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新刊無料公開vol.1「突然の帰郷」 #地元がヤバい本

※この記事では、11/15に刊行される『地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門』(ダイヤモンド社)の発売記念として、本文を一部無料公開します。

「......ちょっとお母さん話したいことがあるから、一度、家に帰ってきて」 スマホに珍しく表示された「母」の文字に驚いて電話に出たら、いつになくか細い声が聞こえた。深く話を聞いてはいけない気がした僕は、 「ひとまず週末にそっちに一度帰るから、いったん切るね」 とだけ伝えると電話を切り、手元の画面をじっと見つめた。
気丈な母の弱った声に、僕はあまり詳しいことは聞かずに帰省することにした。実家を離れてからもう 10年以上。年に一度帰ればいいほうで、親父が死んだときも数日帰っただけ。母は放っておいても大丈夫なんだと思っていた。いや、そう思い込みたかったのかもしれない。
母が何を言いたいのか、僕には何となくわかった。ずっと頭のどこかにあったけど、見て見ぬふりをしてきたたくさんのこと。東京で余裕のない生活に追われ、若いつもりだった自分もいつの間にか30を越えていた。
スマホをポケットにしまって、ため息をつく。慣れたはずの新橋の賑やかさがうっとうし い。電話口から聞こえた虫の音が、まだ遠くに聞こえる気がした。

今日は勤めている中堅電機メーカーの新製品発表日ということで、その打ち上げのあと、数少ない気心の知れた3人の同僚と飲みなおしにきていた。母からの電話を終え居酒屋に戻ると、飲みかけだったビールはもうぬるくなっている。何も言わずに静かに席に座ると、仲間内から声がかかった。
「おい瀬戸、なーに浮かない顔してんだよ、女にでも振られたか」
もともと飲み会は得意ではない。僕は人並み以上の面白い話もできず、大抵はせいぜいいじられるだけで終わる。うまく言い返すことができるわけでもなく、愛想笑いで返すのが精々だった。 「い、いや、違うよ。実家の母親から電話があってさ」
「え? 何かあったのか」
同僚たちは心配してくれたが、「うん......。多分大丈夫だと思う」と何となく濁した。
その後なんだかんだで終電近くまで連れ回されたものの、酒はあまり進まなかった。カラオケに向かうという同僚たちと別れ、家へ帰る道のりは何となく電車に乗る気にならず、2駅ほど歩いた。

「お店は私がどうにかするから、あんたは東京で頑張りなさい」 親父が死んだのは5年前だった。報せをもらったときは、あぁついに逝ったかと思うだけで、自分でも驚くほどに深い感情は湧かなかった。
店の仕事ばかりだった親父とは一緒に過ごした記憶があまりない。親父は何を言っても「ああ」とか「そうか」くらいしか返さないため、引っ込み思案の僕との会話は弾まなかった。そ の反面、母はよく喋り、ちゃきちゃき自分で行動するタイプだ。独身貴族生活も長く、昔は相当にやんちゃをしていたらしいが、なぜか無口で職人肌の親父と見合いで収まった。本人は同情だと言うが、子どもにとっても不思議な夫婦だ。
「せっかくお父さんも頑張ってきた歴史ある商売だから、やれるところまでやるわ。ほら、結局、私がこの店を切り盛りしてきたみたいなもんじゃない。大丈夫、なんとかなるわよ」
その後も、あんたは自分のことを考えてればいいの、と繰り返し母は言った。どうにか自立したとはいえ、頼りない僕の姿のほうが店よりはるかに心配だったのだろう。
そんな気丈な母も、さすがにいよいよ体力が持たなくなったのか。まあ、無理もない。実家のある商店街は見るからに寂れていたし、もはや商売ができる状況ではなくなっていることはよくわかっていた。うちの実家がどうにか持っていたのは、昔からの卸先があったことと、家賃がかからなかったからにすぎない。
もともとうちの実家は、飲食店に食材を卸していた。15年くらい前からは、増加する老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅などを新たな卸先にして、どうにか経営が成り立っていた が、卸先を持たない近所の小売店は次々と閉店していった。
鮮魚店として創業し、専門店が厳しくなった60年代に、祖父が仲間の肉屋と八百屋を集め、 生鮮3品、つまり肉、野菜、魚の全般を扱う店に転換。当時にすれば画期的で、人口も急激に増加していた時代、店は大繁盛した、らしい。
年代に親父が商売を継いだが、時期も悪かったし、商才もなかったのだろう。結局、かつての繁盛店も急速に商売を小さくし、最後は両親だけで切り盛りしていた。ただ、早めに手じまいしていったのはよかったのかもしれない。やせ我慢をして規模を維持しようとした店はみな、とうに潰れてしまっていた。
昔の武勇伝は、数少ない親父との会話でも一応記憶に残っている。普段無口な親父が唯一饒舌になるときだった。 「いいか、朝トラックで仕入れたものが夕方にはすべて売り切れたんだ。お金がレジや金庫に入りきらないからよく段ボール箱に金を投げ入れたな。一日に何度も取引していた信用金庫の担当が金の回収に来たもんだ。まあ、うちがやっていたのは今で言うスーパーの走りだな」「スーパーにしては、ずいぶん小さいもんだよね」と僕が言うと、「小さいは余計だ」とどやされた。
自分では人にはいつも「うちは小さい店なもんで」なんて謙虚に言っていたくせに。でも、 今となっては、そんな小さな誇りもわかる。親父の中では、祖父のもとで店を回し、爆発的に 儲かっていた時代のまま時計の針が止まっていたのだ。
僕が生まれた 年代には、地方にどんどん進出してきたダイエーをはじめとする大手スーパ ーに攻められ業績は落ちていった。つまり僕は、下がり調子の商売しか見ていない。
地元の商店街は、その後は郊外にできたモールの猛攻もあり、まったく太刀打ちできないまま衰退していった。

