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ヒューマン・コンポスト〜火葬という環境破壊〜

マンハッタンのDeath Lab(死の研究室)

ニューヨーク、マンハッタンにあるコロンビア大学に「Death Lab(死の研究室)」があるのをご存知でしょうか。

死を研究、と言っても、医療とか倫理とかではなく「建築」からのアプローチです。超高層ビルが立ち並び人間のひしめくマンハッタンでは、毎日数百人の方が亡くなりますが、埋葬するのに十分な土地がありません。そこで、都市における新しい埋葬のあり方や、人と死者の関係性などを研究するDeath Labが生まれました。チームを率いるカーラ自身が建築家であり、チェルシー地区に自分の建築事務所を構えています。

今年の3月、幸運にも講演でNYCに呼んでいただく機会を得て、マンハッタンに数日間滞在しました。これはまたとないチャンスと思い、講演で知り合った金沢21世紀美術館(Death Labが今年、展示イベントをした)の学芸員さんにお願いして、カーラにつないでもらい、コンタクトをとって1時間ほど時間をもらって対話をさせていただきました。いろんな話を聞くことができて、とても面白かったです。(対話は録音もしたので、そのうちテープ起こし、できるかな・・・)

印象的だったのは、「火葬は地球環境破壊である」というカーラの指摘でした。遺体をエネルギーを使ってただ焼くのは、自然の摂理に反しているのではないかと。そんな彼女の考えを反映した作品があります。それは、毎年数万人が亡くなるマンハッタンに埋葬のための十分な土地がない問題を解消し、社会と「人の死」の距離を問い直すため、マンハッタン橋から吊るされた「中空の棺」がバクテリアによる遺体の分解(コンポスティング)から得られるエネルギーで発光するというアイデア。もちろん、実現には法律の問題もあるため、まだ社会実装はされていませんが、感情が揺さぶられる大変興味深いコンセプトだと思います。

ちなみに、対話の最後に「日本のお寺から、墓地の設計の仕事が来たら、やってみたい?」と聞いてみたら、「Death Labでは、コンセプト作りはたくさんやっているけど、実際にはまだ現実の墓地を作ったことはないから、機会があればぜひ」とのこと。世界一アバンギャルドで斬新な墓地を、カーラに発注するのも面白いかも。

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技術的には簡単だけど、スピリチュアリティ観点から難しいこと

そんな折、TEDxで知り合った起業家の知人、Chrisから久しぶりに連絡が来ました。

「Hi ショウケイ、久しぶり! 元気でやってるか? こちら、ビジネスはまぁまぁという感じ。ところで、今回メールしたのは個人的にすごくモチベーションが高まっているテーマについてなんだ。気候変動と環境保護のことだ。父親になって以来、自分のフォーカスが少し変わってきた−−、つまり何か環境のために本当にできることはないかって。(子供たちのためにね!)そして、それに関してここ数年、頭の中にアイデアを一つ温め続けてきた。そのアイデアは、技術的にはとても簡単なんだけど、スピリチュアリティの観点からは広めるのがとても難しいんだ。お寺に言って会って議論してもいいかい? 私が出会ったことのある中で適切な答えをくれる唯一の人が、おそらく君だから。」
(ハリウッド映画の字幕っぽく翻訳してみました)

確か以前、渋谷で開かれていたTEDxの会場をぶらぶらしていた時に、ほんの数十分、会話しただけでしたが、なんとなく気があったのでChrisのことはよく覚えていました。もちろん地球環境に良いことなら応援はしたいけど、何と言っても気になるのは、「技術的にはとても簡単なんだけど、スピリチュアリティの観点からは広めるのがとても難しいアイデア」。これは聞いてみたい。

早速、予定を合わせて、神谷町オープンテラスのお墓ビューの前で話をしました。(そしてそのロケーションの選択が完璧に正しかったことを、後で知ることとなります)

