安定や憧れを手放して、グラフィックレポーターになった理由

はじめまして、グラフィックレポーターの なかそね ことみ です。

なぜ、グラフィックレポーターになったのですか?デザインや絵はどうやって学んだのですか?

色んな質問に答えるうち、じぶんの信念と周りからの認識のギャップに気づいたので、ここで一度、自己紹介しておきたいと思います。

職業はグラフィックレポーター、グラフィックで「伝わる」をつくります。手書き文字のゆるさとは反対に、思考回路はマッチョで、言葉やお作法に敏感な生粋の体育会系です。


簡単なあゆみ

平成元年生で、沖縄県出身の女性。
ちょっと変わった経歴を持っています。

1989年 沖縄県平良市(現 宮古島市)生まれ
     〜南の島ですくすく育つ〜
2008年 首里高校卒業
     海上保安大学校入学(本科)
2012年 卒業。
     レア学士「海上保安」を得る
2013年 海上保安大学校(専攻科)修了
     新潟県で船艇勤務
2016年 霞ヶ関で陸上勤務
     仕事への「満腹感」を感じはじめる
2018年 3月、退職。
     4〜7月、退職金を手に日本を放浪
    グラフィックレポーターを名乗る

デザインやイラストは、2018年3月の退職まで、人生に一切登場していません。

しいて言えば、ジャンプっ子でまんがが大好き、文章を読むのも好きなので、大量のまんがたちや、Kindleで読みあさったデザインやキャッチコピーについての本がわたしの先生です。


「直接見る」ことに価値がある---最前線に立ってみたくて、海上保安官になりました。

生まれたのは両親の故郷でもある、沖縄県の宮古島。その少し西にある石垣島で幼少期を過ごしました。

石垣島:エメラルドグリーンの「川平湾」で有名です

どこに行っても海の気配を感じる島で、身内に船乗りが多かったのに影響されていたのでしょう。

ニュースで「せんかく」と聞くたび、少しずつ周りの国のことが気になっていきました。子どもの理解の範疇を超えた出来事たちに、胸の中でちいさな怒りを育てながら。

一筋縄ではいかない国と国とのパワーバランス、現場の船で、生身の人間がやっているらしいこと、彼らを動かす法律やオペレーション…

「できるなら、自分の目で見てみたい」

そう考え、海上保安学校、海上保安大学校の受験を決めました。

いま考えると、ものごとを「さくっと」決める性格は、高校生の頃にはすでに確立されていたようです。

部活は空手部でした。全国大会に出場するくらいにはゴリゴリに打ち込んでおり、ものごとに対する考え方…結果を出すためには相応の過程が必要、いい意味で「夢を見ない」こと…も、高校時代に養われたのかもしれません。


受験の結果はどちらも合格で、ならば幹部候補生になった方があとあと便利だろうということで、海上保安大学校に入学。

大学校で待っていたのは、45人の同期と4年間の寮生活、卒業後1年間の専攻科での研修でした。

余談ですが、「同じ釜の飯を食う」という考えと、それに付随する幻想---厳しい訓練やともに過ごした時間は絆を育む---の軽薄さをここで知ります。

時間をかければ相手の性質を知ることはできますが、好意や絆が生まれるかというと別問題。なんくるないワールドと寮生活のギャップに苦しみました。


選んだ科は航海科。日本一周、世界一周の乗船実習を経て、23歳の春、主任航海士として新潟に配属されます。

雪国新潟での生活は、こんな感じ。

沖縄人、大喜び


海技士の国家資格を持っているので、どんな船にでも船長や航海士として乗組むことができます。

(遠くない未来、また操船する機会をつくりたいものです)

23歳、船に乗っていた頃の写真。(主任航海士っぽい顔)


いい歯車になりたかった。それでも感じた仕組みの限界

海上保安庁という組織にいる間、働くうえで一貫して持っていたのは「いい歯車になりたい」というスタンス。

1、2年働いて、慣れてきた頃につぎの職場へ…短期間で全国転勤を繰り返すのが、一般的な国家公務員の勤務条件です。

簡単に交換される部品だとしても、今いるポジションで常に最良の行動を選択し続けられるのがいい歯車としての在り方であり、理想的なリーダーシップだと考えていました。

(リーダーシップについては、伊賀泰代さんの本が分かりやすいので、こちらをご参照下さい)

2016年には東京・霞ヶ関での陸上勤務が始まります。激務でした。

「海上」保安庁と名前がついていますが、その役割は「海をパトロール、海難をレスキューして終わり!」ではなく、海にかかわる事件、事故のほか、国が総力をあげて対応すべき災害やテロなどにも及びます。

中央省庁に身を置いて、各省庁の働きを内側から見てみると、なるほど行政の仕事はタテ割りでしたが、さまざまな課題に対して思った以上に「国をあげての総力戦」が繰り広げられていました。

ニュースは簡単に「政府は」といいますが、役人は決して無能ではなく、想像を絶するほど有能な人が命を削るように働いても網羅できないほど、国というのは複雑な仕組みで動いているのだなあということを実感をもって知ります。

問題は山積み、人数や予算、時間にだって限りがある。理想を掲げるだけでは何も生まれない。

現場でスキルを磨いても、手が届く範囲は限られていて、作文力や根回し力、網の目のような法律があっても、完璧な社会は生み出せない。

よき歯車になれたとして、よく機械を動かしたとして、わたしがたどり着きたい場所は「そこ」なのだろうか。

違和感に気づいたのは、陸上勤務1年目が後半にさしかかった頃です。


霞が関の庁舎には、船艇勤務のときは周りに数えるほどしかいなかった大学校卒業生、いわゆる幹部たちが全国から集合しています。彼らをとおして、定年退職までに自分自身が歩むであろう人生を見ました。

あの人は10年後の、あの人は30年後のわたし。

うるさい航海長だったり、船橋に静かにたたずむ船長だったり、会議室の広いテーブルで声を張ってみたり、的が外れた発言ばかりして部下を困らせたり、どんな事案でもスマートに采配できたりする、いろんなわたし。

それぞれに魅力的ではあったけれど、歯車をぐるぐる回し続けて、たどり着きたいのはそこだろうか?


