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普通の話が、いい

あんなに大好きだったドラえもんをみなくなったのは、いつからだろうか。

ぼくはドラえもんが大好きだった。そんな小学生は山ほどいることは分かっている。それでも、あの頃のぼくのドラえもん好きは誰よりもすごかったといっていい。毎週金曜日の定期放送は欠かさずみていたし、映画「のび太の~シリーズ」は毎週のようにレンタルビデオで借りて鑑賞するほどだった。

ただ映像の世界に浸るだけじゃ飽き足らず、ぼくはドラえもんのオマージュを描いた。絵が超絶下手で苦手だったにもかかわらず、だ。タイトルは「ライべえ」。話の内容や設定はまるで忘れてしまったけれど、それはオマージュというよりほとんど劣化コピー、創意工夫も何もない、タチの悪い亜流贋物の落としものだった。それでも、姉に「へたくそ~」とこき下ろされるまではぼくのなかで名作になる手ごたえもあったほどだ。第1話を書いたきりお蔵入りとなってしまったが。

ドラえもんの魅力はここで説明するまでもないだろう。それにしても、あんな「何でもできちゃう」ワールドは、正直ズルい。無垢な子どもなんてイチコロで、心をわしづかみしてそのまま猛スピードでさらっていく。はずかしながら、幼き頃のぼくは、魔法使いも仙人もサンタクロースも動物の恩返しも、この世に存在するとどこかで思っていた。そんなぼくの目の前に現れた夢ロボットは、ほとんどブラックホールのような存在といってよく、ぜったいに逃げられない相手だったのだ。

ドラえもん沼にはまり込む生活は、おそらく小学校の卒業くらいで終わった。成長で小さい頃の服サイズが合わなくなるように、アニメや漫画も、心の背丈にあうものをと衣装替えする時期だったのかもしれない。そうしてだんだんと大人になり、いつしかマンガやアニメそのものをみなくなっていった。

今のぼくが楽しむカルチャーといえばもっぱら映画、小説だけど、いたって普通の話が多い。SFやファンタジー、ラノベ的な世界観が苦手、現実離れした話についていけない。オジサンだからかな、とも思う。設定を聞いただけで心が離れてしまうのだ。ぼくが惹かれるのは、リアリズムを追及したもの、歴史的事実として語り継がれる話、ノンフィクションの世界らしい。ドラえもんにあこがれていたころのピュアな心はもうどこにもない。

大人になった証拠とまでは思わない。おそらく、大きくなる過程のどこかで、ドラえもん的な世界に浸れる価値観から解き放たれる瞬間があったのだろう。普通の世界、普通の生活のなかで生きる人々の葛藤、等身大の人生のなかで描き出される成長や喜怒哀楽に、興味をそそられるようになったのは間違いない。「ああ、そうだよな、そんなもんだよな」という安心感をみつけられるかどうかが、みたい映画・読みたい小説を探す基準になっている。

いつも同じように営まれる生活風景は、特別なかわり映えもなく、静かに流れていく。そんな時間の織物のなかに、ほんの少しだけ彩りある刺繍をみつけると、こころがふわっと軽くなるのだ。ぼくが小説を書くとしたら、そんな話を書きたい。




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