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お寺を継ぐべきか迷っているあなたへ

5年前、お寺の子弟で実家の後を継ぐかどうか迷っているという20代半ばの方から相談があった時に、その方に返事をする形で書いた内容を、まとめた記事です。お寺の「継承」というテーマを考えたり語ったりする上で何かしらの参考になるかもしれないと思い、少しだけ書き直したものをここに再掲します。

相談内容

実家が、北関東の田舎にある禅宗のお寺です。

住職である父さんからは
「これからはお寺一本で食べていける時代ではないし、
お前は坊さんにならなくてもいい」と言われています。

でも、本当は父さんが心の中で自分に後を継いで欲しいと思っているはずだし、
その期待には応えたいと思います。
正直、住職になることには前向きな気持ちではなくて、
親が望むから継がなきゃいけない、という意識です。
仏教の知識も、少し本をかじったくらいしかないです。

今のまま継いでもいずれ家族を持ったときにお金に困るだろうから、
今のうちに自分なりのビジネスを立ち上げています。
数年後には、年収1千万くらいを目指して、
経済基盤を作りたいと思っています。

自分が僧侶になることについて、
先輩の立場から何かアドバイスいただけますか?

お寺は預かりもの

お父さんの期待に応えようというのは、ひとつ大事なことだと思います。ただ、これは決して忘れないで欲しいのですが、お寺は住職一家の私有財産・所有物ではありません。大勢の檀家さんに支えられて成り立つのがお寺であり、それをお預かりするのが住職の役割です。さらに言えば、お預かりするのは今目の前にあるお寺の伽藍や、それを支える檀家さんの思いだけではありません。境内に墓地や納骨堂のあるお寺も少なくないですが、そこにはたくさんの亡き方々が眠っておられます。お寺を預かるということは、300年、400年というお寺の歴史を預かることでもあり、過去ご本尊に手を合わせた数え切れない死者の存在の記憶を預かることでもあります。

絶え間なく変化し続ける社会の中で、お寺という場はある意味で永遠性を託された場です。「諸行無常=一切は過ぎ行く」と観ずる仏教の考えからすると矛盾するかもしれませんが、自分がこの世に生きた証を残したい、この世を離れても自分が確かなものとつながっていると信じたいのが、人情というものです。大乗仏教は解脱ばかりでなく救済の道でもありますから、人情に寄り添うことも大切です。

日本のお寺はそのような日本人の心情に対して、仏教というより先祖教というあり方で応えてきました。これまでは、イエというものが永遠性につらなるご縁の縦糸として個々人において機能し、そのイエの象徴としてのお墓を預かるかたちで、お寺は間接的に永遠性を担保してきたといえます。しかし、イエという観念が希薄になった現代人にとっては、イエはもはや永遠性の象徴にはなりません。不安な個人に対してお寺そのものがダイレクトに永遠性を担うことが期待されます。

その意味で、これまでのお寺は「仏教寺院」という看板を掲げながらも、大部分は先祖教の受け皿として機能してきたわけですが、これからはより仏教が前面に出て来なければ、役割を果たせなくなると思います。今までのように、イエという観念に頼るわけにはいきません。もちろん、お寺の先祖教としての役割がいきなりゼロになるわけではありませんが、仏教寺院としてのお寺の役割がより大きくなるでしょう。そこでは住職が宗教者として永遠性の物語をつむぎ、皆と共有する力が問われます。住職としては厳しい時代になりますが、やりがいのある時代でもあります。

跡継ぎという立場をどう受け取るか

これから日本の人口が減りますから、それに伴って、お寺に生まれる経済活動によって生活を成り立たせられる住職の数も減らざるを得ません。住職としてお寺を預かる責務を果たすことのみで生計を立てられる専業住職の数も減り、兼業のお寺がますます増えると思います。住職一本で生活できる人が偉くて、兼業は中途半端だからダメということは決してありません。家業としては成り立たない中でもなんとかして自分の代で預かったお寺を次の世代へつなごうという努力は、尊いものだと思います。

