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西郷隆盛が初対面の橋本左内に心酔した話

いまはむかし、西郷隆盛と橋本左内というふたりの若者がいた。西郷は薩摩藩、橋本は越前藩と、いずれも尊王運動をリードする有力藩の名臣として、同時期に活動したことがある。ともに将来を有望視されれた逸材で、お互い会ってみたいと関心を抱いていた。

時は幕末。世は将軍継嗣の問題で揺れていた。13代将軍徳川家定は幼少のころより病弱で、そのうえ子がなかった。家定の後継を誰にするかという問題で、水戸藩藩主徳川斉昭の長子・一橋慶喜を推挙する声があがった。慶喜の聡明ぶりは天下に聞こえており、尊王か攘夷かで揺れ動く国内情勢を鑑みても、申し分ない器であった。

ところが、これに異を唱えたのが大奥の女中たちである。反対したのは単に彼女たちが水戸嫌いだったからだ。正確に言うと藩主の斉昭が嫌いであった。その理由は諸説あるが、斉昭のあまりにひどい好色ぶりを彼女たちが嫌悪したと伝わっている。

そんな大奥が担ぎ出してきたのが、紀州家の当主慶福(後の家茂)だった。慶福は当時まだ十二歳。確かに紀州家は御三家のひとつで将軍職を継承できる資格を持つが、たんに容姿端麗ぶりが彼女たちに受けただけで、将軍としての器があるか否かははなはだ疑問であった。

越前藩や宇和島藩、土佐藩、薩摩藩などの雄藩はこぞって一橋慶喜を推したが、幕政に大きな影響力を持つ大奥の意向は無視できない。そこで一橋派の越前藩や薩摩藩が中心となって京都や江戸で工作を試みた。西郷隆盛と橋本左内はそれぞれ藩主の側近として奔走した。このような動きを背景として、ふたりは出会ったのである。

ふたりが初対面を果たしたときのおもしろいエピソードが残っている。左内は西郷の高名ぶりをうかがい、会ってみたいと思っていた。それが叶って西郷を訪問することになったが、そのとき西郷は薩摩藩の若手たちと一緒に相撲を取っていた。稽古場では、血気盛んな薩摩の男たちが鍛え上げた肉体を激しくぶつけ合っている。そんなときに色白で細身の青年がひょっこり顔を現しても、西郷はただの見学者くらいにしか思わず、無視して相撲を取り続けたという。が、この男こそ越前の異才・橋本左内だと知って恐縮し、丁重に出迎えた。実際話を聞いてみると、そのやさしい風貌からは想像しがたいような卓見が次々と飛び出し、西郷はたちまち感服したといわれている。

この話がどこまで本当かは分からないが、いずれにしてもひたりはその場で共鳴し、生涯の友情を誓い合った。西郷は後年、「わたしが生涯の間にもっとも影響を受けたのは、先輩としては藤田東湖先生、同輩としては橋本左内先生のふたりだ」と語ったとされる。



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