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2025年大阪・関西万博を「Post-religion時代の新しい巡礼ベースキャンプ」に

今さら万博?

2025年、大阪・関西万博が開催されることが決定しました。

今さら万博?
偉い人たちが招致成功を喜んでいたけど、本当に喜ぶべきことなのか?
未来の世代に負の遺産を増やすだけではないか?

そんなふうに感じた人、多かったんじゃないでしょうか。
他ならぬ、私もその一人です。

万博は大規模な国家事業であると同時に、創造性が求められる事業です。
しかし、「創造的な国家事業」というものが、私にはどうしてもイメージできません。

経費も心配です。
2020年の東京五輪、当初は「世界一コンパクトな大会」を目指して国の負担額は1,500億円の計画だったものが、その後、膨らみに膨らんで3兆円に。
今回の万博も、どうなることやら。

しかし、すでに招致が決定してしまいました。
この後始末、誰がどうつけるんでしょうか?

なんて思っていたところ、建築家の活動領域を広げる最前線の建築家、豊田啓介さんが、大阪・関西万博にワーキンググループ委員として様々な提言をされていることを知りました。

豊田さん自身も私と同じように、当初は「今さら、万博?」と思ったけれど、その機会を前向きに捉え直し、少しでも良い形で実現できるよう、建築家の視点から貢献できることをされているそうです。(インタビュー記事をぜひお読みください)

私は、文句を言うばかりの自分を恥じました。
文句もいいですが、それだけ言っていても現状は良くなりません。
決まってしまったものは仕方がない。なら、少しでもマシな方向を考えてみよう。

というわけで、まずは経済産業省が出している報告書『「新しい時代の万博」の具体化に向けて』にある、ワーキンググループ委員と有識者の提言にざっと目を通しました。多くの著名な有識者がそれぞれユニークな視点でコメントしているので、読むだけでも面白いです。

https://www.meti.go.jp/press/2019/07/20190729003/20190729003-2.pdf

そして、豊田さんがFBで言っていた、

「ぜひ読んで、こんなの欲しい、あんなのできるはず、俺ならこういうの実装できる(からこういう枠組み準備してくれ)的な分野ごとのウィッシュリスト、ぜひどんどん具体的かつ実効的(かつちゃんと先進的)な形で、どんどん勝手に声を上げてください」

という言葉に勝手に後押しされつつ、以下、有識者からまだ出されていない独自の論点で、私なりに声を上げてみたいと思います。

「巡礼」というテーマ

最初に、結論から言います。

「巡礼」

を、大阪・関西万博の中心コンセプトに持ってくるのはどうでしょうか。
大阪・関西という土地に万博会場を設置する2025年的意義は何かといえば、私はズバリ「巡礼のベースキャンプ」だと思います。

「巡礼」といっても、特定の宗教や宗派に紐づく宗教行為というわけではなく、2025年のpost-religious意識にフィットした、次世代型の「精神性を高める修行の旅」くらいの広い意味で捉えてもらえれば幸いです。

なぜ「巡礼」か。以下、その理由を述べます。

万博は、世界中から人が集まることが期待される博覧会です。

しかし、多くの人が「なぜ、今さら、万博?」と思うのは、2025年のconnected社会において、「わざわざその場所へ行く」意味を見出すためには、よほどの理由が必要だからです。昔であれば、ひとつの場所にお金をかけてハコを作って何かすごいものを寄せ集めるだけで、人が殺到したのかもしれませんが、今それはありえません。2025年ならなおさらです。有識者のコメントに「パビリオン型の展示はもう要らない」「大型映像主体の展示は避けたい」「リアルな体験を重視したい」などの意見が多かったのは、そういった問題意識の表れでしょう。少なくとも、パビリオン中心の従来型の万博は、すでに完全に時代の役割を終えました

そんな時代に、わざわざリアルな場を設定して、そこに世界中から人が集まるためには、土地のストーリーが必要です。夢洲という会場の土地そのものに世界中の人が魅力を感じて集まるわけではないでしょうから、大阪・関西という広域で見てみましょう。

パリでもなく東京でもなく、大阪・関西という土地で万博を開催する2025年的意義は何か。

マインドフルネスと巡礼

私が最近注目した記事を二つ、紹介します。

まずは一つ目。

「今世紀最大のイノヴェイションは、月旅行でも空飛ぶ車でもない。古代からの夢、幸せの民主化を実現するトランステックだ。」

あらゆる人に読んでいただきたい記事ですが、この中に「ポスト資本主義システム構築のドライバーは、Co-Working、Co-Living、そしてCo-Experienceへ」という小見出しがあります。

