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正しさ依存症とこれからの宗教

自立は、依存先を増やすこと

先日、久しぶりに本願寺派の僧侶として宗派の研修を受講しました。テーマは性や薬物、引きこもりや自死など、思春期の若者の幅広い課題を一気に学ぶ、濃い研修でした。カルト問題のテーマも設定されており、元・親鸞会の幹部で、現在は真宗大谷派寺院の住職を務める瓜生崇先生が登壇されました。

あらゆる課題に通底するのは、「孤独」から生まれる「依存」、という構図です。人は誰しも、様々なものに依存しながら、生きています。その人の特性や生まれてからこれまでの経験なども依存の要因となりますが、実はとても大きな影響を与えているのが、「つながり」であると言われます。そのことをとてもわかりやすく示した有名な動画がありますので、シェアします。まだ見たことの無い人は、短いですのでぜひ見てください。

ピエール瀧さんが薬物依存からの回復の道筋を「ストレスを一人で抱える生活習慣を改善したい。これからはもっと甘えて頼りながら解決していきたいと思います」と表明したように、依存症に関する言説はここ最近でだいぶ変化しました。「ダメ、ゼッタイ」でやめられるほど、人間は強くない。孤独の寂しさを紛らわそうと何らかの依存に陥った人を責め立てれば、さらに孤立へと追い込むことになってしまいます。そうではなくて、依存者に対して多様な「つながり」を築くことを促し、他にたくさんの安心できる居場所(適度な依存先)を持てるようにしようという方向へ、対処の仕方が変わってきています。

熊谷晋一郎先生は、「自立は、依存先を増やすこと。希望は、絶望を分かち合うこと」と言われました。

人間が人間である限り、ティックナットハン師が「inter-being」と表現したように文字通り「人の間」の存在であり、何者にも依存せずに生きることなどできません。ならば、依存からの健全な回復とは、依存をゼロにすることではなく、薄く広く「健康的に」依存することに他なりません。

ドミニク・チェンさんの「わたしたちのウェルビーイング」という記事にも示唆深く描かれていますが、そろそろ私たちは個々のbeingではなくつながり合いの中にあるinter-beingにおいて、well-beingを捉えていく必要があるのだということに、社会全体が目覚めつつあるのではないでしょうか。

カルトとは、”正しさ”への依存である

瓜生崇先生の講義の中で「カルトとは、”正しさ”への依存である」というお話がありました。

「教祖様が仰ることに間違いはない」「うちの組織が絶対に正しい」というメンタリティで思考停止に陥り、他者を排除したり攻撃したりするのが、カルトです。それはまさに「正しさへの依存」に他なりません。真面目な人や、他者を救いたい気持ちが強い人ほどカルトにはまりやすいのは、正しさへの依存度が高いからと言えるでしょう。人間はスッキリしたい生き物であり、もやもやに耐えるのが苦手で、はっきりわかりやすい「正しさ」に弱いものです。

とはいえ、人間が人間である限り、家庭であれ、会社であれ、学校であれ、町内会であれ、宗教教団であれ、あらゆる組織は多少なりとも「”正しさ”への依存」への誘惑がつきまとうもの。何であれ組織に属すると、そこには規範があり、価値観があり、何かしらの「正しさ」が与えられます。そして、人間社会で生きる限り、人は組織と無縁ではいられず、誰しも何かしらの様々な組織と関わりながら生きています。多くの人は、自分なりに工夫して適度な距離感を保ちながら、「健康的に」依存して生きています。一方、他のつながりを断ち切って、その人の全てを唯一の組織に組織に捧げるように「不健康に」依存させるのが、カルトです。

そう考えると、私が言うところのreligionは「”正しさ”の依存対象」であり、religiousは「”正しさ”への依存心」であり、post-religionは「”正しさ”への依存という依存症からの脱却」とも言えるかと思います。

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