最近どう?的なやりとりをしてから、Chrisが切り出したのは、こんな話でした。

ショウケイ、見てくれ。このテラスからも見えるたくさんのお墓。その下にはお骨(Ash)が収められているね。日本では法律などによりほぼ100%火葬だが、ご存じの通り、世界には色々な埋葬方法がある。土葬のところもあれば、鳥葬も。その中で、火葬は最もエネルギー効率が悪く、たくさんの二酸化炭素を排出する、地球に優しくない埋葬方法と言われている。遺体をすっかり燃やしてしまって、無駄にするから。しかも、大量のガソリンをかけて。体重68kgの人を火葬するのに必要なエネルギーは、車で7725kmの移動に必要なエネルギーと同じと言われる。それだけのガソリンを無駄に使うと同時に、1530kgの二酸化炭素を空気中に吐き出すことになると言われている。

今、新しい埋葬法が世界で少しずつ広がっているのを知っているか? ヒューマン・コンポスティング、人間を堆肥化する埋葬法だ。技術的にはとても簡単で、バクテリア、菌類の働きで6〜8週間で遺体がすっかり堆肥になる。これならばCO2を排出することもないし、ガソリンも要らず、人間は地球を汚さないどころか、そのまま地球の一部に「なる」んだ。つい最近、アメリカのワシントン州ではこのヒューマン・コンポスティングという埋葬方法が合法化された。他の州でも導入が議論されているところだ。
https://www.cnn.co.jp/usa/35136075.html

最も地球に優しくない埋葬方法の一つである火葬を、世界で10番目に人口の多い国である日本が100%実施している。もちろん、日本で火葬が普及したのは公衆衛生の観点や文化的な背景もあることは理解している。日本でヒューマン・コンポスティングを実施するのは、簡単ではないだろう。法改正も必要になる。しかし、それ以上に難しそうなのは、スピリチュアリティの観点だ。日本の宗教や精神文化において、「人間の堆肥化」という発想が受け入れられるのかどうか。

試しに、渋谷にある自分の会社で、社員たちに質問してみた。概要を説明してから「従来の火葬がいいか、ヒューマン・コンポスティングがいいか」と質問すると、20〜30代前半の若い社員は、迷うことなく「ヒューマン・コンポスティングがいい」と回答した。30代半ば〜40歳くらいだと、半分半分。それ以上になると、迷いながらも、感情的にヒューマン・コンポスティングは受け入れがたいようだった。やはり、簡単には答えの出ない議論であることは間違いない。しかし、それは同時に、サステイナブルな社会を皆で一緒に考えるために、ヒューマン・コンポスティングが良い議論のテーマであるということも意味する。

このテーマを世の中に問いたいと思う。ショウケイも協力してくれないか。

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ヒューマン・コンポスト

この、ヒューマン・コンポスティング、人間の堆肥化という埋葬法。

当初あれほど樹木葬に拒否感を示していた伝統仏教界も、人気の高まりを受けて、今や少なからぬお寺がそれを導入しつつあるから、これもあながち可能性がないわけではないのかも。仏教思想的には、これをどう解釈するのか。日本仏教文化的に、これをどのように受容できるのか。

私の予想ですが、このヒューマン・コンポスティングが普及すると、「最後のお別れ」が変わると思います。今日的なリアリティを付与された七日七日の儀礼が復権するかもしれません。火葬炉だと1〜2時間で済むところを、ちょうど7週間くらい(つまり四十九日!)待つ感じですから、遺族にとってはちょっと落ち着かない日々が続きますが、その間、しっかりと七日七日をお勤めして、いざ、四十九日に、微生物によって分解された故人の土を受け取り、それをそのまま然るべき土地に納骨(というか散土)という形になるでしょうね。なので、ものすごく丁寧に、満中陰(四十九日)法要が勤められるようになりそうです。

最近では日本でも「樹木葬」など新しい収骨方法も増えています。当初は樹木葬に拒否感を示していた伝統仏教界も、人気の高まりを受けて、今や少なからぬお寺がそれを導入しつつありますから、いずれはヒューマン・コンポスティングもあながち可能性がないわけではないかもしれません。(もちろんその時には「自然葬」「大地葬」など、もう少しマシな名称が付けられるでしょうけれど)

