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「なぜ好きか」の考察

誰にでもある、「好きなこと」。

人間は生きているかぎり、何かしらの「好きなこと」と出会うはず。

たとえば音楽だと、「宇多田ヒカルが好き」「サザンオールスターズが好き」というふうに特定アーティストの大ファンになったり、そのアーティストが歌う曲のなかでも「とくに『いとしのエリー』が好き」と、フェイバリットソングが決まっていたりするだろう。

あるいは「若い頃からジャズ音楽が好きだった」というふうに、「このジャンルしかない!」という偏愛、ファナティックな愛のかたちもある。映画や文学、スポーツなどもそうで、「好き」のかたちと種類は十人十色だ。

「好き」の表明だけならただの感情表現にとどまるが、好きな理由を説明するとなると、論理が必要だ。

思いだけじゃなく、その奥にある根源的なものを問い直すことで、好きなものと正面から向き合い、それを好きでいる自分自身を見つめなおすことにつながるのではないか。

そんなもっともらしく動機を語ったところで、僕のなかにある「好き」の理由を開陳したい。

「好きなものは何ですか?」と聞かれて、まず頭に思い浮かぶのは「歴史」。

歴史好きを自覚するようになったのはいつ頃だろうか。小学校時代の記憶をひもとけば、家族と一緒に時代劇をよく見ていた覚えがある。

ストーリーがおもしろいというより、非日常感まんさいの時代劇の雰囲気が好きだった。たとえば水戸黄門では印籠をかかげるシーンやお色気たっぷりのおぎんさんの入浴シーンが人気だが、僕は純粋に時代劇のもつ古めかしさや今日まで語り継がれる価値観だ好きだった。

時空という名の地底をドリルで深く掘削していけば、おかしなかっこうをした男女がいて、いまとは違う話し方をする人たちに出会える感動。新しい発見。現実離れした世界への好奇心、と呼べるものかもしれない。

子どものころよく見ていた時代劇が、今の歴史好きの原点とまでは言わないけど、そのときからすでに異なる時代へのあこがれや興味はあったような気がする。

歴史を探る魅力は、異世界を旅する楽しさがあるところだろうか。

僕にとって、山本周五郎や司馬遼太郎、松本清張、藤沢周平といった時代小説を読むことは、ファンタジー小説の世界にひたる感覚とそう遠くない。弥生時代や縄文時代を生きた人々というのは、銀河系のどこかの星に住む宇宙人と、ほとんど一緒じゃないだろうか。

それくらい「遠い存在」であり、文化的な断絶や時代環境の違いはある。けれどフィクションではなく、ひとつの時代に存在したという事実の重さ。それを思ったとき、僕は単純に感動するのだ。

歴史好きの間では、名刺交換のように「何時代が好きですか?また歴史上の人物で誰が一番好きですか」というやりとりが交わされる。ここから分かるとおり、歴史好きを公言する人はたいてい、特定の時代をひいきにして語る傾向が高い。

ぼくはどちらかというと、時代でくくるのではなく、「歴史の概念」そのものが好きというタイプだ。

どんなものにも、歴史はある。企業のあゆみは社史として残るし、JPOPの成り立ちをみるには日本の音楽史をひも解かねばならない。音楽を愛する人たちは知らず知らずのうちに、長い日本の音楽の歴史にたずさわる当事者ともいえる。

だから、歴史とは決して、一つの時代の為政者や支配者たちの一生を記録するためのものではないのだ。もちろん、アカデミックな立場にいる人が独占するものでもない。

「今ここにあるもの」はすべからく歴史の奔流の途上といえる。そんなダイナミズム感に触れることで、何か大きな感慨深い境地を手に入れた気がするのだ。

僕が歴史に惹かれる理由はこんなところだが、分かりやすく伝わったかどうか、ちょっと自信がない。ライターのくせに…。

歴史が好きな理由をつらつらと述べてみたけど、客観的にみて酒の席で語るような内容ではないな、とは思う。歴史になんの興味ももたない人が聞かされたら、あつくるしい以外の何ものでもないだろう。このnoteの収穫は、好きなものを語る自分を客観視できたことかもしれない。

しかし、そんなものだろう、とも思う、何かを好きになるということは。自分のなかでその存在を愛し続ければいいものだし、わざわざ理由なんて語る必要もないだろう。手のひら返しのようだけれど。聞かれたら、「好きだから好き」「おもしろいから」この程度でいいのかもしれない。

と書くと、言い訳に聞こえてしまうな(笑)ひょっとすると、なぜ好きなのかという理由をうまく伝えられる言葉がまだみつかっていないのかもしれない。このテーマは、ちょっと宿題にさせてください。すみません。

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