国際プロレス末期

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画像2 国際プロレスの試合は1回しか見に行ったことがありません。1981年4月18日のビッグチャレンジシリーズ開幕戦です。国際プロレスは大きな岐路に立った時期でした。この記事を読んでいる方なら誰でも知っていることですが東京12チャンネル(当時)のレギュラー放送が打ち切りになった後の最初の興行です。当時中学1年生の私は学校が終わると後楽園へ急いで向かいました。いつも行く全日の後楽園大会と同じノリで急いだのですが、後楽園ホールに着いても待っている人が誰もいません。2時間くらい時間を潰すと同年代の少年ファンがいました。
画像3 話かけると彼は「国際プロレスしか見に行かない」と言うのです。「なんで?」と聞くと「ホールの入口でスミルノフに襲われそうになったのをラッシャーが助けてくれたから。それで国際しか行かない」と驚きの答えが返って来ました(ホントの話です)。このシリーズの話題はまだ見ぬ強豪、ポール・エラリングとスティーブ・オルソノスキーの初来日と阿修羅・原の凱旋帰国です。ツルッパゲの髭面ラフファイターばかりで見に行く気がしなかったのですが、この試合はぜひとも見たいと思って行きました。先日逝去されたマッハ隼人も好きな選手だったです。
画像4 エラリングはゴングとかで見た写真はもっとナイスガイな感じだったのですが完全なヒールでした。後にウォリアーズのマネージャーになるなんて1ミリも想像ができません。実はこの興行には「第0試合」が存在します。当時、かわいがってもらっていたお兄さんの一人がAさんです。大仁田厚公認ファンクラブの会長でした。全日の試合にしょっちゅう行くうちに知り合って地元も一緒なので遊んでもらいました。
画像5 そのAさんと相棒のBさんは学生プロレスのようなことをしていたはずです。第1試合が始まる前に突如私服の2人がリングに上ってロープワークやドロップキックもやっていたかな。スタッフが近くにいなくて止める人がいないのでしばらく攻防が続き拍手が起こりました(笑)。Aさんとはその後に縁がなくなり気になっていたのですが、プロレスラーになるためにメキシコに渡って日本のインディーでマスクマンとしてリングに上っていたと昨年知りました。Aさんの訃報に接したことがきっかけです。ご冥福をお祈りします。
画像6 このシリーズから浜口が欠場しています。木村、井上、原でトップを取っていくわけです。あまりにも日本陣営の選手が少なすぎと思わざるをえません。1年前は大木、草津、浜口、大位山、スネーク奄美、デビル・ムラサキとかがいましたが一気に減った感じです。
画像7 スティーブ・オルソノスキーはジョージア?のタイトルのベルト持参での来日です。この開幕戦で原に敗れたのに最終戦で木村のIWAタイトルに挑戦するという台所の苦しさが私のようなガキのファンでも伝わってきました。
画像8 唯一といっていい希望が原の帰国です。画像を見てもジュニアの頃より体がデカくなって頼もしさを感じました。2階のバルコニーで見ていたのですが観客はガラガラ。メインの原の試合中、下の方でずーっと喋っている人がいました。見ると杉浦アナウンサーの実況が、あまりに客がいなくてシーンとしているために2階バルコニーまで聞こえてきていたわけです。全日の会場では考えられないことで驚きました。ちなみに試合はもちろん原の新必殺技の雪崩式ブレーンバスターで決着です。
画像9 もう2試合、国際の選手が出場した試合の画像をアップします。1980年12月13日の新日「MSGタッグリーグ戦追撃戦」の東京体育館大会です。浜口・寺西VS藤波・木村とラッシャー木村にストロング小林が挑戦するIWA戦です。画像が粗くてすみません。
画像10 タッグはきびきびした技の展開でいい試合だった記憶があります。寺西の独特なフライングクロスチョップ。
画像11 藤波のコブラツイストの入り方は痛みが伝わってきます。
画像12 木村の当時のフィニッシュホールドのパイルドライバーですが相手がケガしそうです。
画像13 この4人はまだ元気にご健在なのは嬉しいです。
画像14 浜口のエアプレーンスピン。この次の試合(翌年1月4日の新春パイオニアシリーズ)からスピンした後にバックフリップを見せるようになりました。原のフィニッシュホールドでしたが海外遠征中だからいいや、ということだったのか?
画像15 最後は藤波がジャーマンスープレックスで寺西をフォール。まだ憎まれ役でない時代の浜口と寺西だったのでクリーン決着に拍手が起こりました。
画像16 前年のオールスター戦で不可解なリングアウト決着だった木村と小林の再戦です。この日のセミファイナルでした。小林は翌年海外遠征を経て帰国するもすぐ戦線離脱し昭和59年8月に引退興行を行いました。国内での最後の晴れ舞台がこの試合といえます。
画像17 国際ファンが投げ入れたのか紙テープが見えます。この後に日本中からブーイングを受けるかのような展開になるとは想像がつきません。
画像18 小林はリングアナウンサーのコールと一緒にガウンをバッと脱ぐのをよくやっていました。
画像19 小林得意のロープに振ってのナックルパート。2階席で見ていたのですが、となりの大人の客が「この後でベアハッグとブレーンバスターとアトミックドロップやって負けだな」と冗談半分に言っていたのははっきり覚えています。
画像20 木村も逆エビで応戦。小林の足がめちゃくちゃ太いと改めて思いました。
画像21 お約束のブレーンバスター。フォームもきれいで説得力があります。
画像22 やはり出ましたベアハッグ。当時、子どもながらに「こんなの痛いのかな」といつも思っていました。
画像23 試合は木村が小林をさっと持ち上げてバックドロップで3カウント。へそで投げるのでなく片足を持ち上げての形です。きれいな決着という感じではなかったです。試合後に木村が「猪木選手と戦いたい」とマイクアピールした様子がこれ。「そんなの猪木に直接言え!」とヤジられていました(笑)。この当時は悪役ではなく鈍くさいと新日ファンに思われていたと思います。

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