この記事の著者である山下悠一さんとやりとりさせていただく中で、「お寺はまさにトランスフォーマティブエクスペリエンスセンターとして再定義すれば、食、住、教育、地域活動、インバウンドと、日々の生活を通じた、学びの場に生まれ変わり、ビジネスとしても成功すると思っています」というメッセージがありました。このトレンドはお寺や仏教の話だけでなく、2025年以降の世界を考えていく上でも、とても重要だと思います。

有識者のコメントに「2025年に技術がどこに行っているか、予測がつかない」という問題意識が見受けられました。私の意見としては、テクノロジーの進化を踏まえることは大事だとして、それと合わせて、人類の関心がどこへ向かっていくかについても、よく考えておく必要があるはずです。

万博のテーマにすでに組み込まれているSDGsやウェルビーイングは、それぞれ大事なトレンドを押さえていると思いますが、それらに通底するテーマとして、私は「人類の意識変容」があると思います。

これからの時代、人間の探求のフロンティアの一つは脳、意識、心の領域になります。SDGsにしても、人間の意識そのものが変わっていかない限り、せいぜい利害調整の枠組みがマシになる程度で、目標の到達には程遠いでしょう。また、ウェルビーイングにしても、肉体的な健康や、社会的な幸福だけでなく、精神的な充足感や、スピリチュアリティの高まりといった、より高次の意識を前提とした包括的な概念として注目されています。

私は報告書の中に「マインドフルネス」という言葉がほとんど出なかったことに、驚きました。(「巡礼」という言葉も一つもありませんでした)しかし、これからの世界のともし火となるべき世界の若い人たちの関心事は、今やお金ではなく生き方や精神性を高めることに向かっています。(そして日本は悲しい哉、高齢者に富が集中して、若い人に最低限のお金すら行き渡らず、若い人の関心がそこまで届く余裕がないという、別の問題がありますが)いずれにせよ、この万博においてこれからの世界にインパクトをもたらしたければ、このトレンドを踏まえることは、とても重要ではないかと思います。

「巡礼」という語に関して、ウィキペディアにはこうあります。

各信者の居住地にも宗教施設(教会堂、仏閣、神社など)は存在するのだが、それらに赴く行為のことを「巡礼」と呼ぶことは無い[1]。したがって、巡礼というのは、我々の居住地、つまり日常空間あるいは俗空間から離脱して、非日常空間あるいは聖空間に入り、そこで聖なるものに接近・接触し、その後ふたたび もとの日常空間・俗空間に復帰する行為、と言うこともできる

私は、「巡礼」という語を、特定の宗教には紐づかない形で「Spiritualityの探求の旅=Post-religious時代の新しい巡礼」という意味合いで使っています。

観光の終焉、巡礼の始まり

続いて、二つ目。

【Inside/Outside】観光の終焉を宣言したコペンハーゲンの歩き方 #3 一時的市民として体験するコペンハーゲン

「観光の終焉」は自分の感覚としても共感します。

記事によれば、デンマークのコペンハーゲン市が発表した観光に関する新しい戦略のポイントは以下のようなものだとか。

・観光客として扱われたい観光客は激減した
観光客は一時的な市民として接するべき、コミュニティに貢献できるはずであり、それがきっと魅力になる
・コペンハーゲン市民の生活こそが観光資源
・リトルマーメイドはなにも気持ち的なつながりを生まないが、市民は生んでいる
・マスメディアでキャッチコピーを届けることより、市民ひとりひとりからストーリーが伝わっていくことが大切
・ひとりひとりの体験が伝わっていくことがコペンハーゲンのブランディングの成功指標となる

では、「観光の終焉」の先に何があるのか。

個人的には、“Spiritual but not religious”な人たちが増えるPost-religionの流れにおいて、「観光の終焉」後に求められるのは、”Post-Religious Pilgrimage”(ポスト宗教的聖地巡礼)ではないかと睨んでいます。

2025年の万博の主要テーマはSDGsです。世界的に合意がなされた地球規模の切迫した課題解決を主要テーマに据えるわけですから、その成否は来場者数を競うものでも、経済効果を測るものでもないでしょう。万博によって、2025年以降の人々の意識変容にどのようなインパクトを与えられるのか、それに尽きると思います。「あの万博を境に、人類の意識が変わったよね」と後世に語り継がれる万博にならなければ、SDGsを主要テーマに据えた万博としては意味がありませんし、人類にも未来がありません。

ならば、世界から万博へ集う人たちを、単なるツーリストでなく「意識変容=マインドセット・シフトを求めて旅する現代の巡礼者」と捉え直し、デンマークの新しい観光戦略のように、広域関西あるいは日本全土を一つの「修行道場」と見立てて、一時的な巡礼者・修行者としてお迎えしてみてはどうでしょうか。