私たちは、時代環境によって変化する「正しさ」に無意識に巻き込まれながら生きています。「火葬は環境破壊である」という視点を私は持ったことがありませんでしたが、言われてみれば納得する部分もあります。そして、その環境保護にしても、何を持って環境保護とするのか、といった「正しさ」は、常に変化し続けています。世の中の動きを見つめるとき、いつも仏教の「中道」という言葉を思い出します。釈尊は、いたずらに苦しい方向へ進むのでもなく、かといって快楽主義に走るのでもなく、極端に寄らず真ん中の道を行くことを勧められました。

親鸞は「閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」つまり、自分が死んだら賀茂川に流して魚の餌にしてくれ、という言葉を残しています。定番か、革新か、原点回帰か。中道はどこにあるのでしょうか。

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弔いの現場の人たちの反応〜焼骨は土に還らない〜

このヒューマン・コンポスティングについて、仲間のお坊さんたちにも聞いてみたところ、反応は様々。

・思わぬ角度からの仏教×SDGs!でも確かに、自分が堆肥になるということはまだリアルには想像だにできませんが、議論すべきテーマですね。
・今までの寺院経営を根底から覆す可能性がある。その方向が間違っているともいえない。やはり諸行無常、墓も寺も常住不滅ではないのならば、我々は変わっていかねばならないのでしょう。
・自分なら堆肥になりたいです。
・堆肥にされた遺体は実際に畑で使われるのか?それとも山に埋葬という形もあり?具体的な運用の検討は必要だが、私の感覚的には土葬や散骨に近いのでそんなに抵抗感はないです。
・「堆肥」という言い方はないだろう。ヒューマン -コンポスティング、ネーミングがそのまんますぎる。大地葬…とか?
・ザワザワします。日頃から環境に負荷をかけないようにと自分なりに気をつけて暮らしていますが、そこか!って感じです。
・夫と同じ墓に入りたくないのと同じように、夫と同じトマトになりたくないって妻はいるとおもう。
・堆肥良いと思います。法的な問題をクリアすればチャレンジしてみたいです。でも、期間がかかるので、分解されるまでの土地や建物の確保もハードル高そう。
・ 子どものころに火の鳥を読んで「みんな土に還ればいいのに」と思っていました。「そしたらみんな地球でつながるのに」ようやく口にしてよくなったんだな。

私の周りのお坊さんたちは環境問題にも高い関心を持つ人が多いからか、案外と肯定的な意見も多かったのが面白いです。

そしてまた、なるほどと思ったのは、葬儀社さんや石材店の方のご意見。

「焼骨は土に還らない」

という衝撃的な事実を教えてもらいました。土葬であれば、何年かすれば骨のカルシウムも含めて雨水に流されて土に還っていくが、火葬炉で高温で焼かれた焼骨はセラミック化するため(土器などと同じ)、土に撒いてもバクテリアなどで分解されないため、土には還らないそうです。私もざっと可能な範囲で調べてみましたが、なるほど、この話は確からしい。「墓じまい」や「散骨」といえば、砕いたお骨を土に撒くことで最後は自然に還るイメージがありましたが、その認識も変わってきますね。考えさせられました。

最近増えている「直葬」を希望される方にも様々な事情がありますが、仮にそれを"Neither religious nor spiritual"な人々の一つの選択肢であるとするならば、こちらのヒューマン・コンポスティングは"Not religious but spiritual"な人々の選択肢として提示できるかもしれません。そういう人々は、死者とのつながりや伝統的な儀礼を比較的大事にする気持ちのある人たちなので、"post-religiousな仏事"を提案すれば、結構ちゃんと仏事を継続してくれるような気もします。

とはいえ、新しいやり方に飛びつくのも慎重でありたいところです。最近は「宇宙葬」などもありますが、火葬が環境破壊なら、火葬したお骨をロケットで大気圏外へ打ち上げる宇宙葬は、恐ろしい環境破壊になるでしょう。いずれにせよ、昨今は企業でもCSRからCSVへと「本業での社会貢献」が言われていますので、日本仏教としてはしっかり向き合いたいテーマです。

あるお坊さんに教えてもらいましたが、北欧ではこんなやり方も?

また、最近のクーリエでも取り上げられています。

「仏教xSDGs」を問う最も象徴的なテーマとして、このヒューマン・コンポスティングの行方を追いかけて行きたいと思います。

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