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宗派はふるさと、信仰は継承。

「お坊さんになんでも相談してみよう!」の会を開くと、すごく良く聞かれる質問の一つは、「イエの宗派って大事なんですか?」というもの。この質問は、聞く人によって意図が全然違います。

・宗派で決められた仏事のやり方を守らないと、バチが当たるのか心配
・菩提寺に耐えられず、もっと評判の良いお寺に移るのに、宗派を変えていいか
・親の葬式の時にイエの宗派を葬儀社から尋ねられて、答えられなかった
・夫婦それぞれ実家の宗派が違い、どちらを優先すべきかわからない
・自分が気に入ってよく出入りしているお寺が、実家の宗派と違って後ろめたい

この記事では、いま私たちが「イエの宗派」というものとどう付き合えばいいのか、考えてみたいと思います。

檀家制度の始まりは信仰と無関係

まずは歴史的に檀家制度がどうやって始まったか、押さえてみましょう。お坊さんでも案外忘れがちですが、江戸時代に始まった檀家制度は、もともと「信仰」とは関係がありません。まったく関係がない、とまでは言わなくとも、ほとんど関係がない、と言って差し支えないでしょう。

「檀家制度」が幕府の主導で確立されたのが、江戸時代でした。すべての日本人は、本人の信仰と関わりなく定められた特定のお寺に檀家として割り当てられました。それを拒むことは、キリシタンの嫌疑をかけられて拷問を受けるなど、命の危険に関わることでしたので、民衆はそれをほぼ強制的に受け入れざるを得なかったようです。結果、お寺は幕府の出先機関として民衆の戸籍管理を引き受けることとなり、また民衆の葬儀を担当することとなりました。「檀那寺に葬儀でお経を読んでもらう」ということが、慣習として定着していきます。それにより、お寺は社会の中で確固たる地位を得て、それ以来、今に至るまで檀家制度は仏教と社会の関係を規定し続けてきたのです。

今でもときどき「うちのイエはどの寺の檀家か」ということが話題になるように、檀家制度はしぶとく生きています。いや、江戸幕府が倒れて明治政府に変わった時点で、制度としては終わったはずです。しかし、先祖を大事にする日本人の伝統が、代々の檀那寺に先祖を供養してもらうというかたちで、寺檀関係はかろうじて維持されてきました。「檀家制度の崩壊」などと言いますが、むしろ今まで保たれてきたことが不思議なくらいで、制度を設置した主権者もそれを定めた法令もとっくの昔に死んでしまったにも関わらず、その残滓が亡霊のように生き続けた制度設計の完成度に、逆に驚くべきでしょう。このようんに、「檀家制度」の始まりは、宗教的なものというより制度的・慣習的なものでした。

イエという宗教

日本人ほど先祖のお墓参りに熱心な人たちもいないのではないかと思います。先祖供養を大切にする日本人のプリミティブな宗教感覚にうまく乗っかるかたちで、日本仏教は日本人の先祖供養のニーズに対し、圧倒的なシェアをもってその役割を担ってきました。純粋に仏法が広まることだけを考えるなら、お寺が世の人々の葬儀や法事をしなくとも、お寺が境内に墓を持たずとも、必ずしも問題はないかもしれません。しかし、「葬式仏教」と揶揄されるほど、日本仏教は葬儀を熱心に行ってきました。実際、日本人の多くが僧侶と接するのは、お葬式ではないでしょうか。

お寺が進んでその役割を引き受けてきたのには、いくつかの理由が考えられます。

ひとつには、仏法を説く機縁を作るのに役立つということです。葬儀というのは言うまでもなく、個人の死を悼み、送るために集まる儀式です。死が身近にない現代社会において、他人の死は間違いなく多くの人にとって自らの死、自らの人生を顧みる貴重な機会であるに違いありません。生老病死の苦しみを解決する仏法を説くにあたって、葬儀の場に仏教の僧侶が立ち会うということは、理にかなっています。

また、経済的なことも関係したでしょう。先祖への気持ちの強い日本人にとって、葬儀、法事、お墓といった先祖供養に関する事柄には必然的に力が入ります。その役目を担うことは、寺院の運営においてより安定的な仕組みを作ることにつながり、寺院の運営にとっても役立ったはずです。

「時代が変わっても日本人は先祖を大切にする。先祖を大切にするということは、先祖代々の菩提寺で法要を丁寧に勤めることである」という論理が通用して、日本人が先祖を大事にする気持ちを持ち続ける限りにおいて、檀家が菩提寺を支える構図が成り立ってきました。しかし今、檀家と菩提寺の先祖代々の付き合いという慣習に守られてきた寺檀関係が、イエの崩壊によって、連鎖的に破綻しつつあります。一般の家庭において核家族化や単身世帯化、都市部への移住が増え、「うちは代々、ここのお寺の檀家です」という意識が薄れてきたからです。

人が生きていく上で、安心の基盤になるのが、共助的コミュニティの存在です。日本人が大切にしてきた最小単位の共助的コミュニティが、家族でありイエでした。檀家制度の始まりはどうあれ、一族の歴史として代々大切に受け継いできたものであるという思いから、イエの宗派というものも大切にされてきたのでしょう。共助的コミュニティを広い意味での宗教と呼ぶならば、ある意味では「イエや家族という名の伝統宗教」を受け継ぐことの象徴として、お墓や宗派が存在してきたのではないかと思います。

これらのことを踏まえると、最初の質問にはこんな風に答えられそうです。

・宗派で決められた仏事のやり方を守らないと、バチが当たるということもありませんし、それが先祖をないがしろにするということにもならないでしょう。

・もし、自分の菩提寺に耐えられず、別の宗派だけどもっと評判の良いお寺に移りたいと思ったら、それを妨げるものはありません。ただ、属する地域やコミュニティの慣習において、そのアクションがどのように受け止められるか、よく考えた上で判断することをお勧めします。

・親の葬式の時にイエの宗派を葬儀社から尋ねられて、答えられなかったら、それは自分の家族の歴史に目を向けるいいきっかけかもしれません。

・夫婦それぞれ実家の宗派が違い、どちらを優先すべきかわからないとき、正解はありません。自分たちは何を大切にし、何をどう受け継ぎたいのか、よく価値観を話し合われるといいですね。

・自分が気に入ってよく出入りしているお寺が、実家の宗派と違うからと言って、後ろめたさを感じる必要はありません。イエの宗教とどう付き合うかということと、自分自身の信仰は、必ずしも重ねなければいけないことはないでしょう。

結局は、自分自身がイエや家族というものをどう承継したいのかということに尽きます。

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