新井浩文事件の起訴にみる検察庁の変化

新井浩文が起訴されている強制性交等罪被告事件について、産経の詳報で、被害者の尋問内容を知った(https://www.sankei.com/affairs/news/190902/afr1909020010-n1.html)。

被告人が有名俳優であったことで世間の注目を浴びているが、強制性交等罪(刑法177条)の解釈として、プロの法律家が注目するべき事情がある。

強制性交等罪の「暴行脅迫」は「被害者の反抗を著しく困難にする程度のものであること」が必要である。
その程度は「相手方の年令、性別、素行、経歴等やそれがなされた時間、場所の四囲の環境その他具体的事情の如何と相伴って相手方の抗拒を不能にし又は此れを著しく困難ならしめるものであれば足りる。」のが、判例である。

平成29年7月に、性犯罪に関する刑法が改正された。被害者団体は、暴行脅迫要件の撤廃・緩和を求めたが、判例は暴行脅迫の程度を具体的事情によって判断することになっていたことが、暴行脅迫要件の改正を見合わせる理由になった。

しかし、改正前の実務では、押し倒す、腕を押さえるといった、通常の性行為に付随し得る行為を、暴行脅迫として、刑法177条で起訴されるのは厳しく、被害者がローティーンであるとか知的障害があるなどといった特殊な事情がない限り無理と言ってよかった。

ところが、新井浩文事件の被害者の尋問を読むと、被告人がしたのは、被害者の「手を取って股間に押しつけた」「腕を強く引っ張った」「女性の膝の間に身を入れた」など、通常の性行為に付随し得る行為であった。
この被害者は、成人であり、尋問の受け答えから判断する限り、知的能力は高い。

従来、このようなケースでは、起訴どころか刑事立件も厳しかったのである。

では、なぜ新井浩文は起訴されたのか。

平成29年7月改正の附帯決議で、刑法177条の「暴行又は脅迫」の認定について、「被害者と相手方との関係性や被害者の心理をより一層適切に踏まえてなされる必要があるとの指摘がなされていることに鑑み、これらに関連する心理学的・精神医学的知見等について調査研究を推進するとともに、司法警察職員、検察官及び裁判官に対して、性犯罪に直面した被害者の心理等についてこれらの知見を踏まえた研修を行うこと」が、求められた。

新井浩文事件の具体的事情として被害者が述べているのは、部屋が真っ暗だった、体格差があって怖くて逃げられなかったことである。
新井浩文は、身長180cmちょっと。加藤清正、ゴリライモも演れたが、牛乳石鹸のCMではサラリーマン役もしており、「普通」の範疇に入る体格であろう。
それでも、暗い部屋に、二人きりであれば、女性は怖い。
しかし、従来、この恐怖は、検察庁ひいては裁判所で、ほとんど考慮されなかった。

この件が起訴されたのは附帯決議の影響であろう。
被害者の心理状態を適切に評価しており、私は、起訴という終局処分を支持する。

次に問題となるのが、被害者の承諾である。
従来、被害者の承諾は、暴行脅迫と表裏の関係として判断されてきた。
現実に有罪になった判決をみると、「こんなにボコボコにして、承諾も何もないだろう」という感覚を抱くのである。

新井浩文事件では、被害者は性行為に承諾しておらず、弁護人もこの点は争っていない。
争点は、「被害者の承諾がなかったことを、被告人が認識していたか」という故意の有無である。

従来、「手を取って股間に押しつけた」「腕を強く引っ張った」「女性の膝の間に身を入れた」など、通常の性行為に付随し得る行為では、加害者の「被害者が嫌がっているとはわからなかった」という弁解が通る可能性があり、起訴すら難しかった。

新井浩文事件では、事前に、性的マッサージではないことの告知があったという所は、特殊事情といえばそうかもしれない。
被害者も、股間に手を押しつけられた時に「ダメですよ」「これ以上するなら帰ります」と、承諾していないことを明言している。
その意味では、従来でも、被害者の承諾がないことの認識を、認定しやすい事件だったかもしれない。
他方、新井浩文事件では、被害者が、部屋の電気を消すことに同意した、事後に金銭を受領した(ただし、被害者は交付時に、交付の認識なしと証言)という、従来なら、被害者の承諾と取られるリスクのある事情もある。

私個人の意見としては、部屋の電気を消すことへの同意は、「部屋の電気を消すこと」にしか同意していないし、「嫌よ嫌よ」も好きのうちではなく「嫌よ嫌よ」は嫌である。
現代を生きる普通の男性も、そう思って行為を止めるのではなかろうか。

被害者の承諾に関する従来の実務の方がおかしかったのであり、このような状態で「被害者の承諾があった」と誤解するのは認知の歪みであろう。

では、認知が歪んでいたら、故意が否定されるのか。

裁判では、故意の認定は、客観的な事情を総合的に考えて判断される。

たとえば、果物ナイフで、胴体を数回刺して、被害者が失血死した事例で、被告人が「殺そうとは思わなかった」と弁解しても、裁判所は「人体の枢要部を数回強く刺突した犯行態様」自体から、故意ありと推定する。

暴行脅迫を被害者の承諾を表裏として判断していた以上、暴行脅迫ありと判断する基準が揺れれば、被害者の承諾ひいては、その認識としての故意概念は揺れる。

今後数年は「どのような事実を認識していたら、故意ありと推定されるか」というところを巡り、検察官と弁護人で熾烈な戦いが起こるだろう。

検察庁は変化した。
裁判所は変わるのか。
刮目して待つ。

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