現代のお寺のほとんどは世襲です。「なぜ僧侶になるのか?なぜ禅宗なのか? だって、そこに生まれちゃったんだもん」というところから始めなければならないのが、現代の僧侶のあり方です。外から仏門を叩く人より、世襲の僧侶は発心を自覚しにくく、僧侶であることに自信を持ちにくい面もあるかもしれません。でも、世襲が悪いということはありません。「生まれちゃった」ということも、大きな大きなご縁です。お寺の跡継ぎは、若いうちはそれをしがらみと感じて反発する人も多いですが、ご縁はその受け止め方次第です。

たとえば、あなたが働いている周りにいる、しがらみのない自由を謳歌しているように見える東京のビジネスマンなども、実際には生きる意味を見いだせない根無し草のような日々を忙しさでごまかしている人も少なくないでしょう。あらゆるものがコモディティ化する世界、人すらも「人材」という呼び方で交換可能なパーツとして扱われる世界の中で、多くの人がしがらみもないけどつながりもない不安な人生を送っています。

その点、たとえどんなに無名の小さなお寺だったとしても、300年、400年というお寺の歴史に十何代住職などとして連なることが期待される唯一無二の立場にあり、住職や檀家さんから「あなたにこそやってほしい」と言ってもらえるお寺の跡継ぎという立場は、相当に恵まれたご縁です。お寺が裕福であろうと貧乏であろうと、自分の「生きる意味」を見いだしやすい豊かなご縁の中にあるということは、それ自体がとても幸せなことです。

そういうご縁を、「しがらみ」と受け取るか「つながり」と受け取るかは、あなた次第です。若いうちには「しがらみ」としか思えないかもしれません。それでもなお、「今はしがらみとしか思えないけど、それを大切にしてみよう」と思うのなら、そのご縁を引き受けて進んでみたらいいですし、「やっぱりしがらみは嫌だ」と思うなら、お寺を継がなくたっていいんです。

これからの僧侶

たぶん、あなたの実家のお寺の状況からすると、兼業でされることになるのかと思います。頑張って専業を維持したければ、かなりの努力が要るでしょう。しかし、専業でやるにせよ、兼業でやるにせよ、霞を食べて生きるわけにはいきませんので、生計をなんとか自分の努力で成り立たせようというのは、いい心がけだと思います。その苦労から学ぶこともたくさんあります。

ただ、ひとつ忘れて欲しくないのは、お坊さんになるということは、隅々まで経済原理に覆われた世俗の価値観とは別の価値観で生きることだということです。兼業だから、法衣を着てお経を読んでいる間は仕事中なのでお坊さんとして振る舞うけど、お寺とは別の所で稼いだお金は自分の好きなように使えばいい、ということにはなりません。お坊さんである限り、周りの人は一挙手一投足、その人の生き方全体を見ます。法衣を着ているときにどんなにいい法話をしても、法衣を脱いだときに贅沢三昧、ということではいけません。というのも、お坊さんであるということは、仏教徒の模範であることが期待されるわけで、周りの人ががっかりするような振る舞いをすれば、それは逆布教というか、皆の心が仏教から離れていってしまうことにもなります。

これまでのお寺の世界で、布教は「仏法を伝えること」と捉えられていました。でも、私は布教というのは「仏法が伝わる環境を整えること」だと思います。住職が説法や坐禅指導をする時間だけが布教ではないのです。皆さんが気持ちよく仏法に触れ、深められるようにあらゆる面から導くのが、住職の役目です。仏法が伝わる環境の一要素(重要な要素ではありますが)として、住職という人の存在もあるのです。その意味で、法衣を着ているときだけでなく、法衣を脱いだときも、皆さんをがっかりさせるようなことがあってはいけません。電話の応対ひとつとっても、住職のやることはすべて布教に関わるのです。