繰り返しますが、未来に影響力のある世界の若いリーダーたちが、日本/大阪で開かれる万博に対して、わざわざ現地に足を運んでまで参加する価値を感じるものといえば、テクノロジーでも、観光でも、ハコの中の体験でもありません。「大阪/関西という固有の土地が舞台環境として必然性を持つ、強くて深いストーリーを伴った特別な体験」こそが、それだと私は思います。

巡礼ベースキャンプとしての大阪・関西の優位性

世界から日本を訪れる人にとって、大阪を中心とするGreater関西の魅力といえば、日本を代表する聖地への巡礼のしやすさではないかと思います。京都・奈良を中心に有名な神社仏閣を多数擁することはもちろんですが、高野山から熊野、お伊勢参り、四国遍路、少し足をのばせば出雲大社もあります。巡礼の視点から見ると、東京にはない地理的優位性が、大阪にはあります。

そしてもう一つ。巡礼をするにあたってとても重要なことは、安全性です。治安がよく、安心して道を歩けるからこそ、巡礼が成り立ちます。オリンピック・パラリンピックのように非人道的な条件で無理やり会場にボランティアを集めるくらいなら、四国遍路の「ご接待」のように、関西全域で人々の「ご接待」強化期間として位置付けるのもいいかもしれません。どこでも安心して自由に巡礼できる国として、日本の「治安の良さ」をアピールするにもいいのではないでしょうか。

「巡礼」といっても、伝統的な巡礼道に必ずしもこだわる必要はありません。この万博を機に、2025年以降にあるべきpost-religiousな巡礼道を新たに開発しても良いでしょう。日本では、あらゆるものが道になります。仏道はもちろん、神道、武士道、茶道、華道、柔道、最近では金融道、果てはラーメン道など、社会の変化とともに「道」と称される分野の幅も広がっています。もっと言えば、巡礼道はあくまでもモデルコースに過ぎず、巡礼者が自分なりの道を、大阪・関西・日本を舞台に、歩んでみれば良いのです。

道元禅師は正法眼蔵でこう仰っています。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。

道とは何か。道元禅師の言葉は、仏道を修める者だけでなく、あらゆる道を歩む者にも通じるところがあるのではないでしょうか。いかなる道であれ、その道をひたむきに追求することで、日本人は自己を見つめ、再発見し、成長を遂げるのです。その意味で、post-religious時代の「巡礼」コンセプトは、日本発の独自性を保ちながらユニバーサルに広がりうる射程を持っているのではないかと思います。

私が最近、よく話している「post-religious age」という時代背景を含めると、夢洲会場を万博向けに英語で表現するならば、

“The base-camp for the post-religious pilgrimage”
(ポスト宗教的巡礼のベースキャンプ)

となるでしょうか。

いえ、「巡礼」を中心コンセプトに据えるからって、真面目なもの、精神的なもの、崇高なものにしなければいけないということはありません。というかむしろ、「巡礼」をコンセプトに据えた時、会場となる夢洲は巡礼者が集うベースキャンプですから、そこは聖地に向かう入口の門前町的な場所です。最新テクノロジーの陳列展示や、日本食を楽しめる屋台村や、あらゆるコンテンツが渾然一体と集積した「なんでもあり」の楽しくゴッタ煮感満載のコミュニティスペースも、大いに結構ではないでしょうか。そこにもまた、あらゆるものが渾然一体となったエネルギー溢れる大阪という都市が会場となる必然性が生まれます。もし、そのようなポジショニングが成功すれば、大阪の夢洲は「2025年以降、人類がそのspiritualityを探求する巡礼の世界的拠点」として将来世代の遺産になる可能性があるのではないかと思います。

世界中の「聖性」を集めてみる

もう一つ、万博というのは世界からの出展も集まる博覧会ですので、「巡礼」をテーマに掲げるのであれば、万博会場には世界中の「聖性」を集めて、そこへ行くだけで世界の聖地を巡礼した気持ちになれるような仕掛けを作っても、面白いかもしれません。

もちろん、本論で述べているように、巡礼というのは実際に足を使って現地を訪ねてみることが一番の価値ですが、リアルな巡礼へ誘うコンテンツを各国の展示に加えることは、悪くないでしょう。各国の展示に「聖地」という要素を加えることで、万博会場内を歩くことにも単なる移動とは違う特別な意味を付与することができるかと思います。(そして、多くの有識者が懸念していた「待ち時間問題」についても、それをクリアする何か面白い仕掛けが作れそうな気がします)