そして2017年2月、かねてより希望していた部署への内示をうけて、「あと1年働いたら、退職しよう」という決意が生まれます。

年功序列の階段をおりてしまうと二度と戻れないけど、目指したいのはそこではない。一度決めると、いままで情熱を傾けていた仕事が「終わらせるために頑張るもの」に変わりました。ここからは正直、働き続けるのが辛かったです。

「退職の意向は、何ヶ月前までに伝えるのが適当でしょうか?」「…可能な限り早くがいいです」

こっそりと事務的な確認をしたあと、退職して失うものは何だろう、退職金っていくらもらえるのかな、退職後の社会保険料はいくらで、税金はいくらで、手取りで同じだけ貰うには、月に◯万円稼がないといけなくて…

そんなことを考えながら過ごすようになりました。


「後悔すると思うよ」。7ヵ月にわたった慰留、そして

2017年4月、新しい部署での仕事は、刺激、未知、怒涛、そんな言葉で表されます。

知らなかった、国ってこうやって動くんだ。
こうやって現場が動かされているんだ。

偉い人の思考って、こうなっているんだ…!

どんな時でも携帯の音量を最大にして、呼び出しがかかった20分後には庁舎で情報をさばく生活。冷や汗の止まらない緊張感を味わっては、「こんなことまで知っちゃった」自分に酔ったりもしました。

高揚感のなかで、何度か「また一年がんばったら、階級章の線が一本増えるなあ」という考えが頭をよぎったものの、まだ頑張れるか?の答えは明確にNOでした。

もうここでは、回り続けられない。

7月に退職の意向を伝えて、退職関係の書類を書けたのは年明けの2月のこと。

いくつかの面談をこなして、なだめられたりすかされたり、場所を変えては違う人と似たようなやりとりをし、しまいにはメンタルの不調を起こすといった過程を経て退職にいたります。

何名かに「後悔すると思うよ」と言われました。「後悔する日もあると思います」と返したのは本心からで、今でもときどき心臓をひやっと撫でる不安が噴き出すことはあります。

海上保安官のままでいたら、目に見える命を救えたかも、社会を良くするための施策にかかわれたかも…なんて思いながら、同期が昇進した便りを聞いては嫉妬にかられる日が、きっと来るのでしょう。


イラストレーターじゃない。レコーダーでもない。グラフィックレポーターを名乗るまで

退職するまでの間、転職活動や副業はしていませんでした。理由は、転職活動のための申請を出す心のゆとりがなかったのと、ほかの組織で働く自分が想像できなかったこと。そもそも副業は禁止されています。

退職後は、貯金を手に日本中をふらふらしつつ、SNSのアカウントを育てました。意外と早い2018年秋には「グラフィックレポーター」として食べていけるようになります。

グラフィックレポーターになろうと思った一番はじめのきっかけは、おそらくこのツイート。

どうやら文章を書くよりも、いろんな人に情報が届くみたい。手書きでまとめるのは苦じゃないし、これは仕事になるんじゃないか…?

調べると、グラフィックレコーディング 、グラフィックファシリテーションという「絵で記録・情報整理」するためのスキルがあることが分かりました。

「グラレコ=記録かあ…私がしたいのは情報発信だから…伝える…レポーター…肩書きはグラフィックレポーターにしようかな」

ありとあらゆるSNS、検索エンジンを探しまわった結果、名称のかぶりがなかったので、しめしめと「グラフィックレポート」をはじめた人として肩書きを掲げます。

「やってみたら喜ばれたので、続けていたら仕事になりました」。理想のかたちでスタートした働き方。

仕事になるまで続いたのは、たくさん応援してくださった、ますぶちみなこさんをはじめとする #iPad芸人伊佐知美さんのコミュニティ #旅と写真と文章と、そして #自分への取材手帳 ユーザー会で繋がった方々のおかげです。

ここでこっそりお礼を。いつもありがとうございます。


“問題は山積み、人数や予算、時間にだって限りがある”。

これは国だけでなく、人生にも言えることなのではないかと思います。

問題にぶつかったとき、飲み屋で適当にうさを晴らしたり、SNSで気軽に悪者を批判したり、組織での順当な昇進を待つ以外に、解決するための方法があるかもしれない。

例えば友人が悩みにぶつかったとき、手助けになる情報はなんだろう。グラフィックの力を使って、誰かの役に立つには…?

それはもしかしたら、情報の波に飲まれそうになっている、より良い働き方やよりよい商売の方法を世に広めること、「考える力」を養う方法を伝えることかもしれません。

または、いい企業を応援したり、研究者やアーティストを支援する仕組みの応援で実現できることかも。

正答はまだ、探している途中です。

食べていくこと、ふわふわしたイラストを描くのがゴールではありません。

グラフィックレポートというフックをきっかけに、より深い情報にアクセスしてもらいたい。そもそもより深い・人や社会により良いとは…?を考えながら、今日もペンを握ります。


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船橋からながめる灯り

コメント1件

興味深く読ませて頂きました!noteはつくづく、色々な方がいるなと改めて感じました。宜しければ、初めまして、宜しくお願いいたします。
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