ならば、目につかなければいいかというと、確かに「仏法が伝わる環境を整えること」を仕事とするなら、そういう考え方もできますね。でも、私は坊さんほど、「仕事」としてやるのならしんどくてつまらない仕事もないんじゃないかと思います。仮に実家のお寺が裕福だったとしても、「寺を継げば食うのに困らないから、仕事として坊さんやろう」という考えならば、やらないほうがいいですよ。カネのために坊さんをやっても、坊さんとして本当に面白いところを体験することは決してできません。そういう動機で坊さんになると、きっと人生を棒に振ることになります。

あなたの実家の周囲にあるお寺の住職が、高級外車に乗ったり、ゴルフばかり行って檀家から顰蹙を買っているということですが、残念ながらそれも今のお寺の世界にある現実の一面ではあります。でも、もっと周りに目を広げれば、そんな住職ばかりではありませんよ。尊敬できる住職さんもたくさんいます。大事なことは、良い仲間・良い先輩と交わり、自分の僧侶としてのスタンダードを常に高いところに置き続けることです。ビジネスの世界でもそうですね。「まぁ、この当たりでいいか」「これくらいやれていれば十分か」と思ったときが、終わりのときです。仏門ならなおさらのこと、「まだまだこんなところに留まっていてはいけない」と思わされるような友や師を持つことが大事です。

まだまったく僧侶仲間がいないようですが、これから道場に入って修行するというのなら、きっとそこでいい仲間ができますよ。みんながみんな良い友ばかりじゃないかもしれませんが、その中で良い友を見つけて、ご縁を広げていけばいいんです。もちろん未来の住職塾も、良い仲間ができるコミュニティとして、いつでも待っています。

これまでの先祖教としてのお寺のあり方の中では、住職は確かに、ひとまずお経を読めていれば何とかなるところはありました。しかし、これからは仏教としてのお寺が重要になります。一人の社会人としては、最低限の生計を安定的に成り立たせる必要はあるでしょう。しかし、そのラインを超えた収入については、住職をやるならあまりこだわるべきではありません。裕福な暮らしにこだわるのであれば、住職にはならずに、他の職業でそれを追求することをお勧めします。

結局、僧侶になるべきかどうか?

僧侶になるべきかどうか? 若気の至りの塊のような15年前の私だったら、今のあなたに「仏の道に気持ちが定まらないならなるべきでない」と言ったかもしれません。でも、今は必ずしもそうは思いません。若いうちからいきなり仏門に根を張っている人なんて、そう多くはありません。どんなご縁でも、ご縁はご縁です。「お寺に生まれちゃったから、継がなくちゃ」というのも、ひとつのご縁です。そこから始めて、歩みながら、豊かなご縁に育てられて、だんだんとそこに根を張っていけばいいんです。

たとえ、仏教者としての自覚、信心の定まり方などにまったく自信が持てなかったとしても、「とにかく自分が預かるお寺を絶対に次の世代に渡していくんだ」という強い思いがあるのなら、私はそこにひとつの宗教的な尊さがあると思いますし、その一点において住職として役割を全うすることも素晴らしいことと思います。そして、たとえ今はそのような思いすら持てなくても、歩み始めるうちにだんだんと周囲の皆さんの思いがしみ込んで、自分の隠れた思いと共鳴し「これでよかった!」と思えることもあるでしょう。もちろん反対に、訳が分からないままに歩み始めたはいいけれど、いつまで立っても仏門に根が張らないまま、「これでよかったのかな?」と住職人生を終えることになる人もいます。

だから、僧侶になるべきかどうか、住職の後を継ぐべきかどうか、最後は自分次第であり、縁次第です。そのようなご縁を大事に思うのなら、ひとまずそちらに歩み始めればいいでしょうし、そんなものは関係ない!しばられたくない!と思うのなら、離れて生きればいいでしょう。でも、あなたがご縁を大事にして歩み始めるのなら、努力次第で、きっといいお坊さんになれますよ。

どうか焦らず、ゆっくり考えてください。

もっと探求してみたい人へ

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また、ブッダが「良き仲間がいることは、修行の半ばではなく、その全てである」と言われたように、いかなる道も良き仲間とともに歩むことが大事です。お坊さんとして良き仲間に出会いたい人は、ぜひ未来の住職塾へのご参加をお待ちしてます!



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