「問題解決」よりも「問題発見」を

改めて、大阪・関西万博のテーマを確認しましょう。

「いのち輝く未来社会のデザイン」
〜Designing Future Society for Our Lives〜

未来へ向けたテーマというのは総じて前向きなものを掲げるものなので、それはいいとしても、日本の現状は正しく見る必要があると思います。

日本はもはやテクノロジーでも、経済でも、世界の中で競争力を失いつあります。世界から日本への観光客は確かに増えていますが、かつての「お金持ちの技術大国」としての魅力ではなく、「ちょっと面白くて、値段の割に割にクオリティが高い、コスパのいい国」という魅力が、それを牽引しているうように思います。

むしろ、国内に目を向ければ、相対的貧困が拡大し、若年層の自殺率も高く、たくさんのいのちが輝きを失っています。しかしながら、人口規模はそれなりに大きく、歴史もあるぶん、その重みに引っ張られて、社会の自己変革ができません。有識者の意見に「万博を機に、日本人が日本のすごさを再認識し、自信を取り戻してほしい」という意見がありました。私は半分賛成、半分反対です。万博が、日本のテレビなどに蔓延する自己満足的な「日本すごい」コンテンツの陳列で終わってしまったら、それこそ日本の恥です。

それよりも、日本の現状について良いところも悪くところも含めて、世界から集う「現代の巡礼者」に日本各地をその足で歩いてその目で見てもらって、夢洲のベースキャンプでは感じたことや考えたことをフィードバックしてもらいながら、新たな「課題発見」につなげていくことができたら、成熟した「日本すごい」になると思います。自らの弱みも含めてさらけ出す姿勢が、現代のリーダーシップです。「いのち輝く未来社会」を考えるにも、今、自分のいのちが輝いていると感じられない人がたくさんいる、この日本の人々のリアルな姿に目を背けず、それを世界中の知恵に見て触れてもらうことが有効ではないでしょうか。

「課題の解決」といいますが、課題は発見された時点で解決のフレームが決まります。最もクリエイティブであり知恵が求められることは、「課題の発見」の方です。せっかく世界から叡智が集まる万博という機会に、彼らに「課題の解決」ではなく「課題の発見」に力を貸してもらってはどうでしょうか。そこから生まれた新たな課題設定のフレームワークは、必ずや日本のみならずこれからの全人類の課題解決にも役立つものと思いますし、それが生まれる背景として日本・大阪・関西という要素が貢献できたとしたら、それは世界からの賞賛に値します。

なお、有識者の中には「未来にレガシー(遺産)を残したい」という方が多いですが、どうなんでしょう。もちろん、一過性の打ち上げ花火よりは、何か将来に残るものを作れた方がいいと思いますが、仏教では諸行無常、一切は変化するといいます。「レガシー」といってもそれとて一時的な結果に過ぎませんので、あまりモノとして残すことにこだわりすぎないほうがいいのかなとも思います。(どうしてもモノとして100年後に残るものを作りたければ、大仏を作りましょう)

それよりも、人類の意識の変容において、後世から振り返った時に「あの万博から、みんなの意識が変わったよね」と言われるような万博になったら、本当に素晴らしいと思います。

なお、一般社団法人2025年日本国際博覧会協会が掲げる、

・Saving Lives 救う
・Empowering Lives 力を与える
・Connecting Lives つなぐ

という3つのフォーカスエリアは、「次世代の巡礼者に期待される行動指針」であり、

・出会う
・共有する
・学ぶ

3要素は、「Post-religious時代の巡礼のベースキャンプたる万博会場に期待される機能」として収まります。

最後にもう一つだけ。

1893年、アメリカのシカゴで「万国宗教会議」が開かれました。

万国宗教会議は、シカゴ万博の関連事業の1つとして計画されたもので、期間中に多くの国際会議が開かれる中、アメリカのプロテスタント信者を中心に「世界の偉大な宗教指導者を史上初めて一堂に集め、精神界の万博を開こう!」という機運が高まり、実現したものです。

それから132年経った2025年、人々が”Spiritual but not religious”という感覚を持つPost-Religion時代になります。これまでのReligionが社会的役割を終える一方で、Spiritualityが強く求められる世界におけるリーダーとして、日本の精神文化が果たしうる役割というのは、とても大きなものがあります。

私は、この度の大阪・関西万博が、シカゴから100年以上の時を経て、The Future of Religion and Spiritualityというテーマにおいて、大きな成果を残すことを期待します。そして、それは私が僧侶という立場であるというひいき目を差し引いても、あながち的の外れた期待ではないのではないかと思っています。

以上、誠に勝手ながら、

・大阪・関西万博全体のコンセプトとして「巡礼」を据えてみてはどうか?
・“The base-camp for the post-religious pilgrimage(ポスト宗教的巡礼のベースキャンプ)”として万博会場を位置づけてみては?

という私のアイディアを提案させていただきました。

もしご関係各位の目にとまり、何かしらのご参考にしていただければ、それに勝る喜びはありません。


"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!