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企画を練り練りしながら出勤した月曜の朝

月曜日の朝の出勤前。会社スマホでチャットを確認して、げっ、となった。

「〇〇さまの企画コンテンツ、今日中にご提出をお願いできますでしょうか?」

発信日時は金曜日の夜。土日に気づかなくてよかった。せっかくの休日にケチはつけたくない。それはともかく、静かなる圧迫を加えてくるメッセージに、ぼくは頭を抱え、心には小さくない反発心も芽生えた。「今日はさすがにヤバいよ……」。

本日納期の案件がすでに1件ある。しかも同じクライアント。先方の要望もあり、この案件は変則的な突貫納期で執筆することになった。月曜日はそれで手一杯だったのだ。先方もこちらのスケジュールは承知のはず。そこへきてのこのチャット。「ちょっと、どうなの?」もちろんそんな不満は表明できるわけもなく、グッと飲み込むしかない。

何とも気が重くなった。「明日にしてもらおうかな」と出勤の準備をしながら考える。今日中といっても、今日提出しなければどうかなる話でもないのだ。「今日中に」という文言もこちらに逃げ道を作らせないための先手打ちに過ぎない。

「まあ、できないこともないけどな」。企画といっても、タイトルとテーマ、見出しを設定して大まかな方向性を示すだけのものだ。しかも出す案は2記事分。やろうと思えばぜんぜんできる。

がしかし、だ。気持ちの問題なんだな。状況の問題もある。月曜日の朝という、一週間でいちばん心も体も重くなりがちな時間の谷間。ちょいちょいある無理な納期設定。本当は今日じゃなくていいのに今日しかないみたいなニュアンスのブラック要求。そんなもろもろを考えていると、ぼくのなかの悪魔がふいと顔を出し、耳元でささやくのだ。「明日でお願いします、て言っちゃいなよ」。

山手線にゆられ、会社へ向かう。扉付近の手すりに寄りかかり、流れる車窓に目を配る。見慣れた街の景色を眺めながら、頭のなかではいつの間にか企画を練っていた。最寄り駅に到着するわずか数分の間に、ポポポン、とふたつの企画アイディアが思い浮かんだ。扉が開き、駅の階段を下りる。改札を抜けて地上へ。歩きながら構成と見出しを思案する。だんだん固まってきた。会社まで十分。出勤するまでに企画はできそう、という手ごたえが生まれる。耳元の悪魔はいつの間にやら消えていた。

その日は思った以上にスケジュールをさばけた。企画だしも記事の納品もスムーズに運び、無事納品。終わってみれば残業なしの定時退社だった。こうなると朝のモヤモヤは何だったのだろうと思う。逆に、悪魔の誘惑に負けて納期をずらしていたらどんな一日になっていただろうか? 先方には喜ばれなかっただろう。スッキリした気持ちで家路に着くこともできなかっただろう。さらに濃いモヤモヤ感を夜に味わうことになったかもしれないと思うと、何だかゾッとした。


先方からの要求を、やりたいか・やりたくないかの感情で判断するのは危険だ。できるか・できないか、これがすべてにおいて優先されるべき判断基準のはずである。朝のグズグズした感情は、どこまでも感情の問題であり、時間や状況が変わればあっけなく霧消してしまう、その程度なのだ。対して、できるかできないかの事実は、客観的な判断にもとづく事実であり、時間がたって変化するようなものじゃない。だからこそ判断の柱になり得る。

感情の怖いところは、そう思った瞬間はそれがすべてだと思い込んでしまうほどに、強い支配力があること。どんなに熱く深く心に根差した感情も、朝と夜でコロリと逆転することなんてザラなのだ。「感情に流される」という表現があるけど、それは感情が水のように形を持たず変化し、本体まで飲み込んでしまう化け物だというのが本当の意味かもしれない。感情のみに流された結果、行きつく場所はたいてい後悔の二丁目、失敗の三番地だったりする。

もちろん、できる・できないを考えて率直に「できない」の審判が下れば、その旨をきちんと伝える姿勢も大事だ。そこで「できる」と答えるのは、「先方に悪いから」「断ると気まずくなるから」「クライアントの要求は断るものじゃないから」という、これまた感情による判断ということになる。その線引きもしっかりできるようになっておきたい。

何はともあれ、その日は無事に終えられて本当によかった。


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