新幹線で東京から約1時間、新幹線の駅から在来線でさらに20分ほど行くと、見慣れた地元の駅に着く。駅舎だけは最近改装されて立派になってはいたが、ダイヤはスカスカだ。朝夕通学で使う人がいるだけで、車移動が中心となった地方社会では、駅はもうまちの中心ではない。
「あ、あそこももう更地になってる」
駅前は来る度に開いているお店が少なくなり、さらに最近は更地や駐車場も目立つようになった。更地になってしまうと、そこに何があったのかなんて不思議なほど忘れてしまうもの だ。地元のはずが、地元ではないような錯覚に陥る。


駅前から実家までの道のりを歩いていくと、自分が中学生くらいまではそこそこ人が歩いていた商店街は、いまや完全なシャッター商店街となっていた。しかし、別に不幸なわけでもない。都会の人はあまり知らないが、 意外とそういう店の所有者たちは豊かなのだ。
「いい人がいれば貸すんだけどねぇ」「2階に住んでいるから1階は貸したくないね」「年に何度か帰ってくる息子家族のために空けてあるの」「今さら貸して面倒なことがあると困るしな」
近所の人たちが集まって話をすると、そんな話ばかりだった。 自分でさえ商売が成り立たないその立地に、バブルのときの影響※1か悪気なく設定してしまう高すぎる家賃。

バブルのときの影響※1…日本の商業地区の不動産価値はバブルに向けて戦後 1955年から 100倍ほど跳ね上がり、その後価値は1/3 とも1/5 ともいわれるくらいまで低下した。ところによってはもはや値段がつかないような状態にまで落ち込んでいる。

貸し手へのアピールもやる気のない不動産屋に任せきりで、店のシャッターにはいくつもの不動産屋が貼った「貸し 物件」のプレートがかかっている。
あるとき母に、「こんなに不動産屋のプレートかけてたら、誰も借り手がいないことがあからさますぎて、逆効果だよね」と言うと、「みんな、困ってないからね。うちみたいに商売している人間が一番大変よ」 と、笑い混じりに言われたものだ。
ほとんどの不動産オーナーは殿様商売に慣れきっていて、まったくやり方を変えようとしない。いまだに借りる側より貸す側が有利と思い込んでいて、声がかかれば「貸してやる」という感じだ。
一方、地元の友人から聞いた話では、大手のショッピングモール※2の専門店街も楽ではなく、最近は有望そうな地元店にはフリーレントといって家賃なしで一定期間貸してくれたりするらしい。

大手のショッピングモール※2…かつて商店街の中小店舗が持っていた地方市
場を、90 年代以降規制緩和で出店の自由度が増したショッピングモールはその効率と規模で席巻した。しかし、今や地方小売市場の低迷と、モールが増えすぎたことによる競争激化、ネット市場の急成長などによってモール業態の売り上げ・利益ともに陰りが出始めている。そのため、既存店舗を統廃合したり、強い地元テナントを誘致するために好条件を出すようになっている。

テナントからすればどっちがよいか、言うまでもない。駐車場がない、人通りがない※3とぼやく以前に、テナントが入らない理由は明らかだった。 

駐車場がない、人通りがない※3…商店街の一部の人たちは、「駐車場がないから客が来ない」などと言い訳を繰り返してきた。しかし、実際に国や自治体が駐車場施設を商店街近くに整備してみたら、誰も利用せず潰れたケースは多くある。一方で、駐車場が満足になくても客が絶えない店は路地裏などに多く存在している。結局は、競争力。モールに人が行くのはそもそもモールに行きたい人が多いからであっ て、無料の駐車場は競争力の補完的機能でしかない。


駅から歩いて5分ほどで、実家の前に出た。そのまま横の細い道から裏側に回り、小さな庭側の勝手口から入る。店側から帰ると怒られるので裏口から入る昔の癖が、今でも抜けない。
「ただいま」
と言うと、奥から
「はーい、おかえりなさーい」 と、聞き慣れた声が聞こえた。その声は、先日の電話口より元気なようで、まずは安心した。 「なんだよ、電話の声が暗いから予定を調整してまで帰ってきたのに」
あまりに元気そうな姿に拍子抜けする。 「ほら、そのくらいの感じ出さないと、あんた帰ってこないでしょ」
作業する手を止めないままに返す母。さすが、息子のことをよくわかっている。古ぼけた扇風機は大きな音を出しながら、食卓の上に並んだおかずの湯気をかき回していた。

一段落ついたところで、「あのね」と、母が話を切り出した。 「お父さんが死んでからもう五年。頑張って続けてきたけど、そろそろ商売はやめて、せめて何年かは昔の友だちと旅行したりまた遊びたいと思ったのよ。けど、そんな話しても、どうせ聞き流されるから、少しだけ演技しちゃった」
「なんだ、心配して損したよ」
「あらやだ、なかなかの名演技だったってことね」 「そんなことより、この店はどうするつもりだったの?」 「そうね、店と家を売って、私はどこかの家借りて住もうかな。......そのあたりはこれから決めるわ。とはいえ、商売やめるためには銀行と話したり、取引先と話したり、いろいろあるからそっちが先ね。あなたも一応長男なんだから、どうするか相談しなきゃと思って来てもらったの」「相談するっていっても、もうやめることは決めたんだよね。けど、伝統ある店だから、とか親父が死んだときは言ってたのに......急にどうしたの?」「いや、お父さんが死んだから、はい店やめます、店も家も売りますなんて言ったら、親戚から何言われるかわかったもんじゃないわ。だからすぐにやめなかったのよ。そもそも、あなたが店継がなかったことでいろいろ言われないように、私が継ぐってことで話を収めたわけ。石の上にも三年のところを五年も頑張ったんだから、もうお父さんもまわりも、許してくれるでしょ」

石の上にも三年。いつも母が口酸っぱく言う言葉だ。そんな母が、筋だけは通してやめることを決断したのだから、もう意思は変えられないのだろう。 「会社の廃業手続きとかってどうやるのか、調べてみるよ。会計事務所の先生とかに話はしたの?」「あなたに話したのが初めてよ。私難しいことわからないから、そのあたりは調整してやってちょうだい。一人息子なんだから、頼むわよ。さーて、今晩は何にしようかしら」「いや、いま昼ご飯食べたばっかじゃん!」
大胆な母だけに、細かなことにはまったく関心がなさそうだ。
事業を始めるとか、事業を継ぐとかいう話を聞いたことはあったが、事業を畳む方法は聞いたことがない。
「店ってどうやめるんだろうな」
こうして年に一度も帰らない実家の整理のために、月に何度か東京と行き来する生活が始ま った。まさか店を閉める手続きのためだけの帰省が、後に自分の人生を大きく変えることになるとは、このときはまったく知るよしもなかった。

(次回へ続く)

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